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憂鬱なピーターパン —— トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』(2) [本]

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Thomas M. Disch (2008)

トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』(1) (→2014年02月01日ブログ) のつづきです。

ボウアディシア・ホワイティングはダニエルに最も近いはずの人でありながら最も遠い人だ。2人は自分の周囲からそれぞれに孤独だったし、そしていわば階級の差を越えて互いを認めあい結婚することにしたのだが、ハネムーンの夜にボウアは翔んでゆき、ダニエルはとり残された。
以後、ダニエルはずっとボウアの 「主なき身体」 を守護し年齢を重ねてゆく。長年の不在から戻ってきたボウアは、今度は永遠に 「向こう」 へと翔びさってゆく。

スピリット・レークの刑務所にいたときも、バーバラのように自殺できなかったダニエル。そしてボウアのように翔んでゆくこともできないダニエル。ダニエルは常にとり残されるという運命を受け入れることしかできない。

ボウアは決して冷酷で思いやりのない人間ではない。ダニエルならきっと翔べると思っているし、私と一緒に翔んで行こうとダニエルを誘う。だがダニエルには自分が翔べないことがわかっている。空を飛ぶ鳥と地を這う虫との違いのように、その隔絶した距離はダニエルにしかわからない。

ミセス・アリシア・シッフは常に能動的でくじけることのない人だ。彼女は器用にオペラ・シーンを操り、メタスタージオの舞台裏で音楽のすべてを支配してゆく。作曲者が誰かということなどどうでもよくて、自分の手柄についての執着も無くて、ビジネスとして、ルーティンワークとして音楽に関わってゆく。
彼女は猫背で斜視で貧弱な身体で、掃除も料理もせず、無神論者であり、ひとえに音楽だけにのめり込む。
ミセス・シッフは言う。

 退屈なんて信じない。それは怠惰を婉曲に言っただけよ。(p.279)

ミセス・シッフがダニエルのために作った『ハニバニー・タイム』は、バニー・ハニバニーとハニー・ハニバニーの物語ということになっているが、きっとそれはロジャー・ラビットとトゥイードゥルダム&トゥイードゥルディーをかけ合わせたようなスラプスティックなのかもしれない。
〈ゴールドディガーズ84年〉のベティ・ベイリーはたぶんベティ・ブープとミルドレッド・ベイリーのかけ合わせだ。

ダニエルは自分も歌うことに加わっていた教会での無料コンサートの後、教会の存在する意義について語る。教会に行くことは物理的にその場にいること、コミュニティを形成することが大事なのだと。それに対してミセス・シッフはコミュニティなら普通の音楽コンサートにだって同様に存在すると応じる。
するとバッハのカンタータについて、ダニエルは言う。

 「カンタータのテーマとはなにか? 死ですよ。死がぼくたちすべてを待
 ちうけているのは事実だし、それを避けられないというのも事実、避け
 られないってことはぼくたちみんなが知ってます」
   (略)
 「…… (略) ……誰もが疑問を抱いている。誰もが絶望している。教会に
 いて人々に囲まれているとき、そのなかには、なにも信じない人もいる
 と考えたほうがいい。そして、ぼくたちがそこにいることで、そういう
 人たちが信ずるように手助けをしているんです」 (p.369)

さらにダニエルはバッハとミセス・シッフの曲と、どこに違いがあるのか、同じではないのかと問うが、ミセス・シッフは、バッハの曲ははかり知れないほど偉大だし、私の曲はおふざけ半分だと言って、せっかくのダニエルの讃辞を否定する。
シッフはバッハについて答える。

 「でもね、バッハは、わが “救い主” 生きたまえりと言ってるわ。『われ
 は知る (イッヒ・ヴァイス)』彼は言った。『わが救い主の生きたまえる
 を (ダス・マイン・エルローサ・レープト)』。わたしの救い主はいない
 のよ」 (p.370)

