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ルツェルンのユジャ・ワン [音楽]

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Yuja Wang

ユジャ・ワンの別の演奏を探していたとき、たまたまYouTubeで見つけたプロコフィエフがあったのでそのことについて書いてみたい (尚、前回書いた簡略な記事はこれである→2018年05月12日ブログ)。
ユジャ・ワン (Yuja Wang, 1987-) は中国人のピアニストであるが、かなり多くの録音がリリースされていてとても追い切れない。彼女はテクニックのことばかりが言われるが、問題はテクニックではなく、難曲の中からどのようにその作品のテーマを、あるいは情感を汲み取れるか否かにある。

プロコフィエフの〈トッカータ〉(toccata d-moll, op.11) は1912年、まだサンクトペテルブルク音楽院に在学中の21歳のときに書かれた小曲である。1912年にはピアノ・コンチェルト第1番 op.10、ピアノ・ソナタ第2番 op.14などが書かれているが、それらは若きプロコフィエフの才能が開花し始めた頃であるとともにロシア帝国の末期であり、それ以後の彼の一生を考えると、最も幸福な音楽環境の時代だったといえるのかもしれない。1917年にロシア革命が起こり、ロシアはソヴィエト連邦となるが、共産主義とは文化芸術を蹂躙するだけの政治体制であり、それは彼の死まで継続してその才能を阻害した。

プロコフィエフの〈トッカータ〉はシューマンの〈トッカータ〉に影響されて作られた曲だという。どちらも急速ないわゆる常動曲で、延々と積み重ねられてゆくリズムの動きと全体の佇まいが確かに似ている。だがもちろんプロコフィエフのほうが現代的であり、無調に近い。
どちらも短い曲でありインパクトがあるので、アンコール曲とするのには好適である。シューマンの場合、唯一、繰り返し出てくる明確なメロディのようなものがあるが、その弾き方でピアニストのスタンスがわかるような気がする。シフラはそのメロディを大切に叙情性をこめて扱うが、ポゴレリチだと他の部分とそんなに分け隔て無く、均等に弾いてしまう。リズムに対する感覚もシフラとポゴレリチは対照的で、シフラは全体的に流麗、ポゴレリチは棘がある。私の感じ方では、シフラには 「シューマンなんだからこのくらいの感じで」 とする予めの意図があり、ポゴレリチには 「シューマンでも現代曲でも同じじゃん!」 とする均質化の認識があるように思える (もっともポゴレリチは現代曲や現代曲に近い曲は弾きそうにない。なぜなら古典を弾いても現代曲風だからなのだが)。

さて、ユジャ・ワンのプロコフィエフの〈トッカータ〉だが、下にリンクしたのは2018年ルツェルン音楽祭におけるライヴで、プロコフィエフのピアノ・コンチェルト第3番の演奏後のアンコールの映像である。彼女は繰り返しプロコフィエフのコンチェルトを演奏しているので得意曲だと思われるが、同じプロコフィエフを得意としているピアニストにエル=バシャがいて、そのエル=バシャの同じ曲を較べてみると面白い。エル=バシャのほうが音の輪郭がかっちりとしていて厳格だが、しなやかさではユジャ・ワンのほうが聴きやすくて心地良さがある。
かつてエル=バシャの弾いたプロコフィエフのソナタ第2番を聴きながら、私は同曲のリヒテルの弾き方について不満があると書いたが (→2012年06月17日ブログ)、もっと言えばリヒテルってこの曲がわかってないんじゃないの? というくらいの疑いだったのだが、逆にいうとどんどん現代的に弾いてしまうと、このプロコフィエフに付随していた時代の色彩がふり落とされてしまうのかもしれない、とも今になると思う。だが同時にそんな時代の古びた色彩など消し去ってしまったほうがいいと考える自分も同時にいて、なぜならプロコフィエフの作品はそれだけで自立しているのだから歴史という泥臭い幻影など不要だとも思うのだ。

そしてユジャ・ワンのピアニズムには余裕があって、だからこの複雑でわかりにくい曲想から立ちのぼってくる香気が、若きプロコフィエフの言葉を紡ぎ出しているようにも聞こえる。プロコフィエフのほうがショスタコーヴィチよりわかりやすいのは、彼がショスタコーヴィチほど屈折していないからだろう。
バルトークの弦楽四重奏曲がベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲に対するオマージュであることは、全く関連性の無いような印象を持ってしまうかもしれないのにもかかわらず自明のことであるが、そこに存在するバルトークの屈折した心情とは異なり、このシューマンとプロコフィエフのトッカータの近似性はもっと具体的で、それは単純なテクニックの積み重ねによるメカニカルな表現が、作曲家の抽象性への美学に対する共有感覚として同一だからである。
そうしたアプローチは若きプロコフィエフがその後に経験することになる革命という名の愚劣で悲惨な状況の裏に潜むくだらなさとか、その後のジダーノフ批判というような痴呆的で愚鈍な腐敗をあらかじめ無意識的に予想し無化していたように私には感じられるのだ。音楽は政治性という醜悪な圧力には無力であるが、それゆえに醜悪になろうとする素地を持たない。

