SSブログ

ジョン・ケージのプリペアド・ピアノ [音楽]

Cage&blkcat.jpg

プリペアド・ピアノというのは、グランドピアノの弦にモノを挟んだり乗せたりして、本来のピアノと違う音を出すようにする手法のことをいう。でも、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』にはカクテル・ピアノというガジェットがあって、それは本来のカクテル・ピアノという言葉の意味をわざと文字通りにとって、カクテル製造機になっているピアノなのだが、préparéという単語には 「調合された」 という意味もあるから、もしかするとカクテル・ピアノはプリペアド・ピアノから連想されたものなのかもしれないと突然気がついた。

ジョン・ケージ John Milton Cage Jr. のピアノ作品を全部弾いたシュテッフェン・シュライアマハー Steffen Schleiermacher の《John Cage Complete Piano Music》というドイツMdg盤のセットがある。シュライアマハーという姓で普通思い浮かべるのは神学者フリードリヒ・シュライアマハーだが、そのフリードリヒの子孫らしい。子孫という表現の曖昧さに疑問が残るのだけれど。

仕事をしながらこのシュライアマハー盤でケージを聴こうと思いついたのだが、ケージの音はBGMにならないということに気づいてしまった。しかしそれは鬱陶しいとか気が散るという状態の音ではなくて、だからといってリラックスできる音でもなくて、うまく言葉が見つからないが、だらしなく聴ける音ではないのだった。

このコンプリート盤の最初の3枚はプリペアド・ピアノのための作品が集められている。その音色はスチールドラムとか木琴系の民族楽器のようであって、時に鄙びていて、ピアノの本性であるメカニックさをヴェールで覆ったような印象がある。
ただ、ではシュライアマハーのプリペアド・ピアノがインティメイトな癒し系のBGMになり得るのかというと先に書いたようにそうではない。その印象に欺される。たとえばブライアン・イーノはアンビエントとして使えるが、ケージは違う。ケージの音は癒し系のように聞こえていて、実はそうではない。アンビエント風なのは音色に限られる。それはプリペアされていない、普通のピアノの音が演奏中に出現してきたとき、随分ホッとすることでよくわかる。ケージのプリペアドはアンビエント風なのだけれど緊張を強いる音だ。
ただでは済まないのがケージなのである。

ケージとイーノは明確に違う。では (この前のブログでとりあげた) フィリップ・グラスはどうなのか。グラスは微妙である。つまり作曲家の立ち位置のグラデーションが存在するように思う。というよりグラスはケージやイーノと異なる階層の住人のようにも私は感じる。つまり音の発散のさせ方が違うのだ。グラスの音は、抑制感のある奇妙な美学を伴った堂々巡りだ。
この違いはどこにあるのか、それはそれぞれの出自がクラシック音楽だからとかポピュラー音楽だからというのとはやや違うような気がする。
よく使われる安易な二分法——ジョン・ケージ対ピエール・ブーレーズにならえば私はブーレーズ信奉派なのだが、例に挙げたケージとイーノの違いはそうした技術的/アプローチ的な差異でなくて、つまり私の主観に従えばケージはそんなにわかりやすくない。

このシュライアマハーのセットは、他のピアニストのケージ演奏と比較すると、自身コンポーザーでもあるシュライアマハーがケージ作品に対してアプローチした、かなりシュライアマハー的解釈の濃い演奏であるのかもしれないが、そうした部分を勘案したとしてもケージの音楽本来に残る芯、というか仕掛けられた棘のようなものを消し去ることはできない。

もっとも、この微妙な差違は時として見過ごされてしまう種類のものかもしれない。私はジョン・ケージ本人の演奏を聴いたことがあって、それはダンス好きの人たちに連れられて行ったマース・カニンガムのダンスアクトの時、彼は舞台の袖で小さなシンセサイザーでいわゆる劇伴をしていたのだが、当時の私にはジョン・ケージがどういう人なのかよくわかっていなかった。幼さの極みである。
もっとも大切なのは音楽的直観なのかもしれないが、せめて最低限の知識はいかなる時にも必要なのだ。

プリペアド・ピアノという言葉の先入観から来る尖った鋭利な刃物のような感触は、とりあえずシュライアマハーの演奏からはほとんど感じられない。
それはもしかすると録音スタジオとか純粋なホール空間の中でだけ生成される音楽ではなく、暗騒音に満ちた環境のほうが力を発揮するのかもしれない、と見当違いかもしれない考えが脳裏を過ぎった。
ケージのこれらの音は、わかりやすそうでいて、そこに対応すべき言葉を当て嵌めることができないのだ。言葉で説明できないから音楽なのだ、といわれればまさにその通りなのだが、私が書きたいことは修辞法ではない。
そして貧しいアルバイトの毎日、ジーンズの日常着といったケージのスタイルに親近性を感じる。それは純粋培養的なブーレーズには決して無いものだ。

以前、リュク・フェラーリについての環境音のみを編集した作品を語る中で、フェラーリとデヴィッド・シルヴィアンの違いについて述べたが、それは世代差だけではなくケージとイーノの比較の中で否定したはずのベースとする音楽の違いがやはり根底にはあるのかもしれないとも思ってしまう。
最も原始的な情動とは何を自分の作品の依拠とするかという漠然とした選択肢のどれをとるかであって、理性的な整合性だけでは解決できない。それは人が先天的に持っている嗜好であって思考の核のようなものなのかもしれない。


Steffen Schleiermacher/JOHN CAGE Complete Piano Music (Mdg)
Complete Piano Works




Luc Ferrari l’œuvre électronique (Ina GRM)
Luc Ferrari: I' oeuvre electronique




http://tower.jp/item/2582313

最近、Ferrariの UND SO WEITER (Wergo) が発売されたが未聴である。

David Sylvian/Naoshima (Samadhi Sound)
When Loud Weather...

nice!(13)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 13

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0