ミセス・シッフの職人的音楽観の底に流れているバッソ・コンティヌオは深い沈黙と虚無なのだ。ゴドーは決してやって来ないという意味において。

この小説が教養小説的で、かつ芸術家小説的 (といってもヘッセの『ロスハルデ』のようではないのだけれど) であるのは、多分にディッシュの自伝的ともいえる経験の蓄積から出て来たものなのだろうが、同時に自明のこととして、ゲイ=ホモセクシュアルな相貌を備えていることは確かである。
ディッシュはチャールズ・ネイヤーという男性のパートナーと暮らしていて、自分がゲイであることを積極的に告げることはなかったが隠すこともなかった。
30歳の貧しい頃のダニエルが、手伝いする代わりに泊めてもらっていたジムの名前は 「アドニス・ジム」 だし、メタスタージオの案内係というのは一種の 「お小姓」 でもあって、ダニエルにはその 「そっちにもOK」 な容貌を武器にしてのし上がってゆく。

ディッシュがこの小説のアイデアとプロットを得たとするジョン・バージャーの引用したアポリネールの詩は次のようである。

 かんだかい声で語る友の未来の声をすでに僕はきいている
 その友はヨーロッパで君と一緒に歩いているのに
 実はけっしてアメリカを離れていないのだ……  (p.417・若島解説)

このビジョンが、幽体離脱的飛翔のヒントであるとのことだが、同時に 「かんだかい声」 とは、電話機から聞こえてくる変調された声のことを指すのだけれど、そこに性的な二重性が読みとれないだろうか、と若島は書いている。
そしてフェアリーとは妖精を示すとともに、軽蔑的にホモセクシュアルな男性を指す言葉でもあるという。

ダニエルが援助を乞い、その男妾となったカストラートのエルネスト・レイは、以前ミセス・シッフと結婚していたとはいうけれど、あきらかにホモセクシュアルな雰囲気に満ちていて、ダニエルはレイの 「男」 であることのあかしに、顔を黒人のように染められ、そかも頬だけは元の地肌を残す、なぜなら頬を赤らめたときそれがわかるようにという理由なのだが、そうしたオーダーはサディスティックでしかもアブノーマルな嗜好の強要でしかない。それは鍵を外してもらわなければ排尿さえもできない貞操帯にも同様にあてはまる。

エルネスト・レイの醸し出すイメージから私が連想したのはプリンスなのだが、プリンスのデビューは1978年とはいえ〈パープル・レイン〉のヒットが1984年で、1979年の時点ではまだそんなに有名であったとは言えないのではないだろうか。
そうだとしたら、実際のプリンスよりも先にプリンスを出現させている点において、これは予言の書のようなものかもしれない。もっともディッシュがプリンスを意識していたか、それとも知らなかったかが問題なのではなくて、そもそもこの70年の終わりから80年代という時代にはそうした退嬰さを生成する土壌があったのかもしれないが。そうしたランドスケープの中に1980年のジョン・レノンもある。
プリンスはミネソタ州ミネアポリスの出身であり、その音はミネアポリス・サウンドともいわれるが、この小説でダニエルとユージーンが魅せられたツインシティーズ (ミネソタ州のセント・ポールとミネアポリス) は背徳と罪悪のはびこる町、ソドムとゴモラなのだと書かれている。

また、黒塗りの顔のオペラというとどうしても連想するのはジュゼッペ・ヴェルディの《オテロ》だが、フォウニー (似非黒人) はアメリカ東部だけの現象で、それは黒人が政治的・社会的に多数派になりはじめた都市で見られるという設定が興味深い。
テアトロ・メタスタージオでダニエルの面接をしたミスター・オーマンドがフォウニーで、これはダニエルの運命の変転への伏線となっている。それは鏡に映った未来の自己の姿であるからだ。ちょうどルキノ・ヴィスコンティの映画《ベニスに死す》でアッシェンバッハが往きのの船上で化粧した男に出会い、顔をしかめたのと同じように。

ボウアへの援助を乞うたのと引き換えに、レイによって強制された淫売としての外見をダニエルは屈辱として感じる。それはセックスが商取引の一環として扱われたように思えたからだ。彼は自暴自棄になって考える。

 セックスが魂と肉体の交歓の場でないとすると、人が互いの上に立とう
 とする手段がもう一つつけ加わったに過ぎない。それはこの世のもの、
 世俗的なものだ。そうなると世俗的でないもので、あとに残るのはなん
 だろうか? カエサルのものでないのはなんだろうか? 翔ぶこと、お
 そらくそうだろう。だた優雅さの面からダニエルはいつも拒絶されてい
 るようだ。となると(理屈からすれば)死だった。(p.327)

