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夕暮れ [音楽]

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先日、TVを見ていたら何かの番組に矢野顕子が出演していて、自分の歌の歌詞をあまりはっきり伝えたくないようなことを言っていた。初期の頃、会社側は歌詞カードを入れよう、自分はイヤ、と意見が対立したので間をとって、ジャケットの内側に (つまりアナログディスクを挿入するポケット状になっているダンボールの中に) 歌詞を印刷したのだという。

彼女はもともとピアノの演奏をするのが主だったので歌詞はオマケなのだそう。その言葉に妙に納得してしまった私も同じような感覚を持っている。歌詞のある曲であっても私はあまりマジメに歌詞を聴いていない。ずっと後になって、「あ、この曲ってこういう歌詞なんだ」 とひとりで納得して、周囲から大顰蹙を買うことがよくある。
だって歌詞なんか聴いてないんだもん。

知り合いに、居酒屋などでさんざん飲んだ後でカラオケに行って、そこでベロベロに酔った状態で常にブルーハーツを絶叫する人がいて、うるせぇなぁ、やかましいタテノリの歌を歌って! といつも思っていた。

私に、歌は歌詞というのが重要なのだ、と気づかせてくれたのはたぶんR.E.M.である。R.E.M.の音はひねくれているが、ストレートに聞こえてこないのは音だけではない。

earth music&ecologyのCMで宮﨑あおいがブルーハーツを歌って、その歌が、彼女は本当に歌がヘタなのか、それとも演技なのか、その曖昧さ加減が絶妙で話題になった (たぶん演技だろうけど)。でもそれよりもアースという、そんなにパッとしないし強烈な主張もしないでやってきた、いわば穏健なブランドイメージに対してブルーハーツをぶつけるという、これはすごいアイデアだったのだと思う。
つまりそういう卑怯なこともできるのがブルーハーツというアイテムなのだ。

そして、ふと〈夕暮れ〉という曲を聴いたとき、すべてがつながったような気がした。それはたとえば日本語のラップの中にも、日本の伝統的な演歌の中にも、オレはブルースっきりやらないし日本語の歌なんて歌わないぜ、というような人まで含めての、あちこちに密やかに跋扈する影である。

 夕焼け空は赤い 炎のように赤い
 この星の半分を真っ赤に染めた

という歌詞から直感的に思い出したのは北村想の《寿歌》の最終戦争のイメージである。
だが甲本は、

 幻なんかじゃない 人生は夢じゃない

と歌う。土蔵の中で 「うつしよは夢」 と書いた乱歩とは違って。

ギルバート・オサリヴァンの初期の曲で最も重要な曲は Nothing Rhymed である。すべてをNothing、Nothingと否定していって、韻を踏むものは何もない、と言い切るその歌詞がすべて韻になっているという逆説。それと同じだ、矢野顕子が歌詞なんて関係ないと言うのも。
甲本ヒロトの歌がヘタに聞こえるのなら、宮﨑あおいやフランス・ギャルの歌もヘタに聞こえるはずで、でも実は甲本ヒロトはヘタではない。
そしてカラオケでブルーハーツを絶叫する彼と、宮﨑あおいのポスターの掲げてあるアースで服を買う彼女たちには共通している影がある。その影は微かで、ちょっと見えにくい。


The Blue Hearts/夕暮れ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13413106
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