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フランソワ・クープラン《Les Nations》 [音楽]

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François Couperin

バッハの時代以前に遡ることへの私の興味は、リチャード・パワーズの『オルフェオ』がきっかけである。主人公エルズと彼の幼なじみだったクララは大人になってからイギリスで再会するが、もはや彼女は新しい音楽への興味を持った才気煥発な女の子ではなく、バロックとバロック以前の古風な音楽に絡め取られていて、エルズは彼女から神々しさが失われていると感じる。古風な音楽は一種の迷宮であり、そこに深入りし、奏でられる音楽をエルズは 「永遠に忘れ去られていたかも知れない不揃いな真珠」 と形容する。それは幻滅と訣別を意味し、エルズはクララを捨て去るのだが、クララの神々しさを失わせた音楽の迷宮とはなにかということに私はかえって惹かれたのだった。クララが輝きを失ったのは、その生命を古楽に吸い取られたからである。では彼女を形骸化してしまった魔の音楽とは何だろうかというのが私に与えられた命題のように思えた (パワーズ『オルフェオ』については→2015年10月23日ブログ参照)。

だがスウェーリンクもそうだしシャルパンティエもそうだが、そんなに簡単に答えは出ない。シャルパンティエからマラン・マレへと視野が広がっていくことによって闇はさらに曖昧になり、深い森はさらに深くなる (マラン・マレについては→2019年05月01日ブログ参照)。そのラインハルト・ゲーベルのアルヒーフ盤《Le Parnasse français》のセットの中にあるクープランを聴く。以下は初心者バロック・ファンのひとりごとなので、見当外れなことがあってもご容赦のほど。

フランソワ・クープラン (François Couperin, 1668-1733) はフランスのバロック期の作曲家で、J・S・バッハ (1685-1750) よりやや前の人である。でもクープランというと、クープランより《クープランの墓》のほうが有名なのかもしれないという危惧もある。
ラヴェルの《クープランの墓》の中には〈リゴドン〉という曲があって、あたかもセリーヌのようだが、ラヴェルの命名は昔の舞曲配列のイミテーションであり、そしてリゴドン (rigodon あるいは rigaudon) には鐘の意味もあるという。同じラヴェルの曲にある〈鐘の谷〉の cloche とはどう違うのだろうか。というようなことは単なる些末な連想に過ぎないのでどうでもいいことなのだが。

クープランでもっとも重要で有名なのはクラヴサン曲集であるが、ゲーベルのセットに収録されているのは《Les Nations》(1726) という室内楽であり、それは4つの組曲からなっている。ordreという序数を使い、1er ordreから4e ordreまであるが、それぞれが La Françoise, L’Espagnole, L’Impériale, La Piémontaise と名づけられているのがまさにレ・ナシオンであって、しかしこれらは以前に書かれたトリオ・ソナタが元になっているとのことである。1erがトリオ・ソナタ《少女》(La pucelle, ca,1692)、2eが《幻影》(La visionnaire, ca.1693)、4eが《アストレ》(L’Astrée, ca.1693) に対応する (1er ordreがwikiではLa Françaiseと表記されているが、アルヒーフのパンフレットでもIMSLPの楽譜タイトルでもLa FrançoiseとなっているのでLa Françoiseとする)。

