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鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう?』を読む [本]

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Margaret Mitchell (1900-1949)

NHKの《100分de名著》の放送の中にマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』があって、その講師が鴻巣友季子だった。『風と共に去りぬ』というのは大ベストセラー小説であるだけでなく、映画としても有名で、原作も以前読んだことはあったけれど、もうほとんど忘れているし、正直にいうとストーリーは波瀾万丈だけれど通俗なのではという先入観もあったはずである。

だがNHKサイトの鴻巣友季子の解説コラムを読んで、そうした先入観は打ち破られてしまう。先入観というよりも今まで気がつかなかった視点だ。それは次の個所である。

 『風と共に去りぬ』という作品に言葉の当事者として関わっていくなか
 で、初めて気づいたことがいくつかあります。一つは、この作品が持つ
 高度な文体戦略です。これについても、このテキストで解説していきま
 す。本作について、その歴史的背景や社会的意義を掘り下げた研究書は
 数多くあるのですが、ミッチェルのテクストそのもの――彼女が織り上
 げた巧緻 (こうち) な文章――を分析する評論は圧倒的に少ない。つま
 り、「何が書かれているか」 は存分に説かれてきたものの、「どのように
 描かれているか」 はあまり論じられてこなかったのではないでしょうか。

そして先日、買っておきながら読んでいなかった『翻訳ってなんだろう?』という新書版のその明快な翻訳に関する解説に、ある個所は何度も繰り返し読んでしまうほどの感銘を受けた。私には翻訳における細かいニュアンスの違いがわかるような理解力・語学力は無いが、このように説明されると、あぁそうなのかと納得してしまう。
もうひとつ、目からウロコだったのは前述解説コラムの次の個所である。

 わたしは2015年に『風と共に去りぬ』の新訳を刊行しました。一般的
 に翻訳とは、外国語を日本語に移して 「書く」 作業のことだと思われて
 いるようです。しかし実は、翻訳では原文を的確に 「読む」 という部分
 が作業の九割くらいを占めると私は考えています。読んだ上で、自分の
 言葉で再創造する。ここが一般の読者と異なる点で、翻訳者は原作者の
 「言葉の当事者」 にならなくてはなりません。そのため、わたしは常々、
 翻訳を 「体を張った読書」であると表現しています。

これは例えば澁澤龍彦が言っていたとされる 「翻訳はその言語に堪能なのではなくて、日本語がうまいからだよ」 というのとは全く逆である。もっとも澁澤はある種の衒いでそう言っていたのだろうけれど、鴻巣は『翻訳ってなんだろう?』では、もっとはっきりと書いている。

 翻訳でいちばん重要なのはいかに読むかで、わたしは翻訳講座などでも、
 「日本語力」 「文章センス」 はそんなに求めません。翻訳でそういうもの
 が役に立つとしたら、十割のうち最後の一割くらいのものでしょう。
 (p.16)

本書の内容は名作の一部をどのように訳すか、その翻訳講座における過程を説明した後でその解説、あるいは解答があり、さらに最後に鴻巣訳例が載っているという構成で、柴田元幸の翻訳講座にも同様のものがあったが、面白いけれどむずかしいという点では共通している。
ただ、鴻巣がここでとりあげているのは比較的有名な作品ばかりなので、翻訳のテクニックに関してわからなくても、ある程度納得して読み進むことができる。
とりあげられているのは『赤毛のアン』から始まって、『不思議の国のアリス』『嵐が丘』『アッシャー家の崩壊』『ライ麦畑でつかまえて』と著者名など書かなくてもわかるような作品が続くが、印象としてだんだんと難しくなってゆく。

『赤毛のアン』の、

 it would by best to have a beautiful bosom friend.

のbosomという言い回しの古風さ、bosomは胸という意味を持つが、breast, chest, bustなどより古風で、西ゲルマン語からの言葉であるという。つまり普通には使われないけれど、アンが少し背伸びをして使っている言葉で、これを村岡花子が 「腹心の友」 と訳したのは、よくニュアンスを伝えていると鴻巣はいう。心の友、胸襟を開ける友というように訳してもよいとのことだ。(p.28)

トマスおじさんが食器棚として使っている本棚を壊してしまったというくだりの、

 Mr. Thomas smashed it one night when he was slightly
 intoxicated.

