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一日が始まる前の青 — 吉本ばなな『N・P』 [本]

朝の青.jpg

我が家には普通よりちょっと多めな量の本が堆積していて、そしてきっと風通しが悪いのが原因でカビの生えてしまった本がある。急激な温度変化で空気中の水分が小口に付着して、それがカビになって醜い茶色の斑点がついてしまって、まるで何かの悪い病気のように見える。だがそうなったのはある限られた本だけで、きれいな本とカビてしまった本とがあって、空気のちょっとした流れの差によるのかもしれないが謎である。

今日は (もう昨日だが) すごい天気で、すでに夏と思える暑さがじりじりと照りつけて、影を探して歩いていた。駿河台下からお茶の水駅のほうへ上がっていく時、明大のリバティタワーの影に入れるとほっとする。しかしこの道は楽器屋が多いのだけれど、直射日光にさらされているギターは大丈夫なのだろうか、といつも思う。
でもまだ梅雨は明けていない。よしもとばななに『N・P』(1990) という小説があって (出版時の表記は吉本ばなな)、それは夏直前の今のような季節の頃の話だ。そしてウチにあるその本は見事にカビで斑点になってしまった病気の本の一冊である。

『N・P』はずっと気になっている本だ。作品の完成度からするとあまりよくないのかもしれないけれど、何か暗い印象があったような気がして、そして記憶にうっすらと残っているその夏の感触を確かめたくて再読してみた (以下、ストーリーに触れている部分あり。未読の場合御注意ください)。

第1人称の私は加納風美 [かのう・かざみ] といって、大学の研究室に勤めバイトで英語の翻訳をしていたりする。彼女の昔の恋人は戸田庄司といって17歳年上の翻訳家だったが、風美がまだ高校生の時、自殺した。庄司は高瀬皿男 [たかせ・さらお] という作家が英語で書いた 「N・P」 という小説を翻訳していたのだが、その小説を翻訳しようとした者は庄司も含めて3人も死んでいる。高瀬皿男本人も自殺していて、「N・P」 は呪われた小説なのではないか、と思わせられる設定である。
高瀬皿男には乙彦 [おとひこ] と咲 [さき] という二卵性双生児の子どもがいて、風美はあるきっかけで2人とそれぞれ知り合う。「N・P」 は97話の短編で構成されている小説なのだが、実は未発表の第98話があって、それを翻訳しきれないうちに庄司は死んでしまったのだ。その第98話は父と娘との近親相姦の話なのである。
風美は第98話の翻訳途中の庄司の原稿を形見として持っているのだが、咲は、乙彦の彼女は高瀬マニアなのでその原稿を欲しがっているから気を付けろ、という。
この出だしは全体が不安な雰囲気に満ちていてミステリー仕立てだ。

ところが咲が高瀬マニアだといっていた乙彦の恋人は箕輪萃 [みのわ・すい] といって、彼女は乙彦と咲の異母兄弟だということがわかる。つまり乙彦と萃は近親相姦である。そして第98話は乙彦、咲、萃にとって呪縛となっていて、3人は時が止まったままなのだという。

やがて突然、風美の前に萃は登場してくる。高瀬皿男と咲が近親相姦をしたのも本当だし、萃は父 (高瀬皿男) とも、乙彦とも、そして庄司とも関係していたのだった。この、近い間同士での 「何でもアリ」 的な関係性の中に風美もからめとられていく。

 「何か、身内でぐるぐる回ってて、恥ずかしいったらないわ。」
 「いや、でも私、その気持ちわかるわ。私ってほら、物の見方がすごく
 近視眼的なのよ。ほうっておくときっと、一生ここに住んで同じような
 生活して、ものごとに対して同じような感想もってるんだろうな、とよ
 く思う。登場人物も少しでいいしさ。何かが欠けてるのよ。世の中の不
 幸に対する関心とか、冒険心とか、他者に対する興味とかね。だからな
 んか、人ごとと思えない。」(p.91:ページ数は初刊本。以下同じ)

父と娘が関係するのはまるで森茉莉の『甘い蜜の部屋』のようでもあり、そのルーツはつまりナボコフの『ロリータ』なのだが、でも森茉莉の父のモデルが森鷗外だとするのならば、よしもとの……いけないいけない、思わず妄想を。(笑)
そして4人を主体とした奇妙な友情のような話が続いてゆき、乙彦と萃は結局別れることになるのだが、最後に乙彦と風美の新しい関係が芽生えてくるとはいえ、簡単に言えばここでは何も起こらない。高瀬皿男が死んだのも庄司が死んだのもすでに過去のことで、まるでもう歴史上の事実のようで、それ以上のドラマチックな展開は何もないのだ。風美は乙彦と一緒に出かけた夜の海で焚き火をしながら感傷的な気持ちになる。

