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Laughter in the Dark ― 宇多田ヒカル [音楽]

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宇多田ヒカルの《Laughter in the Dark Tour 2018》は最初の予約段階であっという間に売り切れてしまった。さすがに発売日前にすでに売り切れというのはマズいと思ったのか、追加生産になったが、届くまで約1カ月。それより前にYouTubeを探していたら、ある程度upされていたのでそれを観ていた。

下にリンクしたのはそのライヴ映像の中の〈First Love〉(1999)、〈COLORS〉(2003)、〈SAKURAドロップス〉(2002) だが、どの曲もおそろしいほどの密度のライヴ映像であり、それぞれの楽曲の発表時とは異なった印象を受ける。歌唱が完璧であるだけでなく、歌詞の中に今まで気がつかなかった意味が読み取れてしまって、それは私が齢を重ねたことによって理解できるようになってきたからなのだと思うのだが、逆にいうと、宇多田が過去のその時点でこれだけの楽曲を作っていたということに驚くばかりだ。初期に作られた曲の内容が早熟過ぎて、やっと今、年齢が追いついてきたような気がする。

〈First Love〉を聴いていて思ったのは、これは尾崎豊の〈I LOVE YOU〉への一種のアンサーソングだということだ。尾崎の曲冒頭の

 I love you
 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ

に対する

 今はまだ悲しいlove song
 新しい歌うたえるまで

そのように思ったのは宇多田が〈I LOVE YOU〉のカヴァーを歌った映像を見たことが私の意識の底にあったのかもしれないが、でもこの2曲には何らかの共通性があるのを感じる。メロディが似ているとかではなく、全体のテイストから醸し出されるイメージ。これは今まで漫然と見過ごしていたことだ。ただ〈First Love〉が〈I LOVE YOU〉と決定的に違うのは、

 明日の今頃には
 あなたはどこにいるんだろう
 誰を想っているんだろう

と未来形で歌う個所である。実はそれは未来でなく過去のことで、そのことは (つまり恋は) すでに終わっているのに、なぜ未来の不確定なできごとのように歌うのか。繰り返される同じ個所を見るとそれはもっとよくわかる。

 明日の今頃には
 わたしはきっと泣いてる
 あなたを想ってるんだろう

きっと泣いているのだろうではなくて、もうすでに泣いてしまった後なのだ。それなのに明日泣くかもしれない、それはあなたを想っているからなのかもしれないというふうに未来形にしてボカす。その歌詞の書き方の深さに気付く。
というより実は、直接関係はないのだが、この前読んでいた鴻巣友季子の『翻訳ってなんだろう?』の中に、「過去の中の未来は訳しにくい」 という説明があって、そこからの連想が私に新しい視点を与えたのかもしれない。

〈COLORS〉の歌詞も明快なイメージでありながら抽象的でもあり、すべての色に陰翳を感じる。青、白、オレンジ、黒、赤と色を繰り出していながら、最後の色は不明である。それはもはや 「あなたの知らない色」 なのであり、そこに到達するまでにすでにキャンバスは塗り潰されていて、もう何の色でもないのだ。だから知らない色であり、それは 「灰色」 であり 「白黒のチェスボード」 であるような、最終的には虚脱した無彩色へと還ってゆく。
shelaに《COLORLESS》(2001) という私の愛聴アルバムがあって、白、赤、紫、オレンジ、セピアと色について歌った曲をまとめたときのアルバム名がcolorless、それは矛盾だけれど色が多く集まることによってその総体はかえって色彩を失うということをあらわしている。イメージとしては同じだ。

〈SAKURAドロップス〉もオリジナルのPVはどぎつい程の色彩に満ちていた。オリジナルPVの最初に出てくる格子柄でわかるようにそのイメージは伊藤若冲からの連想である。だがこのライヴ (Laughter in the Dark Tour) で歌われるこの曲は、もっとずっと色彩感がない。

