不死の形式 —— サイードを読む [本]
Edward Wadie Said (1935〜2003)
今、エドワード・W・サイードを読んでいる。といってもポストコロニアルとか政治的な話題ではなくて音楽評論をまとめた本である。
『サイード音楽評論 1』『同 2』という2巻で、冒頭にあるグレン・グールドについて書かれた文章は有名らしい。読んでいて音楽に対する形容の豊富さにうたれた。文章量に比してその内容は密度が高く明快である。それに較べれば私の書くことなど幼児の戯れ言に近い。
サイードにとってグールドというピアニストは特別な存在で、その信頼性や信奉度は100%であり、必ずしも100%ではない私とは異なっているが、なによりサイードはグールドがまだ聴衆のいるコンサートで演奏していた頃を知っている人であり、その体験から生じる説得力もあるのだろうと思う。
グールドの衝撃的なデビュー作品であるゴルトベルク変奏曲は、彼がリリースするまで、おもだったピアニストではロザリン・テューレックを除いて、この曲を弾いていたのはほぼ皆無であったのだとのことだ (テューレックはテルミンを演奏したことでも知られる)。
バッハの対位法の厳密さとその複雑な美学を正確に紡ぎ出すのがグールドの演奏であったというサイードの論旨は、対位法という技法が厳粛さを帯びていて、同時に (そうは書かれていないが) 宗教的な意味を含めての選別を経たものであることを感じさせる。
バッハ以外の作曲家たちでも、ベートーヴェンやモーツァルトがフガートな書法を用いるときは、それが重要なのだと聴き手が気づくはずだというのである。
グールドにとって選曲、つまり自分が弾くべき曲と弾かなくていい曲というのは厳密に決まっていて、そして絶対音楽への信頼が多かったように思われる。
ある意味で彼[グールド]の演奏は、解釈することでスコアを拡張し、
豊かにし、より明瞭なものにしていて、かつそのスコアは基本的に標題
音楽に属さないものばかりである。音楽とは生来、無言のものである。
(p.11)
グールドの楽曲に対するアプローチは 「情熱的だが反官能的」 であって、やがてコンサートで自分を露出することをやめてからは 「熱心で反自然的な反官能主義」 がより推し進められたと説く。
昔のSP録音の頃とは違って、レコーディングをより人工的に、非リアルな方向性に持って行ったのはグールドとカラヤンであり、それがつまり 「反自然的」 という言葉に集約されている。
昨日のニュースに毎日映画コンクール表彰式での吉高由里子の発言として「映画は残る。私が死んだ後もレンタルされたり、買われたり。時々、不気味な仕事してるなって思う。でも、いいや。自分より長生きしてくれるんだから」 と書かれているが、サイードも同様のことを書いている。
二十世紀後半の音楽家にとって、レコーディングは不死をもたらす形式
であり得る。(p.16)
コンサートからドロップアウトしたことは、必ずしも音楽を真摯に享受しようと思わない聴衆から逃れることには成功したが、別のプレッシャーがグールドに対して働く。そのようなグールドのポジションについての微妙な態度についてサイードは次のように言う。
グールドの冒険は、いくつもの巨大企業や匿名の大衆文化や、そこで成
功をもたらすための誇大広告にどこまでも依存するものであり、そこに
は楽しいとはいえない共謀性がつきまとう。グールドはきわめて自覚的
な人物でありながら、そうした要素を深くかえりみることは決してなか
った。ある面で彼こそは市場論理の産物であったにもかかわらず、その
論理に目を向けようとしなかった。そのことはシニカルな打算であった
のか、あるいは自分の演奏にそれをうまくかみ合わせることができなか
ったのかもしれない。(p.17)
サイードのこうした音楽シーンに関する指摘は、私の中ではこの前まで読んでいたためなのか、トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』におけるオペラシーンへの視点にも、実際の音楽シーンへのディッシュの視点にも重なっているように思えてしまう。
メトロポリタン歌劇場におけるバルトークとシェーンベルクのオペラに関するサイードの文章の中には、ディッシュの描いたやや通俗的なオペラシーンを彷彿とさせる皮肉な指摘が見られる。
たとえ上演に弱点があっても、ベラ・バルトークの『青ひげ公の城』と
アルノルト・シェーンベルクの『期待』は、メトロポリタン歌劇場の夜
をめったにない、しばしば魅力的な夜にしてくれる。あまり親しまれて
いるとはいえない彼らの特殊な語法をメトで耳にする機会はまれで、こ
の劇場は、厳しくいえば二流でしかないヴェリズモ (日常的題材主義) 系
のレパートリーをいつも好んで上演している。(p.147)
だからメトのオーケストラはバルトーク的語法でない音を出すというのである。
ここをジェームズ・レヴァインのオーケストラはまるでMGMのミクロ
ス・ローザのように鳴らしてしまうのである。(p.151)
ミクロス・ローザ (Miklós Rózsa) は映画音楽を得意としたハンガリー出身の作曲家で、映画《ベン・ハー》の音楽は彼の作曲である。ここでサイードが言いたいのは、ローザのような鳴らし方はスペクタクルにはぴったりだがバルトークの音とは違うということである。つまりベラ・バルトークとミクロス・ローザという同じハンガリー人を対比させることによってメトの通俗に堕ちる音を批判しているわけだ。
ディッシュは演劇評論をしていただけでなく『ベン・ハー』という戯曲作品も書いている (それは小説『ベン・ハー』の作者ルー・ウォーレスを描いているとのことだが未読である)。『歌の翼に』の鍵となるギルバート&サリヴァンはまさにサイードの言うヴェリズモ的といっては言い過ぎかもしれないが、通俗な作品の一種だったのではないだろうか。少なくともその時代のムーヴメントに合致した作品であったのは確かだろうと思う。
話をグールドに戻せば、「グールドは自らを演じることができた」 (p.17) とサイードは言う。音楽は高踏的なだけではなくて、どうしても大衆性=通俗化への道があることは否めない。その中でどう踏みとどまれるか、という市場論理についてのサイードの見方は既出の通りである。
もちろん通俗が悪いというのではなくて、それにグールドは通俗ではないが、そしてまた私は偏狭なジャンル分け主義者ではないが、すべてをひとつのスケールで測ろうとすると無理な時は存在する。それがバルトークとローザの対比にほかならない。
最近、ワイドショーは偽作曲家の話題で賑わっているが、そうした詐欺ともいえる技法をレコード会社は最初から了解してプロモーションしていたはずであるし、なによりベートーヴェンの交響曲と件の交響曲とは異なる。クラシック音楽の空前の売り上げという惹句こそ虚しい言葉である。
サイード音楽評論 1 (みすず書房)
サイード音楽評論 2 (みすず書房)
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