  私はちょっと泣いていた。もしここが海辺でなかったら、その不在の
 強烈さはこんなに強く襲ってこなかっただろう。別れるためだけにいっ
 しょにいた夏。あとに残って続いてゆく友達。でも、あのひとにはもう
 会えない。もう午後に電話がかかってくることもない。(p.231)

高瀬皿男、加納風美、箕輪萃といったネーミングを見たとき、私が最初に思ったのは作家自身も認めている大島弓子の影響だった。私が思い浮かべたのは御茶屋峠 [おちゃや・とうげ]、三浦衣良 [みうら・いら] といった登場人物を持つ 「バナナブレッドのプディング」 (1978) である。衣良はイライラのイラだとのことだが『甘い蜜の部屋』の藻羅 [もいら] からなのかもしれない。
『N・P』では風美の姉は結婚してロンドンに住んでいるが、 「バナナブレッド…」 ではヒロインである衣良の姉、沙良 [さら] が結婚するというところからストーリーが始まる。転校生としてやってきた衣良は、小学校の頃の友人・御茶屋さえ子と再会する。姉が嫁いで行ったら心細いという衣良に、さえ子はボーイフレンドを紹介しようとするが、衣良の男性の理想像は 「うしろめたさを感じている男色家の男性」 なのだと聞いて、さえ子は兄の御茶屋峠に 「男色家のフリ」 をして衣良と結婚 (のフリ) をしろと強要するのであった。
さえ子はサッカー部のメンバーの中に男色家を探していたとき、密かに心を寄せていた奥上がゲイであることを知りショックを受ける。奥上のパトロンは新潟教授で、新潟は奥上が峠との関係を持っているのではないかと誤解してサディスティックな制裁を加える。やがて女好きな峠に対して好意を持ってしまった奥上を阻止しようとして、さえ子は変装して兄 [=峠] となり奥上と会う。
この変装してもばれないというルールが大島弓子の最も美しい幻想であって、それはたとえば 「パスカルの群」 でも同様であるが、江戸川コナンが毛利小五郎のすぐ横で謎解きをしていてもそのシステムが誰にもばれないというルールと似ている。

だが小説の場合は、大島のようなここまで 「ぶっ飛んだ」 設定にすることは不可能であり、かくして最初の不安なミステリー味はいつの間にか消散してしまう。ただ、よしもとばななも大島弓子も、どちらの作品の結末も、誰もがいい人であった、というところでは同じだ。

「N・P」 から私が感じるのは、よしもとの言語に対する信頼というか自信である。風美が子どもの頃、ストレスから声が出なくなったとき、

 私はそのときはじめて表現するはしから逃げてゆく言葉というものに、
 深い興味を持ったのだ。時間と永遠を同時に含む道具。(p.26)

と考えるし、萃に対しての不思議な魅力に関しても、

 他者とは決してわかちあえない、彼女自身だけの内面の苦悩のようなも
 の。数人にしか通じない強力な合言葉。(p.149)

と表現する。言語は単にツールでありながら使いようによってのみ心を反映させられるツールであって、「N・P」 のストーリーの鍵となる 「翻訳」 もその具体例であり、それは風美の言葉でありながら同時に著者の言葉でもある。
ただ残念ながら高瀬皿男の小説 「N・P」 がその名前のみであって内容的なふくらみを得てこないために、また 「N・P」 というタイトルは、昔の古い悲しい歌だというほのめかしがありながら、それだけで消えてしまうために、すべては静止してそれ以上に展開しない。逆にいえば、そうした時の止まっている一瞬を描いている小説のような気もする。

  恋をしたり、別れたり、死別もあったり、そうして年を重ねてくると、
 目の前にあることがみんな同じように思えてくる。善し悪しや、優劣が
 決められない。ただ、悪い思い出が増えるのが怖いだけだ。このまま時
 間がたたなければいいのに、夏が終わらないといいのに、とだけ思った
 りする。弱気になる。(p.109)

という部分は妙に老成していて、今こうして読み返してみて初めて納得できるような言葉だ。暑い夏はこれから始まるが、人生の季節はすでに秋なのかもしれない。


吉本ばなな/N・P (角川文庫)
N・P (角川文庫)




大島弓子/バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)
バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

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