 降り出した 夏の雨が涙の横を通った すーっと

は〈真夏の通り雨〉(2016) の

 愛してます 尚も深く
 降り止まぬ 真夏の通り雨

に通じる。だが〈SAKURAドロップス〉を宇多田が書いたのは2002年なのだ。だとすれば 「夏の雨が涙の横を通った」 という歌詞はまるで予言のように響いてくる (〈真夏の通り雨〉の収録されているアルバム《Fantôme》は母・藤圭子へのレクイエムだといわれる)。夏の雨はtearsでなくdropsなのだ。
「恋をして」 から始まるリフレインは3回あって、その後半部分を並べると、

 桜さえ 風の中で 揺れて やがて花を咲かすよ
 桜さえ 時の中で 揺れて やがて花を咲かすよ
 桜まで 風の中で 揺れて そっと君に手を伸ばすよ

3回目が 「桜さえ」 でなく 「桜まで」 になっていること。そして3回目の桜は単に花を咲かすのでなく、擬人化されていて 「手を伸ばす」 こと。その微妙な変化の違いは、「恋をして 終わりを告げ」 ることが、同じ言葉でありながら1回目と3回目では異なることをあらわしている。
その3回目のリフレインの直前の

 一回り しては戻り
 青い空をずっと手探り

では 「一回り」 「戻り」 「手探り」 と 「り」 の脚韻があるが、この曲の中での 「り」 は 「終わり」 の 「り」 でもあるのだ。桜色の中でたった一度だけ出てくる青い空の虚無感が胸に突き刺さる。
Laughter in the Dark Tourライヴの〈SAKURAドロップス〉の後半には、Prophet-6によるシークェンス・パターンを使った宇多田のキーボードのソロがある。

ネットを検索しているうちに小田和正と宇多田ヒカルによる動画を見つけた。ギター1本によるデュエット。透明なシンプルさのなかに歌が屹立する。


Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018 (SonyMusic)
https://www.yodobashi.com/product/100000009003133662/
utada_LaughterJK_190725.jpg


Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018
2018.12.09 幕張メッセ
First Love
https://www.youtube.com/watch?v=NuKluSrbHik

COLORS
https://www.youtube.com/watch?v=OutA_EstePs

SAKURAドロップス
https://www.youtube.com/watch?v=cTT6ExQUvts

     *

小田和正/宇多田ヒカル クリスマスの約束2016
2016.12.19 赤坂BLITZ

Automatic
https://muxiv.net/ja/mv/5427010

花束を君に
https://muxiv.net/ja/mv/5426011
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コメント 2

末尾ルコ(アルベール)

以前『紅白』出演時にロンドンのスタジオで歌っていた宇多田ヒカルを観て、「神々しい」という言葉を使ったコメントをさせていただいたと思いますが、今回リンクくださっている動画を視聴させていただき、よりその観を強くしています。
最早「宇多田ヒカル」と「歌」は完全に同化している。
「歌わない宇多田ヒカル」はあり得ないし、もちろん自分の意志で歌っているのですが、しかしそれ以上の何かに突き動かされて歌っている。
いささか神秘主義的な、あるいはやや無責任な言い方となっておりますが、本当にそんな印象を受けるのです。
何と言いますか、「上の段階」に達している表現者の歌いっぷりと感じます。
そういう人たちって、表情や佇まいにわざとらしさや芝居っけがないのですよね。
今、その場所で歌っていることがすべて、歌詞と音楽の世界と同化している・・・そのような境地ではないかと。
宇多田ヒカルの活動、今後ますます注目していきたいです。

歌詞に関してはまだそれほど深く味わったことがないので、これもじっくり鑑賞してみたいと思います。
ところで尾崎豊や小田和正は、わたしはずっと縁がなかったのですが、やはりいいですか。
令和になってこのような質問もどうかと思うのですが(笑)。