自殺をほのめかすダニエルをミセス・シッフは叱る。そしてレイをもっと理解するようにと諫める。カストラートは翔べないというのが定説になっているが、ミセス・シッフはレイは翔べると言う。ただ翔ぼうとしないだけなのだと。
ミセス・シッフが言うように、レイは実際に翔べるのだろうか。それともそれは嘘なのだろうか。

ボウアディシアが妹のアリシアとけんかをして、腹をたてて風車用の鉄塔をのぼってゆく描写がある (p.155)。ずっと高くのぼってゆくと、眼下の眺めは、そこで動いている人びとがまるでブリューゲルの絵に出てくる人物のようで、その風景の叙述のなかにボウアの孤独感がひっそりと息づいている。
そうした、ダニエルとボウアのそれぞれの孤独感、ふたりはその孤独感を共有して互いを理解していたようでありながら、実はすれ違っていたことでしかなかったことがこの物語の悲劇である。

ダニエルが一気に有名になった時点で、それをはかるように戻ってきたボウアは、この話を象徴主義としてとらえるのならばすでに冥府の人であり、一緒に翔ぼうという励ましは死への勧誘に過ぎない。
ただ、2人の飛翔への鍵となる曲、「ぼくはピナフォア号の船長」 の持っている意味が私にはまだよくわからない。
それと細かいことだが、ボウアディシアの妹とミセス・シッフのファーストネームがどちらもアリシアであることが謎である。普通、小説を書くのなら登場人物の名前はそれぞれ違うネーミングをするべきで、同じなのは何か意味があるのかもしれない。

私のイメージするピーターパンは、妖精 (と同等) であり、妖精は人間のような心を持たないように思える。齢をとらないのと引き換えに、心を喪っているから反省もない。なぜならそれが永遠に対する唯一の処方だからである。飛ぶ人はダニエルのように悩まない。悩むことは飛べなくなることの原因となるように思う。

ディッシュはパートナーであったネイヤーが2005年に亡くなった後、次第に鬱状態となり、2008年にピストルで自らの歴史を閉じた。
バッハの未完のフーガのように、突如裁ち切られる夢は、それこそがまさに飛翔の夢であったことのしるしである。


OnWingsOfSong(1stEdUS).jpg


トマス・M・ディッシュ/歌の翼に (国書刊行会)
歌の翼に(未来の文学)




トーマス・M・ディッシュ/いさましいちびのトースター (早川書房)
いさましいちびのトースター (ハヤカワ文庫SF)




Prince/Purple Rain (Dortmund, 1988.09.09)
http://www.youtube.com/watch?v=BUT2WbYVxbU
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Loby

プリンス・アンド・ザ・レヴォリューションの
パープル・レイン、聴いてみました。
しっとりした感じの素敵な曲ですね♪

by Loby (2014-02-04 05:34) 

lequiche

>> Loby 様

わざわざ探していただいて申し訳ありません。
せっかく話題に出たのですからリンクしておいたほうがいいですね。
ということでYouTubeの動画を追加しておきました。
ありがとうございます。(^^)

プリンスは数少ない天才のひとりですが、
ミネアポリスという土地における音楽の特質が、
このディッシュの著作によって少し理解できたような気がします。
by lequiche (2014-02-04 13:59) 

miel-et-citron

そう言えば昔、友達が彼氏のことを
「ピーターパン症候群」だと言っていたのを
ふと思い出しました。
その彼氏はバンドのヴォーカルでしたけど(゚ω゚;)。o○
by miel-et-citron (2014-02-06 22:53) 

lequiche

>> miel-et-citron 様

バンドのヴォーカルの人って、
ジコチューでナルちゃんが多いですから、
ピーターパン症候群と言われてしまうのも
仕方ないかもしれないですね。(^^)

ディズニーのアニメでもピーターパンは、
おそらく唯一、感情移入できない主人公だと思います。
つまりそうでないとピーターパンらしくないってことです。

この小説の主人公ダニエルは、
ピーターパンらしくない、悩み多きピーターパンなんですが、
その人間的特性のために飛ぶことができないんだと思うんです。
by lequiche (2014-02-07 05:02) 

履歴書の封筒

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
by 履歴書の封筒 (2014-04-30 18:40) 

lequiche

>> 履歴書の封筒様

ありがとうございます。
またのお越しをお待ちしております。(^^)b
by lequiche (2014-05-02 00:35) 

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