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YES — オノ・ヨーコについて [アート]

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先入観というものの恐ろしさを痛感しうる顕著な例のひとつとして、オノ・ヨーコに対する評価があるだろう。オノ・ヨーコはビートルズのジョン・レノンと結婚し、世界中から大バッシングを受けた。ビートルズ・マニアといわれる人々のほとんどは、オノ・ヨーコを悪く言うか、もしくは無視する。それは偏見というより憎悪に近い。
私もそうしたビートルズ・マニアからの薫陶 (?) を受けて、オノ・ヨーコというのは悪い女であると思っていた。というよりそれほどの関心が無かった。

まず私のビートルズに対するスタンスを記そうと思う。2009年にデジタル・リマスター盤が出て音質が改善されたと評判になった。私はそれほど忠実なビートルズのリスナーではないから、全てのアルバムを聴いているわけではないので、この際ボックス・セットを買っておこうと思いたったのだが……実はいまだに聴いてなくて未開封のままである。
ビートルズ解散後の各自のソロ・アルバムについても、以前に聴いたような聴いてないような、つまりほとんど不真面目なリスナーといってよい。

ポピュラー・ミュージックは、マスコミュニケーションを前提としたロック・ミュージックを含めて、時代性に左右されるナマモノであり、一定の 「旬」 が存在するのだと思う。
だからこうしてコンプリート・ボックスとしてまとめられてしまうと、それはかえって時代に束縛されてしまって、標本箱の中のモルフォ蝶のように妖しい光を放つだけの存在となりかねない。それは本来そのものに備わっていた美学とはやや異質であるのかもしれない。

それなのに私がそうした標本を買うのは、資料としてという意味あいがほとんどだが、たとえば同様のクラシック音楽のコンプリート・セットと較べると、時代的に近いポピュラー音楽のほうがかえって標本的様相は高い。わかりやすくいえば 「古びている」 のである。これはなぜだろうか。
たとえばジェネシスもトーキング・ヘッズもピーター・ガブリエルも、そのようにして私は編年体で全部聴いてきたが、これは本来のロック・ミュージックの聴き方とは異なるのではないかと思う。アップ・トゥ・デイトでない弱みである。標本というのは屍でありナマのプレゼンスを持ち得ない。
だからビートルズについても、いわゆる 「醒めた視点」 であることをあらかじめお断りしておきたい。

ビートルズ・マニアがオノ・ヨーコを 「ビートルズを壊した女」 と言って嫌うのは、ある意味正しい。それはヨーコ自身も言っていることだが、ジョン・レノンが労働者階級の出身であるのに対し、ヨーコは資産家の生まれ、つまり 「いいとこのお嬢様」 であることだ。すごく皮相的/卑俗的に言えば、プロレタリアートだったグループにプチブルが介入して分断したのである。だから 「真の」 プロレタリアートがそのようにヨーコを非難するのならそれは正しい。だがそれはあくまで 「真の」 であることに限られる (こうした政治的単語を私は使ったことがないので、用語法が間違っているかもしれない。まぁ、そんなことはどうでもいいのであるが)。

 ビートルズのした革命は労働者階級の革命で、いわゆる民衆にわかる言
 葉で革命をした。
  だから民衆は大きなナンバーだから、レコードがパアッと売れたわけ
 でしょ。
  前衛というのは、中産階級で、ジュリアード・スクールに行った人で、
 家庭も中産階級ですね。前衛というのは、中産階級の革命ですね。だか
 ら中産階級は民衆よりも数も少ないし、あまり広がらなかったわけです
 ね。(オノ・ヨーコ『ただの私』p.170)

ヨーコはアヴァンギャルド芸術をめざしながらも、それがプチブルの革命であるということを冷静にとらえている。そうした少数派芸術に対してのマスプロダクトなロックとしてのビートルズのパワーに彼女は魅力を感じたのだろう。
だから逆にそうした大衆的パワーによって成立したはずのロックがスノッブなものに変質していくことを彼女は憂えている。そうしたスノッブに陥る傾向は、たとえばジャズのような音楽にも同様にあると思う。

  もともとロックは、王侯貴族の支持によって発展してきたクラシック
 とちがって下積みの人間の支配階級に対する 「叫び」 として出てきたも
 のです。それが男性の手によってスノッブなものに変わってきつつある、
 というのは残念です。(同 p.118)

私がオノ・ヨーコに関心を持ったきっかけは、1冊の本によってである。今は無くなってしまった銀座のイエナの美術書売場でふと目にとまった画集、それが《YES YOKO ONO》であった。
そこに展開されている彼女の作品やパフォーマンスの集積は、うるさい、狂奔の、うざったい女といわれているはずのオノ・ヨーコとは全く異なっていた。そこに感じられるのは、しんとした静けさ、淋しさのような佇まいである。
それは彼女がまだ幼い頃、両親が不在の宏壮な家の中で、広いテーブルの片隅でひとり食事をさせられたという孤独感に似ている。それは彼女が選び取ったアヴァンギャルドへの道の淋しさである。

  だから私は、好んで前衛になったのではなく、こんな淋しいのはイヤ
 なんだけれども、仕方がなくて前衛だった、というところがある。
 (同 p.40)

