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たゆたうヘアライン ― ポーの一族展に行く [コミック]

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松屋銀座で開催されている 「萩尾望都 ポーの一族展」 に行く。
『ポーの一族』は 「すきとおった銀の髪」 から 「小鳥の巣」 までが当初のかたちであって、フラワーコミックス3冊に収録されていた。その後、少しずつ描き足されて長くなるが、最初の3巻分、つまり1972年から1973年にかけてのポーは特別な意味を持っているように私には思える。
リアルタイムで読んだわけではないので、その衝撃度はリアルタイムの読者に較べれば低くなってしまうのかもしれないが、「これは何?」 という強い印象の下、何度も読み返してしまった記憶がある。それをどのように言葉にするべきかがわからなくて、でも、つまり言葉ではないのだ。言葉にできない部分の領域に何かがあってそれが重要なのだ。

会場は薄暗くて、しかも大変混んでいて、順路の始めのあたりは全然動かないので、少し飛ばして空いているところを見る。しばらくして戻って来たら空いてきたので、ゆっくりとあらためて見る。ポーのそれぞれの原画は、こんなのあったっけ? というようなものはひとつもなく、すべてが記憶のなかにある既知の原画であり、しかし印刷物上では見えなかったような細かい線がおそろしくリアルで、しかも黒々としたスミとは限らず、ちょっと薄かったりするので、これは印刷では出ないよなぁと思う。でも印刷で飛んでしまうか否かということは関係ないのだ。それはたとえば成田美名子の原画でもそうだったが、印刷で飛ぶか飛ばないかということとは関係なく描き込んでしまうという一種の狂気なのかもしれなくて、その時代にはそうした志向だったのだということを改めて確認する。
その狂気ともいえる繊細な線でかたちづくられているのが1972年から73年にかけてのポーであって、「エヴァンズの遺書」 以降はやや画風も変わり、そんなにがんばって描かなくても、という手馴れた手法を使い始める。もちろんそれが悪いと言っているのではないのだが、「小鳥の巣」 以降に『トーマの心臓』があって、つまりエヴァンズに至る架け橋としてのトーマ、そしてトーマを通り過ぎた後のエヴァンズという経緯があるのではないかと思う。

今回、ポーの原画を見ていて感じたのはどこにでも生じている細いヘアラインである。それは画面のあちこちに生きもののように描かれ、それは空気や風や霧の流れのようでもあり、何らかの魂を持ったたゆたいのようでもあり、もの憂く、ごく自然に、でもとても周到な位置に存在している。人やものの上にも、コマを通り抜けて曲がりくねり、そしてポーの世界は、そのふわっとしたヘアラインのかたちづくる紗のとばりの向こう側にあるのだ。

チラシにも掲載されている最も有名なカットのひとつ、エドガーが窓から入って来る場面は、ふたりともブラウジングされた服、そして風にあおられるカーテンのやわらかな、むしろ妖気をたたえた曲線と合わさって、それが異世界の表情の具現化であることを知らされる。エドガーの姿は、つまり暗いピーターパンなのだ。
ここでのエドガーとアランの会話は秀逸である。

 「メリーベルはどこ?」
 「知ってる? きみは人が生まれるまえにどこからくるか」
 「知らない…」
 「ぼくも知らない
 だからメリーベルがどこへいったかわからない」

画集はいろいろなカットを集めて編集されているが、別冊になっているスケッチブックの復刻がすごい。目の位置さえ描ければ後は自然に全身が定まってくるという描き方の見本のようなスケッチが見られる。

オマケとして銀座三越では恒例のスヌーピーin銀座2019が開催中。和物のスヌーピーって日本特有のものなのだろうが、もはやスヌーピーというよりパタリロ的な変装が楽しい。ジャパン・ラグビーはシュンのキャラですね。レアなのは売り切れてしまいますのでお早めに。

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萩尾望都 ポーの一族展
http://www.matsuya.com/m_ginza/exhib_gal/details/2019725_poe_8es.html

ポーの一族 復刻版 コミック 全5巻完結セット (小学館)
ポーの一族 復刻版 コミック 全5巻完結セット (フラワーコミックス)