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Abbado, Wang/Lucerne Festival, Mahler, Prokofiev (Euroarts)
Lucerne Fest / Mahler Sym 1/ Prokofiev Piano Cto 3 [Blu-ray]




Yuja Wang/The Best & Rarities (Deutsche Grammophon)
Best & Rarities




Yuja Wang/Prokofiev: Toccata op.11
As broadcasted by ARTE TV. Lucerne Festival 2018
https://www.youtube.com/watch?v=AVpnr8dI_50

Abdel Rahman El Bacha/Prokofiev: Toccata op.11
https://www.youtube.com/watch?v=XYFpfFsbshk

《参考》
Ivo Pogorelić/Schumann: Toccata op.7
https://www.youtube.com/watch?v=EUHobIa3TL0

György Cziffra/Schumann: Toccata op.7
https://www.youtube.com/watch?v=NncHj0BKCps

《参考の参考》
Yuja Wang/The Best & Rarities (アンコールなどのベスト盤)
https://www.youtube.com/watch?v=yIAk61xEZ80&list=PLkLimRXN6NKxB7z1YvaIxkEWWjatj4Oi9
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末尾ルコ(アルベール)

中国人(あるいは中国系)、韓国人(あるいは韓国系)がクラシック音楽界ではよく活躍してますね。
バレエ界もそうなんです。
やはり国家的取り組みがあるのでしょうか。
それともあくまで個人的なエリート育成の慣習があるのでしょうか。
まあ日本人もクラシック音楽、そしてバレエ界でよく活躍しています。
ただバレエの場合は肉体を駆使する芸術であるためか、東洋人で世界のトップ中のトップにはなかなかなれないようです。
いずれにしても東アジアの国々とは本来縁の薄かった芸術の世界でのこれだけの活躍ですから興味があります。

ユジャ・ワンの演奏は時々聴きます。
と言っても、どの演奏がどうとか、わたしが語れるのはいつの日かという感じですが(笑)、本日のお記事も今後の鑑賞を豊かにしてくださること間違いありません。

>作品のテーマを、あるいは情感を汲み取れるか否かにある。

このような鑑賞姿勢、わたしにはまだまだできないのですが、努めてそのように聴こうとはしております。
情感というもの、いかなる芸術においても中心に据えて鑑賞すべきですよね。
ユジャ・ワンとエル=バシャの比較も、わたしのような一介の中途半端なクラシック愛好家にもとても分かりやすいです。
もちろん演奏そのものを理解できたのではなく、お記事を拝読させていただきながら、一歩でも踏み込めた、そんな気がします。

> 醜悪になろうとする素地を持たない。

もちろん主観が過ぎることには警戒しなければなりませんが、「本質において醜悪であるか否か」はものごとの大きな判断基準の一つとしたいものです。


・・・

> バッハやドイツ系の作曲家が負けるものかとがんばって

ドイツにはそのようなイメージがありますね。
どうしても歴史的にイタリアやフランスなどよりも遅れてしまったとドイツ人自身も認識しているし、イタリアやフランスからはその認識がより強かったのでしょうね。
そして遅れを取り戻そうという時の国家的集中力は凄いものがある。
そうした最悪の表れがナチス・ドイツだったのかもしれません。
フランス人の友人も、彼は基本的にどんな国でも尊重するタイプなのですが、ドイツ人の生硬さやドイツサッカーの集団主義についてはいささか揶揄的に語ります。
わたしはサッカーを観ないので違いが分かりませんが、ドイツサッカーとフランス、イタリアはまるっきり違うと言います。
さらに余談ですが、ドイツ語にもフランス語にも堪能な英国人女性(例の付き合ってた人ではありません 笑い)によると、「ドイツ人男はつまらない」「ウィーンの人たちはドイツ人のドイツ語をバカにしている」ということでした。
まあ彼女の印象に過ぎないので、現実がどうかは分かりません。
それにしても、「ドイツ人の頑張り」の中で、音楽は最も充実した成果を生んだ分野の一つでしょうね。

> それよりサリエリは果たしてどうだったのか

そうしたご興味の方向性が素晴らしいなと、いつも刺激をいただいております。
どうもわたしはいろいろな意味で余裕がないのかもしれませんが、多くの分野で「中心に位置するもの」への興味に留まっていることが多い傾向にあります。
好きなことをより豊かにするには、興味の目線を周辺にまで持って行くことも大切ですよね。