オノ・ヨーコがジョン・レノンと一緒に作った音楽を、それは例によってビートルズ・マニアには評判の悪いことが多いらしいが、私はほとんど知らない。《Double Fantasy》のジャケット写真のような 「愛こそはすべて」 的なビジュアルが私の感動を呼び覚ますことはほとんどない。もっといえば〈Imagine〉というジョンの超有名曲だって、通り一遍にしか知らない。
おそらくそれは、もはや音楽の教科書に載るような、確定した評価を得ている作品であって、それは言葉を変えて言えば、繰り返し出てくるメタファーのように、もはや静止した死骸の標本のひとつなのだ。

DoubleFnatasy_jk02.jpg

ジョンとヨーコの出会いは、ヨーコの作品展に出かけたジョンが、装置の梯子を登っていって、そこにYESという文字を見つけたから、というのは有名な話だ。YES —— それが肯定的な言葉だったので 「これはいいぞ」 とジョンは思った、というのである (まるでバブル全盛期のような脳天気な表現であるが)。「NO」 とか、何か否定的な言葉でなくYESであったこと。だが、ヨーコがYESに辿りついたそれまでの道のりはきっと短くはない。
虫メガネで見つけたYESの文字というのは、その装置のパフォーマンスとしての単なる面白さだけではなくて、幾つもの暗喩をたたえている。上に登らなければ見えないこと、虫メガネで見なければ見えないこと、何よりも登ろうと行動しようとしなければ見えないこと —— それはヨーコのメッセージであると同時に、極端にいえば、彼女の幼少の頃にさかのぼって、広い家にぽつんとひとり取り残された淋しさと人恋しさまでに至る回路がひそかに包含されているのだろうと私は感じる。内省的な心の辿りついた末のYESなのだ。

ジョンはおそらく、そうしたヨーコの作品の最も深い理解者であったと思われるが、YESはヨーコの思考の重層的回路の部分が露出した一断面でしかなくて、ヨーコの闇はもっと深い。たぶんYESは表出したヨーコのわかりやすさのひとつのセクションでしかない。
ジョンにして理解し得ないヨーコの闇のほうが、その量はずっと多く、だからといってそれはジョンの理解力が足りないとかバカだからということではなく、人間のできる理解とはそんなものなのだ。
闇というと否定的なニュアンスを持たれてしまうかもしれないが、言葉として名付け得ぬ心のなかの孤独、それに具体性を与えてくれるものがアートなのだと思う。結果としてあらわれる具体性は抽象でしかなく、理解を拒むものなのかもしれないが、それを含めてのrealizeがアートである。

『ただの私』の最後に追加された 「明日また行くんだ」 という短い文章がある。
ジョンが亡くなってから後、別荘のあった旧軽井沢に9年振りに行った話。自転車で、ジョンがいた頃のように中軽まで遠乗りに出た。途中で、よく寄った喫茶店を探すとまだあった。店に入りコーヒーを飲んでいると、突然、ジョンがかるく肩をたたいたような気がした。「何?」 「みてればわかるよ」 とジョンが言う。
すると店の主人が出てきて、9年前にご主人がお忘れになったものですといって、ジョンの持っていたライターを返してくれた、というのである。
ジョンは9年前、その喫茶店にライターを置いてきたことに気づいて、でも 「まあいいや、明日また行くんだ」 とつぶやいたのだが、結局とりに行かないまま、それから9年の月日が経ってしまったのだ。もはや持ち主が不在のライターは9年前と変わらず、元気な火がついたという。
明日はないかもしれないという刹那的な不確定性と、明日を積み重ねたその向こうに永遠が存在するという二律背反した心情が、この短いエピソードの中に籠められているように私は思う。


YOKO ONO/YES (Japan Society/Harry N. Abrams)
Yes Yoko Ono




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オノ・ヨーコ/ただの私 (講談社文庫)
ただの私 (講談社文庫)




The Beatles Box (EMI music japan)
ザ・ビートルズ・ボックス




参考1・水戸芸術館過去データ (Exhibition 2003)
http://www.arttowermito.or.jp/art/yokoonoj.html

参考2・Japan Society Past Exhibition/YES YOKO ONO (2000〜2001)
http://www.japansociety.org/page/programs/gallery/past_exhibitions/past-exhibitions-expanded
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コメント 4

U3

凄い考察ですね。
もう無くなりましたがジョン・レノンミュージアム行かれたことがありますか?
結構面白かったですよ。
by U3 (2012-09-09 09:32) 

hydrangea12

なんか、泣けた〜
by hydrangea12 (2012-09-10 19:14) 

lequiche

>>U3様
ありがとうございます。
ジョン・レノン・ミュージアムには行ったことないんです。
今から考えると残念です。(^^;)

>>hydrangea12様
その時の喫茶店の空気までが感じられる文章ですね。
きっと本当にジョンは来たのだと思います。(^^)
by lequiche (2012-10-31 15:38) 

NO NAME

単純にヨーコの音楽の質が低すぎるので嫌われるのだと思います
by NO NAME (2015-03-17 02:42) 

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