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末尾ルコ(アルベール)

萩尾望都の名はわたしが子どもの頃には既に轟き渡っておりましたが、前にも少し書かせていただいたかもしれませんが、いまだもう一つピンと来たことがないのです。
『ポーの一族』はどう考えてもわたしの大好きな題材であるにかかわらず、これは自分としては不思議です。
いや本当に、萩尾望都は別格的な存在として、最も早くその名を知った少女漫画家かもしれません。
ただわたしの場合は、纏めて読んだ少女漫画家はまず竹宮恵子。
異端な存在として(笑)、土田よしこ。
でも全盛期の土田よしこの閃きは天才的だったと今でも思ってます。
そして山岸涼子、さらに別格的存在として大島弓子。
大島弓子は「必読」という感じでした。
個人的には岡田史子に大きな影響を受けましたね。
それでノートに岡田史子風の漫画を描いてましたよ。
もちろん戯言としてですけれど。
当時はクラスメートの多くがノートへ出鱈目な漫画を描いておりました。

まあでも、今なら『ポーの一族』もしっくりきそうな気がします。
また挑戦してみます。
ちなみに子どもの頃は、(手塚治虫=漫画の神様)としっかり刷り込まれておりまして、最高の漫画作品は『火の鳥 鳳凰編』だと思ってましたし、『どろろ』や『ブラック・ジャック』なども大好きでした。

> どこにでも生じている細いヘアライン

これは興味深いです。
優れた漫画家は(もちろん他の分野の優れた表現者もですが)、当然ながら画面の隅々にまでその芸術的センスを生き渡らせているはずですものね。
1巻からじっくり読んでみたい気分に急激に(笑)なっています。

スヌーピーも子どもの頃に本屋へ連れて行ってもらった時、1冊ずつ買ってもらうのを愉しみにしていた時期がありました。
あの世界観もまた味わってみたいです。

・・・

宇多田ヒカルの歌詞についてのご説明ありがとうございました。
いや、本当に素晴らしく、興味津々です。
母が短歌をやっていることもありまして、最近新しめの作品を読むことがありますが、とてもじゃないけれど一般人は一生目にすることのない漢字を使っていたり、凝りに凝った表現を使っていたりというものも多く見かけます。(若手の歌人はそれほどでもないようですが)
現代詩も多くは一般人には理解不能の作品が多いですよね。
ところが宇多田ヒカル、そして他にもポップミュージックやロックの作詞者たちは難しいボキャブラリーは使いませんよね。
一見シンプルな歌詞の中に深い意味を籠める。
その力やセンスは凄いと思います。
抽象化や「拒絶」を明確に含んでいながら、すっと聴く限りはそうした強烈なものを感じさせないところが凄いです。


> こういうの誰でも歌えるものではありません。

なるほどです。
どうしても相対的に見た時の好き嫌いはあるけれど、「嫌い」あるいは「好きでない」となった時にその対象を100%拒絶していてはもったいないことになりかねないわけでもありますね。
わたし、「嫌い」となると拒絶し切ってしまう傾向がありましたが、それはある意味思考停止、あるいは「逃げ」であると、これは大きな反省材料です。

> 尾崎豊はドラマ《北の国から》の横山めぐみの回 (87初恋) を

ドラマは観ておりませんが、横山めぐみはけっこう好きでしたよ(笑)。
いつしか見かけなくなって残念です。

> たとえ難解な現代音楽でも、作曲家はCDが売れたほうがいい

わたしは有安杏果が抜けた後でももクロに興味を持ったので思い入れはないのですが、この人は「アイドル」というイメージをある時期から極端に嫌っていたらしく、つまり(自分は芸術を生み出す歌手だ)と思い込むようになってしまい、過去を否定したり、「写真家」を名乗って(実績なしで)個展を開いたりと、ただただ自意識だけが膨張して顰蹙を買っているようです。
しかも歌やステージは「aikoのつもり」なのだそうです。
「芸術」という言葉を知ったばかりの中学生のような感じです。