も同様で、intoxicated (この言葉はtower recordsの宣伝誌名で知っていた) も 「酔った状態」 をあらわしているのだけれど、drunkとかtipsyでなくintoxicatedという観念的・抽象的な言葉を使っているのは上等な響きがあり、それは以前の養家であったトマス家の人々をアンがかばっている、あるいは自分がおかれてきた悲惨な環境を恥じている、憐れまれたくない、というような自尊心から出てきた表現なのだとのこと。(p.32)
つまり簡単な言葉でもいいのに、そこにわざわざ小難しい言葉を使うことによって、アンがどのように屈折しているかがわかるというのである。(p.24)

ケイティ・モーリスに関する次の個所、

 I called her Katie Maurice, and we were very intimate. I used
 to talk to her by the hour, especially on Sunday, and tell her
 everything. Katie was the confort and consulation of my life.

でのthe comfort and consulationもまた同様であって、格調高い表現というよりも11歳のアンにとっては気張った表現であるだけでなく、the confort and consulationはcon-の頭韻 (アリタレーション) になっていて、さらにそれは

 This is my confort and consolation im my affiction: that Your
 word has revived me and given me life.

という聖書の詩篇からの言葉でもあり、つまりアンはそれを聞きかじって自分の言葉として使ったのだろうということなのだ。(p.36)

と、ここまで書いてきて、これでは簡単な感想を書こうと思っていたのにどんどん長くなっていくのに気がついた。最初の『赤毛のアン』にしてこうである。私が最も興味深く読んだのはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』と、そしてもちろん、最後の章の『風と共に去りぬ』であるが、もうすでに息切れしてしまって、これだとそこまで辿り着けそうもない。
キャロルのas mad as a hatterとか、ブロンテの章におけるfancyとimaginationは違うという解説。サリンジャーのkind of, sort ofというホールデンの口癖、そしてand allという 「言い切りを避ける」 というのもよくわかる解説であった。「~みたいな」 「~だったり」 という言葉をあてているのにも納得する。私は野崎孝訳で読んだが、さすがに今の時代からすると言葉が古いのは仕方がない。でもその時代にはそれがリアルだったのだろう。
『高慢と偏見』の貴族階級のランク付けの表は、読んでもよくわからなかったけれど複雑過ぎて面白い。さすが階級社会の老舗である。

と尻切れとんぼに終わってしまうのであるが、とても濃密な内容の本であった。
『風と共に去りぬ』の新訳は鴻巣訳以外にも、荒このみ訳が出ていて、つまりこういうのが再評価の動きというのかなとも思う。


鴻巣友季子/翻訳ってなんだろう? (筑摩書房)
翻訳ってなんだろう? (ちくまプリマー新書)

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コメント 6

末尾ルコ(アルベール)

おもしろいですね。
興味は尽きません。
わたしの座右の書の多くは翻訳書なのでこのお記事を拝読させていただき、今まで読んできた本もいろいろ再読してみたくなりました。

マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』は子どもの頃に書斎的な部屋に並べてある本の一つでした。
きっと両親とも読んでなかったと思います。
書斎には全集や百科事典などもあって、子どもの頃のわたしには全集に入っている文学作品よりも乱歩の方に夢中でしたが、百科事典は実に愉しい本だったです。
一式百科事典があったことで、特に外国文化について幼い時点でいろいろ知ることができました。
ダリやキリコの絵を始めて見たのも百科事典でした。
『風と共に去りぬ』の原作はわたしも読んでおらず、確かに通俗と思っておりましたし、米国文学史に関する本でそのように書いているものもありました。