> つまり鍵盤奏者は軽いアドリブで弾いているのです。

へえ~、そうなのですか!
と書いても、その違いがすぐに理解できるわたしではありませんが(笑)、この点は今後意識して聴いていきたいと思います。
わたしのようにクラシック音楽に明るくない人間にとって、それぞれの曲は「一かたまりの存在」として耳に入ってくるのです。
つまり細部がぜんぜん見えてないわけですが、こうして知識をいただくに従って、少しずつ細部のイメージができるようになってくるのです。
いつも有難うございます。


> ああいうのを生理的に受け付けないんです。

正常な感覚であればそうですよね。
いかに世の中が正常な感覚を喪失しているか。
テレビの影響はかつてよりも低くなっているとは思いますが、それでもバラエティ番組などに影響される人たちはとても多いですね。
バラエティ番組でやってることは「自分もやっていい」、あるいは「自分もやらなきゃいけない」と思い込んでいる人たち大多数です。
特にわたしが嫌いなのが、「公の空間」という理解ができない人たちで、居酒屋はもとより、カフェやレストランなどでも大量跋扈しております。

> それを開いて見る受取人のことを考えていません。

経済効率によって、日本人の美的感覚は壊滅状態になりつつありますね。
確かに圧着ハガキが来ていたら、何か腹立つんですよね(笑)。

RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-06-17 20:07) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

あ、国策なんですか?
どうなのでしょうか。そのへんの事情はよくわかりません。
バレエもそうなんですか。
フィギュアスケートなども似た傾向がありますね。

一流の音楽家の場合、デラシネというほどではないのですが
国籍とか故郷といったことから遠ざかるのではないか、
と私は感じています。
国際人という言い方は私は嫌いですし、
そういうニュアンスとは違うと思うのですが、
つまり何国人であるかということに対して稀薄です。

こういう曲の場合、いっぱいいっぱいで弾いていたら
それ以上の音楽的感興というのは成立しません。
ある程度の余裕がないとそこまで到達しないのではないか、
と思います。

プロコフィエフとかラフマニノフとか、
以前はよくわからなかったという印象があります。
わかったようなフリをしていたけれど、
実はよくわかっていなかったような。
では何がわかるようになったかというと
説明がしにくいのですが、
それをどのように言葉にするのかが私にとっての課題です。

醜悪というのはつまり政治そのものを指す言葉であって、
今の香港がまさに具体的な例です。
理想的な音楽の本質はそうした損得勘定とは無縁なはずです。

あぁ、サッカーってそうなんですか?
何事もかっちりとしなければならないというのは
ドイツをよく象徴した表現ですし、
ナチスはそうしたドイツ人気質のあらわれのひとつですね。
バロック音楽の頂点はバッハであるし、
古典の頂点はベートーヴェンみたいな価値観がありますので、
私もずっとそうだと思っていたのですが、
そうとは限らないのかも、と思うようになってきたのです。
そのきっかけとなったのはドメニコ・スカルラッティです。
スカルラッティの書き方は私にとって一種の魔術なのです。
バッハは崇高で精密で完璧だけれど魔術ではない。
スカルラッティはやや妖しげで手品に騙されてしまうような、
そういう印象があります。
でも騙されるほうが楽しいことだってあります。
遊び心ですね。

サリエリはあまりにも映画《アマデウス》の影響が強過ぎて
すごく悪者みたいに思われてしまっていますが、
最近は少し再評価の機運があるようです。
井伊直弼なんかもそうですが、いわゆる風評で
本質が見えにくくなることはよくあります。

音楽も厳密な校訂とかウルテキストみたいな概念があって、
原典に忠実にという志向は良いのですが、
それが強くなり過ぎると不自由な枷となります。
バロックの頃まで、音楽はかなりアバウトだったのです。
そしてジャズやロックもアバウトなもののはずです。
何事も少し自由な部分がないと息が詰まります。

「公の空間」 という認識、確かにそうです。
「公」 なんだからそこで何やってもいいんだ、というのが
今の平均的認識なのではないでしょうか。
つまり 「やったもん勝ち」 の世界です。
図々しい人間のほうがトクをするということです。
圧着ハガキだって 「やったもん勝ち」 なのです。
オリンピックはおもてなしの精神で、とのことですが、
「おもてなしの精神」 なんてホントにあるんでしょうか?
その言葉自体がギャグなのかもしれません。
だってこの国は土台がすでにバラエティですから。
by lequiche (2019-06-19 01:10) 

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