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今福龍太『書物変身譚』を読む・2 [本]

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鈴木大拙とJohn Cage (Tower Records 連載/コラムより)

今福龍太『書物変身譚』を読む・1 (→2014年09月13日ブログ) のつづきです。

ジョン・ケージについてのセクション 「沈黙という名の書物」 は、ネイチャー・ライティングの作家ヘンリー・デイヴィッド・ソローに対するケージの共感を語る文章から始まっている。それは『空っぽの言葉』Empty Words (1979) からの引用で、この本の全体がソローを触媒としたヴァリエーションの産物なのだということだ。

 空っぽであることによって豊かに充満する世界。音に溢れた沈黙。(p.118)

ソローの書き残した世界を今福はそのように形容する。そして、

 音と楽音、言語音、自然音、騒音といったかたちで区別・差別する耳の
 習慣を近代の人間は無意識のうちに自分のものとしてきた。その結果、
 「音楽」 という制度にとっては 「楽音」 だけがその構成物となり、耳はそ
 れ以外の音を聴かないように自らを遮断した。(p.119)

 聴くという行為の恣意的な断続性を打ち破るためには、聴かないでいた
 音の空白、すなわち 「沈黙」 という世界へと耳を開いていかねばならな
 い。そうすれば、沈黙は音の空白ではなく、音の豊かな横溢であること
 を知るであろう。(p.119)

という。
楽音だけが音楽の構成物であるとする西欧伝統音楽はシステマティックでメカニックであり、だから日本の風鈴とか虫の声は意味のある音源として認識されないというのは、日本と西欧の耳の違いとしてよく言われる例である。
しかしケージや、モートン・フェルドマンの音楽には沈黙——音のない部分に存在するはずの音が非常に重要となる。

ケージが沈黙を知るために無響室に入ったところ、そこに沈黙はなかった。なぜなら自分の鼓動や呼吸が耳に入ってくるからである。「沈黙などというものはない。なにかが音をたてながらつねに起こっている」 とケージは言う。
こうした音に対する、いままでの西欧伝統音楽とは異なる認識のかたちが《4分33秒》という曲となったのだといえる。

《4分33秒》という曲は、あまりに有名なのであらためて説明するまでもないかもしれないが、ピアニストが4分33秒間ピアノの前に座り、1音も発せず退場する。その間に会場に聞こえている聴衆の発する囁きや、周囲の自然から聞こえる音や、その他もろもろの自然音・騒音が《4分33秒》というタイトルの音楽なのだ。
これはアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』と同じで、一度しか通用しないギミックだが、最強の意外性を持っている。

さらに今福は、ケージがオルダス・ハクスリーの『永遠の哲学』The Perennial Philosophy (1945) から影響を受けていたということを指摘する。
ハクスリーは『すばらしい新世界』というディストピア小説が有名で、それはジョージ・オーウェルの『1984年』と並ぶSFの古典とされているが、『永遠の哲学』は神秘主義について書かれた著書である。

だがハクスリーは、現代は騒音の時代であり、「人間の意思が沈黙を実現しようとすることを、ただひたすら妨害する」 (p.126) という認識を持っていたのだが、ケージの場合はやや違うスタンスであるのだという。
ハクスリーが騒音に敵対心を持ち、それをペシミスティックに考えているのに対して、ケージはもっと楽天的であり、騒音をも包容力によって相対化しようとする考えなのだということである。 (p.127)

ケージの騒音と沈黙のエピソードとして、鈴木大拙の講義の話が書かれている。

 一九五一年頃から数年間、仏教学の権威鈴木大拙がコロンビア大学にや
 ってきて禅に関する講義を行ったが、ケージはこの講義に熱心に出席し
 た。ケージの回想によれば、鈴木は講義の際、けっして大きな声では話
 さなかった。天気がいいと、コロンビア大学の教室の窓は開け放たれ、
 近くのラガーディア空港に発着する飛行機の騒音が邪魔をして鈴木が話
 していることを完全にかき消してしまうことがよくあった。もちろん、
 鈴木は騒音によって聴き取れなかった部分を繰り返したりはしなかった。
 多くの学生は、ときどきうたた寝をしながら、このただでさえ難解な講
 義を、飛行機の騒音によって中断されながら聴くことになった。
 (p.127〜128)

そのことをケージは後で反芻し、そしてある啓示を得たのだという。

 騒音は、逆説的なやり方で、大拙の言葉に沈黙を上書きした。(p.128)

と今福は書いている。
ハクスリーだったら不快に思っただろう飛行機の騒音もケージにとっては単なるエフェクトであり、最もうるさい騒音が最も音のない沈黙と等価になるという認識である。それはケージの著書の中にある、タイポグラフィで充満した紙面は結局何も示さず、つまりそれは 「空っぽの言葉」 なのだとする逆説と同じである。
ただ、このコロンビア大学の挿話は、騒音と沈黙の対比について考えさせてくれただけでなく、退屈な講義にまどろむ学生たちという明るいアンニュイのような風景を私は感じとった。

ケージの著書『サイレンス』Silence (1961) からの引用された言葉は、ケージという人とその作品の永遠性を示している。

 私が死ぬまで音は鳴っている。そして死んでからも、音は鳴りつづけるだ
 ろう。音楽の未来について恐れる必要はない。(p.137)

音楽の未来について恐れる必要はないのと同じように、書物の未来についての恐れも同様だとして今福は文章をしめくくる。ケージに影響されたかのように、その言葉はちょっと楽観的で、これからの世界が『華氏451』になるかもしれないというペシミスティックな予感と可能性を少しだけ軽減してくれるようだ。


今福龍太/書物変身譚 (新潮社)
書物変身譚

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コメント 2

Enrique

音の無い状態とは何か?を問いかけたのが『4:33』。
ヨーロッパ音楽の行き詰まりの打開を東洋に求めた一つの解だったわけですね。その傾向はいまだに続いている様に思います。
by Enrique (2014-09-16 07:37) 

lequiche

>> Enrique 様

ヨーロッパがアジアとかアフリカとか、
異なる土地に新しいものを求めることは
音楽に限らず昔からありますね。
文化的に高度で秩序だったものがヨーロッパの美学ですが、
それだけだといつか行き詰まってしまうので、
何か全く別のものを探してしまうというパターンです。
キリスト教と非キリスト教という対比もあると思います。
by lequiche (2014-09-17 13:34) 

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