> 彼女が織り上げた巧緻 (こうち) な文章

それは俄然興味が湧いてきます。

> 翻訳を 「体を張った読書」であると表現しています。

いいですね。この言葉。
「体を張る」というイメージ大好きですし、読書を含め芸術鑑賞を「ちょっとした趣味」程度に思っている人たちが日本には多いと言うか、ほとんどの日本人がそう思っているのでしょうが、わたしは深い読書、そして芸術鑑賞は全人格的体験だと捉えてますので、「体を張る」という言葉、とても叫喚(笑)、いや共感できます。
もちろん澁澤龍彦の使うボキャブラリーではないこともよく分かりますし、そこが書斎派ダンディの本領ですから。

> そこにわざわざ小難しい言葉を使うことによって、アンがどのように屈折しているかがわかる

おもしろいですね。
同時にそうした表現がすぐ分かるようになれば、さらに読書は深まりワクワクするものとなります。
わたしの場合はう~ん・・・まだまだだという自覚があります。
でもこうしていつもお記事を拝読させていただいていることで、読書についても今までと違った読み方ができてきています。

ちなみに映画『風と共に去りぬ』は、あの通俗性もコミカルな部分も大好きです。
何よりあの当時のヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルを組ませたのが凄い。

・・・

寺山修司についてもう少しお話させていただきますと、「寺山修司の文章は、しかしそれとは違って、明らかに詩である。」という橋本の指摘は凄いし、おもしろいですね。
これはわたし、寺山修司の作品を引っ張り出さねばなりません。
同時に思ったのが、寺山以外に誰かそんな文章を書く人はいるのだろうかということです。
ワクワクしますね。

> 「この書を持ちて その町を捨てよ」 と。

いいですね、これ最高です。
わたしは同時代ではないので発表当時のインパクトは知りませんが、「書を捨てよ」という部分のみを都合よく解釈して勘違いした人たちは多かったのではと、ずっと想像してました。

> このたった1冊の書のほうが、町よりも有益であるのかもしれない。

これも同感なんです。
今でも周囲の若い人でいるんです、どうも「自分探し」的に訳も分からず海外へ行く人が。
で、海外帰りの人たちも多いんですが、それこそ「1冊の本」を読んでた方がずっとよかったのにと感じる場合が多いんです。
「町」、あるい「実体験」を重視し過ぎと言いますか、あるいは読書も「読書という貴重な実体験である」ことが理解されてないと言いますか。

それと、実は橋本治、(何となく合いそうにない)という思い込みでぜんぜん読んでないんです。
今回のお記事を拝読させていただき、俄然読みたくなってきました。
ものごとに「遅い」はないですから(笑)。

> 「神の矢」 はエラリー・クイーンの 「神の灯」 を連想させます。

当時のミステリ作家たちは英米ミステリに憧れていたのでしょうね。
日本の映画関係者にとってのハリウッドやフランス映画のようなものだった感があります。
でもいくら憧れても、どうしても英米ミステリのようにはなりません。
そこで日本独特の愉しいミステリが多く作られたのでしょうが、海外・国内どちらも読める日本人は贅沢と言えば贅沢でしたね。(←なぜか過去形に 笑)。


> それはロシア帝国の遺産がいまだにあるからだと感じます。

そうでしょうね。
ちょっと現代ロシアの映画や文学を調べてみたのですが、やはり「かつてのロシア」とは比較にならない感があります。
もっとも、わたしも読んでないのでいい加減な感想でしかありませんが。
「KGBの人」の理想はロシア帝国の復権やツァーリと化することだとも言われてますが、どうも文化芸術に大きな興味はなさそうです。

> それから逆算すると、う~ん、だと思うのですが。

なるほどです。
本人の映像や録音が存在しないからこそイメージを膨らませることができり。
そう言えばバレエのパブロワやニジンスキーも多分そうでしょう。
運動能力、技術とも今の方がずっと上に違いないです。
ヌレエフは映像の世代でしたが、今のダンサーたちと比べると、ダンス自体は「出色」というほどには見えません。