> ノーベル賞とかアカデミー賞とか騒ぐのは、単純にわかりやすいからということに過ぎないと思います。

確かにそうですね。
しかも昨今は、「分かりやすさで大騒ぎ」へ持って行くメディアのやり方が以前よりずっとあからさまで、なのに人びとは以前よりさらに乗りまくりますね。
ノーベル賞も業績などは難しい話になるので、受賞者の人となりとか家族とかの「ちょっといい話」が中心となってますよね。
それはオリンピックも同じことで、スポーツのおもしろさ、美しさを中心の報道であればいいのですが、アスリートの人となりとか家族とかの「ちょっといい話」とかが中心ですから。
もちろん、「どんな人生を送っている人がこのようなことをやっているのか」という興味はありますが、全部「泣かせ」に持って行こうとしますからね。
わたしとしては身の置き所がありません(笑)。

> 意外に、大雑把に作ってしまったのに、どこかで辻褄があって思った以上になってしまう

「偶然は必然か否か」というお話にもなりますが、純粋な数学や化学と違って、そのどこか出鱈目な余地が残されているのが芸術のおもしろさで、そうしたところに希望も含まれていると感じます。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-08-02 13:38) 

きよたん

萩尾望都 ポーの一族
一気に読んだ記憶があります。
私にとり、それまでにない文学的な漫画で
した。
by きよたん (2019-08-02 17:13) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

マンガというものは絵柄を伴うストーリーですから、
好き嫌いというのが出やすいのかもしれません。
マンガに限らず必読書とか必聴アルバムとか、
そういうのはあくまで個々人の好みの違いですから
私はその人が必要と感じたときが必要になったとき、
と思っています。
ですから無理して読まれるようなことは
されないほうがよいのではないかと思います。

萩尾望都の特殊なコマ割は、
石ノ森章太郎の『ジュン』にその萌芽があります。
しかしそうした作画上の特徴だけではなく、
物語が重層的に展開していくのが、
重層的というよりは 「呼び交わし」 というか、
一種の伏線が散在しているといえるのか、
つまりたったひとつの道を辿っていればいいのではない
という構造に萩尾のオリジナリティがあります。
それを追い切れないと疲れてしまって
よくわからないという感想に陥りがちですが、
それは読み方が早すぎるからです。
単純なアクションマンガのような読み方をしたら
すべては手からこぼれ落ちてしまいます。

萩尾はその初期に岡田史子からの影響を受けた
ということですが、それを脱してから後の、
ポーに至るまでの作品群も重要だと思います。
11月のギムナジウム、ポーの小鳥の巣、
そしてトーマがいわゆるギムナジウムものですが、
これは同時にホモセクシュアルな題材でもあって、
しかしそれは竹宮惠子の風木とは違います。
ユリスモールというキャラを作り上げたことが
萩尾の深層心理に対する深さをあらわしています。

宇多田ヒカルの歌詞はあくまで私の勝手な解釈であって、
それは違う、と言われるかもしれません。(^^;)
ただそういう視点もありだと思うのです。
作者が意図していなかった解釈があったとしても
それは無意識にそうした意味をこめていた
という可能性もあるからです。

現代詩や現代短歌というのは
別に奇を衒うということでなくても
そうした方向性を持たざるを得ないということでは
現代音楽と同じです。
ただ、一般にそうした文芸作品を詩歌と呼びますが、
音楽の場合は 「詩」 でなくて 「詞」 を使います。
作詩ではなく作詞なので、この違いは大きいです。
音楽の場合は耳から入ることが多いですから、
目視しなくても耳から得られる情報だけでわかるような
言い回しでないとなりません。
現代詩を朗読する機会があったとしても、
それはあくまで詩の朗読であって、
歌詞として歌われる 「詞」 とは違います。
たとえそれがほとんど呟きのような
音程感の無い歌だったとしても
朗読は朗読、歌は歌です。