構成はどの組曲もほぼ同様で、最初に比較的長めのソナタが置かれ、その後に舞曲が Allemande, Courante, Sarabande といった伝統的な順序で配列される。ただ、クーラントの後にはスゴンド・クーラントがあり、組曲終結部はGigueで終わったりMenuetだったり、定型的ではない。2eのL’Espagnoleの場合、終曲はPassacailleだ。しかし1erでは7曲目にChaconne en Passacailleがあり、その後、Gavotteがあり、Menuetで終わる。
それよりも認識を新たにしたのは、パッサカイユ (つまりパッサカリア) が、たとえばバッハの《パッサカリアとフーガ》を聴いて知っているようなパッサカリアかと思うと、全くそうしたパッサカリア的曲構造を備えてはいないことである。それは定型的な舞曲の曲名とその出現順である Allemande → Courante → Sarabande の流れを聴いても、バッハのようにそれぞれの舞曲がその舞曲特有の基本パターンを備えていて、それを展開させるという技法とはやや異なるのではないか、という印象を受けたのである。
話がわかりにくいかもしれないので、パッサカリアを例にとると、バッハの場合、パッサカリアは低音にテーマの繰り返しがあって (オスティナート)、その執拗なルフランの上に異なる幾つもの変奏が乗って行く構造であるというようなイメージがある。しかし、クープランのパッサカリアは、これパッサカリアなの? というように、どこがパッサカリアなのかがわからない。それはバッハのパッサカリアのような特徴的なクリシェが出現しないからなのである。
しかしそれは間違いであることがわかってきた。つまりバッハのパッサカリアはバッハの提示したパッサカリアであって、それは一般的に示されるパッサカリアではないのだ。パッサカリアはシャコンヌ (チャッコーナ) と対比して考えられる変奏曲の形式に過ぎず、パターンそのものの定義はもっと緩いものであるように思われる、というのがとりあえずの私の理解である。

ja.wikiのアルマンドには次のような解説がある。

 16世紀のフランスでは 「地面に足をつけた中庸の遅さ」 (トワノ・アル
 ボ 「オルケゾグラフィOrchésographie」 1589年) の2拍子のダンスで、
 組になった男女が列を作って進みながら踊るダンスであった。パヴァー
 ヌに似ているが、それよりは若干速いとされる。この時代のアルマンド
 のダンスは、アルマンド本体、retourと呼ばれる同じリズムの部分、そ
 れに続き拍が3分割されるクーラントと呼ばれる部分で構成されていた。
 イタリアに移入されたこのダンスも、同じようにアルマンド本体と3拍
 子のコレンテ、またはサルタレロなどが組になっていた。

コレンテはクーラントのイタリア語読みであり、この解説によるとアルマンドとクーラントはセットとして考えられていたように思われる。fr.wikiには 「Dans la suite de danses baroque, l'allemande occupe en général la première place avant la courante;」 とあり、en.wikiのアルマンドの項にも 「paired with a subsequent courante」 と記述がある。

少し前にヴィヴァルディを聴いていて、通俗的だと今まで思っていた音の中に何か異なる意味があるようなことに突然気がついた。イタリア・バロックもフランス・バロックも、延々と同じパターンの繰り返しのように聞こえて変化がない、と私は思っていたのだが、その微妙な変化しかないことこそがラテンのバロックなのだ。ドイツは、特にバッハは、その論理性で楽曲を明快に構成し変化させ築き上げる。だからアルマンドとクーラントも区別がつくように切り分けられている。だが、たとえばクープランはそうではないのだ。単純な符割りのように思えてそこに複雑なリズム感覚が存在している。アウフタクトのようにして始まりながらいつの間にかそれが解消され、どこからかまた変わってゆくような眩暈のリズム。でもそれは意図して作り上げた錯誤のリズムではない。拍動は必ずしも一定しないこと、つまり縦線の存在が弱いのだ。だからそれが2拍子であっても3拍子であっても、その差異を寄せ付けない何かがあるような気がする。緩いのだけれどだらしなく緩いのではなく、バッハ以降の厳密な感覚とは異なるゆるやかな縛りをそこに聞くのだ。


Reinhard Goebel/Musica Antiqua Köln
Le Parnasse français (Archiv)
Various: Le Parnasse Francais




Les Ombres/François Couperin: Les Nations (ambronay)
F.クープラン: 諸国の人びと - 3声の合奏のソナタと組曲(全曲) (Francois Couperin : Les Nations / Les Ombres - Margaux Blanchard, Sylvain Sartre) (2CD) [輸入盤]




Les Ombres/François Couperin: Les Nations,
premier ordre ”La françoise”
Chaconne en Passacaille
https://www.youtube.com/watch?v=ELMFYdZuvM8

Reinhard Goebel, Musica Antiqua Köln/
François Couperin: Les Nations (1er et 2e 全曲)
Chaconne en Passacaille は15’55”~
https://www.youtube.com/watch?v=seM902c432Y
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末尾ルコ(アルベール)