少し前、柴田淳の「飛んでイスタンブール」などを聴きましたが、やはりいいですね。
それと誰に限らず、カヴァーという音楽活動自体のおもしろさにもグッと興味が増しています。
わたしも歌ってますし(笑)。        RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-07-15 14:15) 

keroyon

興味深く拝見しました。
お時間かかってしまうかも・・ですが
「どんどん長く」赤毛のアン、そして他の章の感想を
読ませていただきたいです。
by keroyon (2019-07-15 17:48) 

うりくま

自動翻訳機が右から左に変換するのとは違い、
幅広い知識と言葉に対する繊細な感受性が必要
なのだということがわかりました。
「なぜここで敢えてその言葉を用いたか」という
背景や心理まで読み込んでこその翻訳なのですね。
長くなった分の続編も希望します(m^^m)。

先日、縁があって「翻訳と音楽」をテーマにした
演奏会(ファミリー向けのローカルなもの)に
行ったのですが、ハイデルベルク在住の翻訳家の
方が、翻訳作業と「楽譜から作曲者の意図を読み
取り再現・演奏する」事の共通点を話されたり、
「エーデルワイス」の歌詞を誰に向けたものと
みなすかで訳し方や歌い方がどう変るかという
試みもありました。「mother」という単語だけ
でも母、ママ、お袋、母ちゃん、おっかさん等
様々で(というか日本語が多様すぎるのかも)
登場人物の置かれた環境や関係性が判らないと
ニュアンスが伝わらず印象も変る・・という話
等も今回の内容に通じるようで面白かったです。
by うりくま (2019-07-16 02:45) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

書斎的な部屋があってそれなりの本があったというのは
それが読まれているか読まれていないかにかかわらず
よい環境だったのではないでしょうか。
私は、以前にも書きましたが、
小説など読むのは悪徳で不良の、頭の悪い子のすること、
というような認識の中で育ちましたので、
そうした前世代からの遺産は無くゼロからの出発でしたから。

通俗文学とか大衆文学というものは、
実は最も人口に膾炙している作品のはずです。
推理小説やSFも大衆文学ですし、
wikiによればトルストイやドストエフスキーは通俗小説、
と見なされていたとのことです。

ミッチェルの構文の特徴は、
どんどん話法というか人称が変化していくことで、
つまり今、誰がしゃべっているのかが重要なのです。
これを自由間接話法というのだそうですが、
主人公がしゃべっているのか、それとも語り手なのか、
あるいはその中間くらいのニュアンスなのか、とか、
これを説明されるとわかるのだけれどわからない部分もあります。
その当時としてはかなりアヴァンギャルドな手法だそうです。

ルコさんはフランス語がおわかりになると思いますが、
半過去と複合過去はニュアンスが異なりますし、
レシで使われる単純過去もまた違います。
たとえばジュリアン・グラックの単純過去は美しいですが、
日本語訳にはその結果を出しにくいです。
プルーストの半過去を忠実に訳そうとすると
井上究一郎のような泥沼にはまります。

『赤毛のアン』はよく知られているので
例として使いやすいですが、内容的にはむずかしいです。
『赤毛のアン』と『あしながおじさん』は
どちらも孤児の女の子という点で似ていますが、
ジュディのほうが素直、アンはとても屈折しています。
その屈折している分、翻訳も屈折させなければなりません。

映画は大ヒットした作品ですが、
原作のスカーレットとヴィヴィアン・リーとでは
その容姿にかなり違いがあるとのことです。

橋本治の文章は寺山を真似ているわけではないのですが、
一種のパロディであり、だから 「町を捨てる」 んですね。
行くべき町はすでに無かったのかもしれません。
橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』のことは
すでに書きましたが、タイトルはプルーストの
花咲く乙女たちのかげに
À l’ombre des jeunes filles en fleurs
のパロディであり、しかもキンピラゴボウという
露悪的な改変なのですがそこに橋本独特の矜恃があります。
橋本治は細かいところに突っ込んできますので、
そのねちっこさが嫌いという人も多いようです。
でも、細かいところに突っ込まれてもその微妙な違いが
わからない人も多いのではないか、とも思います。