・・・


> そもそも文学に純粋なものなんてあるわけがありません。

ですよね。
日本に特有なことかどうか定かではないですが、いろんな分野で(自分たちはお金のためにやってるんじゃない。純粋に道を探求しているんだ)という意識が伝統的に存在してますね。
お金が第一義ではないのは当然でしょうが、歴史的に見てもほとんどの芸術家でも「作品を売りたい」という目標は持っていたはずで、ところが「お金なんて一切関係ない」というポーズを取りたがる人たちもいて、「純文学」という言葉にもそんな臭いが感じられます。
それでふと思い出すのですが、2018年に脱退したももクロの元メンバー有安杏果が1年後にソロ活動を始め、言わなくてもいいことをいろいろ言って、ももクロファンの激怒を買っているんです。
その中の迷言の一つが、「わたしのは商業音楽じゃないから」というセリフです。
ソロコンサートで高い入場料取って、ファンクラブも高い入会金で、しかもグッズもいっぱい作って売ろうとしているのにこのセリフですから、ももクロ時代からのファンがどんどん離れていって、見事な不入りを展開しているようです。
どんな芸術活動にしても、「商売」に取り込まれてしまってはいけませんが、作り手の側が自分の作品を「純」とか「不純」とかカテゴライズするとおかしくなりますよね。
あと、「純文学」という言葉にはやはり日本の文壇の「権威を自分たちのものだけにしておきたい」という意識が感じられます。

> アウトローであるのを自認するのならば

そうですよね。
まあ権威を持った賞などを欲しがる人たちの気持ちとしては、例えばノーベル文学賞を受賞すると、少なくとも同賞が権威を持ち続けている間は自分の名前が「受賞者欄」に乗り続けるという魅力に抗し難いというのはあるのだろうと想像します。
世界中にごまんと作家が存在する、存在してきた中で、「忘れられてしまう」という事態は一種の恐怖でしょうから。
そして受賞時にいきなり世界的な知名度が跳ね上がるというのもあるでしょうね。
確かにノーベル賞受賞作は素晴らしい作品が多いですが、毎年村上春樹で大騒ぎするのを見せられる日本人としては複雑だし、昨年不祥事で発表が無かった分、今年は「2人」発表するって、それ何なの?という気分はあります。

> サックス奏者の主人公=〈Left Alone〉ってあまりに安直過ぎて、製作者がバカなのか、
それともその程度の観客を想定していたのか

両方あるんでしょうね。
本当に映画や音楽を愛しているのなら、あんな使い方はできないと思いますし、「その程度の観客を想定」という状況は、昨今の日本映画にも多く感じられます。
「分かりやすさ」と「その程度の観客を想定」というのはかなり被っているところがあって、これも難しい問題だと思います。

> まさに本は考えようによっては毒薬なのです。

同感です!

> つまり無意識のアヴァンギャルドです。

これまたおもしろいお話です。
芸術の予測不能なおもしろさですね。
まったく違うお話で恐縮ですが、映画『カサブランカ』撮影中はあまりにお粗末な現場の雰囲気に、スタッフ、出演者のほとんどが(これは大失敗作になる)と信じていたようですが、出来上がった作品はハリウッドの象徴のような普及の傑作と評価されている(馬鹿にする向きもけっこうありますが)。
そのどこかいい加減なところが、わたし凄く好きなんです。

ブロンテ姉妹もまた、それぞれに文才はありましたが、
自分なりの方法論が最初からあってそれにしたがって書いた
というふうに見ることもできると思います。

> 今は暗誦とか、そもそも音読とかがないがしろにされています。

絶対に見直されるべきですよね。
やはり暗誦とか暗記とか、自分の中身が変わってく感覚があります。

> ミステリって極端にいえば謎解きなんてどうでもいいのです。

それは『映画千一夜』で、淀川長治と蓮實重彦の意見が一致しておりました。
お二人とも、「謎解き」、特に「あの場所に何を置いていたからどうとか」「何時何分に何が起こったからこうとか」、そうしたことにエネルギーを使いたくない(笑)というお話でした。
わたしもトリックの伏線などを記憶するのは苦手なので共感しました。
謎解きのおもしろさも時に感じますけれど、読者の記憶力を試すような構成は苦手です。
ハワード・ホークス監督の『三つ数えろ』は、何度観てもわけが分からない、けれど雰囲気たっぷりの最高のシーンばかりということでよく知られていますが、そういう感じの作品は大好きです。
                       RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-07-26 21:06) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