定型に縛られるはずであった短歌が
どんどん定型から逸脱していくのに対し、
歌詞はある程度の縛りが存在しますし、
リフレインを重ねるのはまさに
定型の縛りの一種でしかありません。
でも制約というのは共通枠を決めることであり、
制約の中でどのように表現するかということは
ジグソーパズルに似たスリルがあります。

《北の国から》は横山めぐみのデビュー作品ですね。
渥美清は映画の中では寅さんであって
渥美清ではないんです。
寅さんの映画を観て
「今回の寅さん、泣けるねえ」 と言う人がいても
「今回の渥美清、泣けるねえ」 と言う人は
あまりいないでしょう
《北の国から》でもそれは同様で、
吉岡秀隆は吉岡秀隆ではなくて純クンなんです。
同様に横山めぐみはれいちゃんなんです。
そんなの当然で同じ、と思われるかもしれませんが
これは違うのです。
これが《北の国から》の特殊性です。

ある程度のニュース性の話題がとりあげられたとき、
それが必ずしもそのニュースそのものからではなく、
周辺部を埋めているだけという現象はあると思います。
「ちょっといい話」 「泣かせ」 というのも確かにあります。
でも最大公約数をめざすとそうなりがちです。
よくある海外取材番組で、外国の見知らぬ土地へ
誰かタレントが行ってそこで暮らして、
気心が知れて涙の別れというパターンはステロタイプですが、
でもそれは一定の需要があるのではないかと思います。
たとえTV局側の勝手な思い込みの戦術なのだとしても
それで満足する人は満足します。
なぜならTVとは娯楽ですから。
ああ、人情とは国を越えていいものだなあと思いながら
翌日にはもうそのことは覚えていません。
単純に消費されただけです。
ほとんどの事物はそうした消費行動によって成立しています。

スポーツの面白いところは絶対が無いことです。
ある人は強いといわれているけれど、
あるいはあるチームは強いといわれているけれど、
でもその人やチームが必ずしも勝つとは限らない。
ゲームというものはやってみなければわからない、
というのがすごく原初的ですがスポーツの面白味です。
それは芸術における偶然性と似た感じがあります。
by lequiche (2019-08-04 12:10) 

lequiche

>> きよたん様

あぁ、一気ですか。
私は確か、最初に第3巻から読んだような記憶があります。
たまたま書店に第1巻と第2巻が無かったので
3巻からだったのですが。
読んでみて 「何だこれは?」 と思いました。
いままでのとは違うマンガというのが第一印象でした。
by lequiche (2019-08-04 12:11) 

向日葵

遅い訪問になってしまってすみません。

この展示会は情報が遅くて、見に行くことがかないませんでした。
レポを拝読すると尚の事行かれなかったのが悔やまれます。

萩尾望都さんは、2世代くらい上の漫画家さんで、
小学校の終わりころから中高と、それは貪るように読みました。

まさに中毒!!

lequicheさんとも、また次回お目にかかる時があったなら
「萩尾望都論」等お話してみたいです。

by 向日葵 (2019-08-12 23:38) 

lequiche

>> 向日葵様

そうでしたか。それは残念でした。
初日には萩尾先生自身の解説もあったようです。

印刷にすると飛んでしまう原画の細かい部分が
もう、ありえないくらい繊細で、一番強く印象に残りました。
それとポーは彼女の単なる出世作であって、
マンガ家としての経歴の中のひとつの作品
というふうに捉えていたのですがそれは違いました。
どう違うのかが言えないのですが、ポーは特別なのです。
ポーから生じているあの独特な佇まいは何なんでしょうね。
by lequiche (2019-08-13 00:53) 

یونولیت سقفی

このことについてもっと書いてください
by یونولیت سقفی (2019-08-18 17:53) 

نصب دوربین مدار بسته

素晴らしいテキスト
by نصب دوربین مدار بسته (2019-08-18 17:54) 

lequiche

>> GUEST様

このことについては、もうあまり書くことはありませんが、
以前の記事の中にコミックスに関する記事があります。
左にあるマイカテゴリー「コミック」から検索してみてください。
例えばこれとか。
https://lequiche.blog.so-net.ne.jp/2016-03-05
by lequiche (2019-08-18 21:08) 

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