ミステリもSFももともとは日本のものではないので、
実は私も基本的には日本人作家の作品は
あまり読んでいませんでした。その雰囲気が違うからです。
雰囲気とか香気、感触は重要です。
そしてSFにはよく、かつての栄華の残滓であり、
今はどうやって使ったらいいのかわからない古代機械
みたいなのが出てくることがありますが、
それとかつてのロシアは似ています。
でもそれは単にロシアだけに限らず、
実は日本の古い美術品や工芸品などを見ても、
すでに日本は 「かつての栄華」 になってしまったのではないか
という感じもします。

〈飛んでイスタンブール〉はカヴァーが多いですね。
その言葉の使い方がうまいと思います。
歌詞のなかにジタンという言葉が出て来ますが、
それから連想されるのはゲンズブールです。
かまやつひろしがゴロワーズを歌詞に使ったのは
ゲンズブールへの対抗意識かもしれないです。
by lequiche (2019-07-17 06:04) 

lequiche

>> keroyon 様

ありがとうございます。
うまく書ければ書くかもしれませんが、
原著のスリリングさにはとても及ばないですね。(^^;)
サリンジャー以降の後半に扱われているのは
バーナード・ショーの戯曲『ビグマリオン』、
ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』、
オースティンの『高慢と偏見』、
グレアム・グリーン『情事の終わり』、
そしてミッチェル『風と共に去りぬ』です。
『ビグマリオン』は〈マイ・フェア・レディ〉の原作です。
ブロードウェイではジュリー・アンドリュース、
映画ではオードリー・ヘプバーンがヒロインですね。
貧しい花売り娘が言葉を矯正されることによって
上流社会にデビューするというストーリーは
『アルジャーノンに花束を』に似た悲哀を感じさせます。
言葉遣いの稚拙さ/高貴さというのを翻訳でどのように出すのか、
というのがテクニック的には面白いですね。
それはピグマリオンにもアルジャーノンにも言えます。
by lequiche (2019-07-17 06:05) 

lequiche

>> うりくま様

ヴァージニア・ウルフは私にとって重要な作家なので
そのうち続篇を書くかもしれません。
実はウルフは、みすず書房版著作集を持っているのですが、
そのときはよくわからなかったのです。
まだ読書経験が浅かったからだとは思うのですが、
翻訳の好き嫌いというのもあるのかもしれません。
日本語訳が自分にフィットするのとしないのとがあるのです。

ウルフは 「意識の流れ」 派ですが、
といってジョイスのような難解さはありません。
でも『灯台へ』は、気怠い印象があるかもしれません。
けれど、たとえばマルグリット・デュラス的な気怠さでなく、
もう少し違ったピンと張ったような緊張感が内在していて
それがウルフの魅力です。
単語の使い方のこまやかさなど、このように説明されると
あらためて感嘆します。イギリス文学の最高峰です。

「翻訳と音楽」 という発想は面白いですね。
たしかに歌詞をどのように訳すかというのはむずかしいです。
音符との兼ね合いもありますから。
日本語の人称代名詞の豊富さは特徴的ですね。
たとえば私と言うか、ぼくと言うか、オレと言うかによって
ニュアンスが変わるからです。
単に私と書いても、わたし、わたくし、あたし、あたい、
と微妙に異なる言い方が存在しますし。
鴻巣本の『嵐が丘』の章では、
べらんめえのヒースクリフとか関西弁のヒースクリフがあって、
そこまでやっちゃっていいの? とびっくりですが、
でもそれもありです。

塚本邦雄の短歌とは、よくご存知ですね。
私は歌集を数冊と全集を持っていますがとても読み切れません。
寺山修司も塚本邦雄も彼らを世に出したのは中井英夫です。
中井英夫も赤江瀑も塚本邦雄も、あと、須永朝彦なども、
皆、男色系で同様の色彩感があります。
とひとくくりにしたら叱られそうですね。(笑)
by lequiche (2019-07-17 06:06) 

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