SSブログ

adagio — バーンスタインのマーラーを聴く [音楽]

GustavMahler.jpg

CDショップのサイトを見ていて最近の交響曲の演奏に関して面白いのは、断然マーラーとブルックナーであると思う。あと、ラフマニノフも、以前よりも随分とポピュラーになりつつあるような気がする。

ここのところ私が聴いているマーラーは、レナード・バーンスタインのニューヨーク・フィルとの第1回目の全集で、1960年から67年に録音されたものだ (但し、第10番のアダージョと亡き子を偲ぶ歌のみ74〜75年録音)。マーラーの全集を買ったのは初めてで、単純にこのセットが安かったからという動機でしかない。
バーンスタインはその後期にコンセルトヘボウを主体としたドイツ・グラモフォンへのマーラー録音があり、これを何曲か聴いてはいたのだが何となく重くて、途中でやめてしまったような記憶がある。CDを探してみたら1、4、5、7、9番があったので約半分を聴いたことになる。

この選択のしかたは偶然なのだが、やはり歌モノを避けているような気がする。ずばり言ってしまうと私は潜在的に歌があまり好きではないようなのだ。ベートーヴェンの9番でさえ世評ほどには私はいいと思っていない。マーラーに関しては歌曲が、歌入り交響曲だけでなく〈亡き子をしのぶ歌〉のような曲なども含めて重要だとは思うのだけれど、これは趣味の問題なので仕方がない。J-popでさえ私は主にメロディを聴いていて、ある時、「あぁこの曲はこういう歌詞なんだ」 と改めて気がついてそれを言ったら、周囲から大顰蹙をかったこともある。

このバーンスタインのニューヨーク・フィルとのマーラー全集で、まず5番を聴いてみたが、この溌剌とした5番は逆にいままで一般的にイメージしている5番の演奏として違和感があるほどの印象を受けた。
5番のアダージェットといえばヴィスコンティの映画《ヴェニスに死す》の挿入曲として有名であるが、映画のサントラはフランコ・マンニーノ指揮の演奏であり、映画にはその思い入れたっぷりの演奏でいいと思えるのだが、音楽だけ抽出すればそのクォリティはライト・クラシックというかポピュラーミュージックの範疇でしかない。それが悪いのではなく映画のサントラとはそういうものなのである。
つまり極端にいえば第4楽章であるアダージェットそれ自体への解釈そのものが異なるのであって、ホルストの〈惑星〉と平原綾香の〈Jupiter〉の違いのようなものである。平原綾香の歌詞の冒頭の Every day I listen to my heart という歌い出しは、これはもう創作であってそうしたアイデアに至るのはスゴイと思うのである。

ニューヨーク・フィルとのマーラーはわかりやすいけれど、だからそれが初心者向けだという意見は、私はちょっと違うと思う。ただ一般的にはバーンスタインのマーラーは後期のグラモフォン盤のほうが評価は高いようで、さらにHMVの批評のコラムを読んでみると最近発売された1985年のイスラエル・フィルとの9番のライヴ演奏が絶賛されていたりする。私はそれをまだ聴いていないので何ともいえないのだけれど、凄絶な情念の演奏というような表現は、ある意味説得性があるのかもしれないがそれは一部の人種にだけであって、かえって鼻白むことがないとはいえない。褒めちぎることによって逆に興味を減じる効果のある批評もあることを知るべきである。
といって例えばカラヤンは、私は6番をカラヤンで聴いたのが唯一のナマであるが、スペクタクルは感じたが音楽的感興はどうだったかというとよくわからない。もっともその頃の私はまだオコチャマだったので単純に理解力が乏しいだけだったのかもしれない。

マーラーは、私のような一般的リスナーにとってはまず基本的にむずかしい。幾つもの美しい素材が次々にあらわれるのだが、ひとつひとつは具体性を帯びているように見えて、それらの繋がりとか整合性がどうなのかがよくわからないのである。それはラフマニノフの交響曲に関しても少し言える。

一方、ブルックナーはマーラーとは逆に、美しい素材というより抽象的な素材であるというのが正直な感想だ。抽象的だからこそ美しいのだ、といわれればそれまでなのだが、マーラーに較べるとその表現する姿勢に抽象性が多く、延々と走る蒸気機関車に乗っているようで (蒸気機関車というのがミソである)、全体像を捉えにくいと思ってしまう根拠であると思う。
ところが最近になって、いわゆる初稿版という最初に書かれた楽譜に基づく演奏が出てきて、これがとても面白い。ブルックナーは何度も何度も楽譜を書き換えているとのことだが (それも弟子たちの進言などで)、直感的に言って、直せば直すほど作品は悪くなっていっているのだと思う。これはモノを作る場合よくあることであるが、クォリティの低い周囲の雑音は有害でしかなく、また集団的創作というのを私は信じない。複数の人間が介在すればそれは一番レヴェルの低い部分に揃ってしまうものなのである。

ということで私が今、一番期待しているのは某評論家が 「マーラーがわかっていない」 と断言したブーレーズのマーラー全集のセットものの廉価盤である (1枚ずつ買うのでは高いので)。戦後、ダルムシュタットでのセリーの擡頭によって私の偏愛するバルトークの価値は古色を帯び過去のものとして葬られてしまった。しかしそのバルトークの、たとえば〈青髭公の城〉のディテールをもっとも明確に提示してくれたのは、セリー派の総帥ブーレーズであったと私は思う。ブーレーズのアプローチが常に私の興味の対象として存在し続けていることは確かだ。
だからといってバーンスタインのマーラーの価値が減じるということでは一切ない。バーンスタインはバーンスタイン、ブーレーズはブーレーズである。いろいろなアプローチによって音楽の様相が全く変わるのが音楽の持つ 「魔」 である。それは安直な狂熱とは無縁のものだ。


Leonard Bernstein/The Complete Mahler Symphonies (SONY)
Bernstein: Mahler Symphonies

nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0