わたしにとってフランソワ・クープランは、NHK FMの「クラシック番組でよく耳にする人」でして、自分から探求を試みたことはないのです。
まあそのような人物はとても多いのですが、こうしてお記事を拝読させていただけることで、いつも入り口の前でぼうっとしていた自分が少しだけ(この場合はクープランの)家の中へ入ることができた・・・そんな有難い感覚です。
とは言えお書きになっておられる内容には、(へえ~、そうなのか)という感想くらいしか書くことができず、(へえ~、なるほど)と得心できるレベルではない自分に歯痒い思いです。
NHK FMに『朝のバロック』という番組がかつてあって、毎日聴いていた10代の頃もあったのですが(笑)。
「バロック名曲集」なんてカセットも買ってたことを思い出しました。

> その微妙な変化しかないことこそがラテンのバロックなのだ。

ここはわたくしのようなクラシック蒙昧男(笑)でも朧げに理解できます。
ドイツとラテンはまったく違いますよね。(←とてつもなく素朴な印象 笑)

> 単純な符割りのように思えてそこに複雑なリズム感覚が存在している。

このお言葉も、もちろん具体的には分かりませんが、大掴みには分かる気がいたします。

・・・



> idiotの製造機でしかないのですが

昨今拍車がかかってますね。
ブログ記事にも書きましたが、最近ギャル曾根が出ている大食い企画を初めて見たのですけれど、グロテスクに盛られた料理をタレントが食べている姿を延々と映しているだけで1時間枠の番組を成立させておりました。
この内容を喜んで観ている視聴者が多く存在するであろうことに驚きです。



>でもそれは一種の韜晦

椎名林檎に明るくないわたしもその点は分かる気がします。
どう見てもクレバーな人のようですから、自分を突き放して観察できる感じがありますね。


>抽象的になればなるほどステージ・パフォーマンスはカッコイイですね。

そういう傾向があるということですね。
歌詞とステージパフォーマンスとの関連、今まではあまり意識してませんでした。
そう言えば、バレエも抽象度が高い方がカッコいいような。

> むしろ流行のものから遠ざかろうとする

それは素敵な生き方です。
無頓着と言うよりも、「遠ざかる」というお言葉がいいですね。
わたしは決して流行には乗りませんが、(把握はしておこう)という意識がありまして、そうするとテレビやネットの益体もない情報を得てしまい、無駄にストレスが溜まったりします。

>なにかの負のパワーが存在するような

何か感じてしまいますよね~。
この前、「行儀」という言葉について触れておられましたが、そのような言葉や概念をせせら笑うような集団意識とでも申しましょうか。
行儀や品性といった言葉を侮蔑する社会からは当然「いいもの」は続々と消えていくのでしょうし、現代はまさにそれ。
とにかく経済効率上「無駄」と勝手に誰かが決めたものは、どんどん消されていっている感ありです。

わたしも最近は映画館へなかなか行けないので何なのですが、柄本佑のような若い俳優が、どんなに忙しくても頻繁に映画館へ足を運ぶという話を知ると嬉しくなります。
ただ高知のような地方都市だと、上質な作品の上映があっても若い人の姿は滅多に見かけません。
若い人だけでなく、人間の姿をほとんど見かけないような上映もありますが(笑)、東京だと古い映画の上映でも、けっこう若い人の姿を見かけます。

> 今よりもずっとグローバルだったような気がします。

そうなんですよね。
音楽はもちろんのこと、他のジャンルも多くの日本人が外国文化に高い関心を持っていました。
なぜ現在のようになってしまったか・・・という以前に、かつての外国文化への関心の理由の一つが外国(特に欧米)コンプレックスだったことは疑いようがなく、米国に次ぐ経済大国となった時期くらいから徐々に「日本が外国より優れている」という意識が育ってきて今に至っている感は強いです。
以前からコンプレックスに依らずに外国文化を愛好していた人たちも存在し、その人たちは当然ながら極端に「日本が外国より優れている」などと思い始めることはなく、結局この意識はコンプレックスと表裏一体なのだと思います。

『白鯨』は凄い文学ですよね。
度肝を抜かれます。
まだ読破はしてないのですが(笑)。
このレベルだと、そもそも一度読んだだけで理解できるなんてあり得ない気がします。      RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-06-12 19:30) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