たとえば〈COLORS〉の歌詞の最後の行は
「今の私はあなたの知らない色」 というのですが、
青とか赤とかオレンジとか、さんざん色をまぶして歌ってきて、
最後になって 「あなたの知らない色」 って何ですか?
「あなたの色のことは知らない」 ではないんです。
「私の色のことはあなたにはわからない」 という
いわば拒絶なんです。
その前に 「黒い服は死者に祈る時」 とか
「白い旗はあきらめた時」 という前フリがあります。
でも私は黒でもない、白でもない、じゃあ何?
といってもそれは教えないんだ、という。
このすごさはちょっと、と思うので。
こういう抽象的な残酷さと諦念の入り交じったような感情は
松任谷由実にはなかったものです。
つまり大衆向きにわかりやすく歌ったりしていない。
それが宇多田なんです。
神秘主義的な雰囲気もありますが、より生々しいですね。
そうした歌詞の抽象化は椎名林檎にも存在していて、
あぁそう来たか、と思うんです。

尾崎豊はアルバムを何枚か聴いた程度でよく知りません。
小田和正も知ってはいますがアルバムは持っていません。
好き嫌いはあるのでしょうが
(実は私も小田和正はあまり好きとはいえないのですが)、
でも歌詞をいかにしてメロディに乗せていくか、
ということ、それがまさに歌手の仕事ですが、
その方法論に関してはすぐれていると思います。
小田和正とのデュエット〈花束を君に〉の後半で
2人の歌が交錯する個所がありますが、
こういうの誰でも歌えるものではありません。
最初のほうで、0’31”で小田がギターで
ジャーンとコードを弾きますが、
何気なく弾いているようでとても澄んでいます。
これで引き込まれてしまうんですね。
ギターも上手いです。
尾崎豊はドラマ《北の国から》の横山めぐみの回 (87初恋) を
思い出すかたが多いと思います。
この回の〈I LOVE YOU〉の使い方は、もはや卑怯です。(笑)

私は有安杏果という人を知りませんので
そのことについては何とも言えませんが、
でもエンターテインメントとはある程度の商売を前提としている
と考えたほうがよいと思います。
たとえ難解な現代音楽でも、作曲家はCDが売れたほうがいい
と常に考えていると思いますし、
画家だって自分の絵が売れた方が売れないより良いはずです。
それはどんなジャンルでも同じです。

ノーベル賞というのは誰にでもわかりやすいものなので、
たとえばノーベル賞とかオリンピックとか
わかりやすいものに対して注目するというのは
いわば 「共有」 感覚であって、これは最近のクラウドとか
誰でも共通して持つことができる、アクセスできる
という社会的構造に対する思想です。
でも私は共有感覚とか単一なヒエラルキーという感覚が
嫌いなので、それを普遍的にしようとする全体主義的思想も
どうかなと思うのです。
ノーベル賞やオリンピックや大坂なおみやイジャニーズに
関心がなかったり知らなかったりする人がいても
別にいいと思います。
ノーベル賞とかアカデミー賞とか騒ぐのは、
単純にわかりやすいからということに過ぎないと思います。
賞をとったということと、その人の業績とは別のものです。

映画の場合、「その程度の観客を想定」 しているのだったら
まだいいのだ、と私は思います。
本当に製作者がバカだということは
私は無いと信じたいのですが。

カサブランカのそのお話は知りませんでした。
でもその作品がどうなるのか、あらかじめ予想していて、
結果がその通りだったら何の面白味もありませんよね。
期待を裏切ることがあるから面白いのだと思います。

小説でも映画でもストーリーのあるものは、
もちろん緻密に作り上げられたものもありますが、
意外に、大雑把に作ってしまったのに、
どこかで辻褄があって思った以上になってしまう
ということもあるように感じます。
でもそれがすべて偶然かというとそうでもなくて、
やはり何らかの力が働いているのだと思います。
by lequiche (2019-07-28 23:34) 

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