正直なところ、私も同じようなスタンスです。
数多くのバロック、前バロックの作曲家の中で
比較的有名な人というくらいの認識しかありませんでした。
ただ、以前、ヴィヴァルディに関して書いたときからですが
バロックに関する認識が私の中で変わってきたのではないか、
と思います。
バッハは最も有名なバロック期の作曲家ですが、
音楽の中心はイタリアにあり、ドイツは辺境でした。
したがってこういう言い方は極端かもしれませんが、
バッハやドイツ系の作曲家が負けるものかとがんばって
音楽の隆盛を勝ち取ったのでは、というイメージもあります。
イタリアやフランスは爛熟していたともいえるわけで、
でもたとえばラテン系はオペラなどに活路を見出し、
寒い地方では厳格で深刻な交響曲などが発達していった
というように考えることもできます。
そしてクープランはともかく、もっと2流~3流の作曲家が
その時代の要請の中でどのように作品を作っていたのか、
またなぜそのような潮流があったのかということにも
興味があります。
わかりやすい喩えでいえば、
モーツァルトはある程度知っているので、
それよりサリエリは果たしてどうだったのか、
というような興味です。
これはあくまで音楽史的な視点であって、
一般的な音楽の嗜好からするとズレるのかもしれません。
でもクラシックというと、ベートーヴェン、ブラームスみたいな
いつも同じ作曲家と作品の繰り返しみたいなのよりも
もっと未知の領域のほうに私の興味は向かって行きがちです。

バロック期の楽譜は、現代の厳密な楽譜から較べると適当です。
旋律は大体ありますが、細かい装飾音は記号によって表し、
その通りに弾いてもいいし弾かなくてもいいし、
少しくらい変えてもいいし、意外に自由があります。
繰り返しがある場合、1回目と2回目は違っていた方がいいし、
時と場合に応じて考えろ、というような暗黙の了解があります。
低音部はメロディしか書いてなくて、数字付き低音というのですが、
これは一種のコード記号で、それに基づいて後は適当に弾いてね、
ということになっています。
つまり鍵盤奏者は軽いアドリブで弾いているのです。
傾向は違いますがジャズと同じです。
でもそのような、ある程度奏者に委ねられた緩い制約が
音楽本来のかたちなのではないかと思うのです。

あぁ、ギャル曽根。フードバトルみたいな番組もありますね。
私は前の記事の小西康陽のコメントにもありましたが
食べ物についてあまりあれこれ言うのはお行儀が悪いというか、
もっといえば意地汚いというか、
そういう古いかもしれない考え方を
祖母から刷り込まれてしまっていますので、
TVのその手の番組にはほとんど興味がないのです。
というより、幾らおいしいものを食べる場面を見せられても
自分が食べているわけじゃないですし。
それと大きな口を開けて物を食べている状態の絵柄、
そういうのがよくTVCMにもありますが、
ああいうのを生理的に受け付けないんです。
世の中がいつも大騒ぎというかお祭り状態というか、
それはTVが演出したものであって本当はそうじゃないんですが、
それを真似するから居酒屋はいつも喧噪の中にありますし、
安直なバラエティ番組ばかりが跋扈するのです。
何と言っても制作費が安く済みますから。(笑)

お役所も大きな会社も、郵便で書類を送るとき、
どこでも例の3つ折りの圧着ハガキというのを使っていますが、
あんなキモチワルくてクルクル丸まってしまう最低なものを
どうして使うのでしょうか。すべて経済効率であって、
それを開いて見る受取人のことを考えていません。
圧着ハガキのメーカーとの癒着もあるのでしょうね。

映画館には私はほとんど行かないので
そのへんの事情がわからないのですが、
やはり映画館で観るべきだというのになるほどと思いました。
若いかたでも、それが重要だと考えているのは
素晴らしいと思います。
小西康陽さんはやはりデジタルよりフィルムだ、
とも書かれています。

コンプレックスというものは一瞬で変化するようです。
それが良い方向へのコンプレックス、
つまり、なにくそがんばろうという前向きなのなら良いのですが、
負の考え方、または驕りであったりすると
ロクなことは無いのですけれど、
日本が外国より優れているというのはまさにその驕りです。
by lequiche (2019-06-14 15:25) 

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