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今福龍太『書物変身譚』を読む・1 [本]

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Claude Lévi-Strauss

ページをぱらぱらと見て目に留まる図版や装丁や緒言のやや感傷的な言葉の端々からは、ごく表層的な意味で、書物というものへのフェティシスムが感じられるのだが、でもそれは見せかけのこだわりのようにも思えて、しかし読むにしたがって、見せかけと見せているのも見せかけに過ぎなくて、より屈折した深いフェティシスムの影に覆われていることがわかってくるような、これはそんな本である。

選び出された10人の著者のひとりにジョン・ケージがいて、セクションのタイトルは 「沈黙という名の書物」 となっている。その話題は、ケージの『空っぽの言葉』Empty Words (1979) の引用から始まっているが、私が今、同時に読んでいた本は近藤譲の『線の音楽』(アルテスパブリッシング) であって、それもまたケージの《4分33秒》が書き出しの糸口となっている。

 聴こえない音を夢見ることはできても、聴こえない音で出来た音楽を見
 付けることはできない。

この印象的な言葉で始まる『線の音楽』は、1979年に出版された本の再刊であるが (Empty Words の発刊と同じ年だ)、その言葉から受けるイメージは、異世界にいるもうひとりの武満徹の言葉のようで、70〜80年代頃の時代に特有な空気を漂わせている。

だが、まずケージの前に今福龍太の書いたレヴィ=ストロースの項を読んでみよう。
最初に引用されているレヴィ=ストロースのフレーズ、それは 「本は、死んだもの、すでに終わったものです」 である。しかしこの言葉はちょっとしたフェイクであって、「レヴィ=ストロースが “紙ベースの本に未来は無い” と言ったように誤解される設定にわざとしているのではないかと思うのだが、真相は次のようである。

 レヴィ=ストロースは晩年のインタヴューなどで、彼がそれまでに執筆
 した厖大な著作について問われると、「私が自分の本を書くのだという
 感じを持たない」 のだ、と答えることが常だった。自分の研究の成果た
 る著作は、自分の知らぬ間に自分のなかで考え出され、書きとめられ
 ていたにすぎない。「自分」 とは、そこで何かが起きる場所ではあって
 も、意図を持って何かを恣意的に行う主体ではない。(p.93)

つまりレヴィ=ストロースの主張はとても謙虚で、自分 (=レヴィ=ストロース) は 「いわば匿名で集合的な交差点」 に過ぎないし、書物や、またその著者は、諸事象の交点にほかならないと言っているのだ、と。
すごく卑近な形容で言い換えるのなら、自分は一種の記述機械に過ぎなくて 「おりてくる」 ものを代理で書いているのに過ぎないのだというような意味あいである。

本は死んだもの、とするレヴィ=ストロースの言葉に対して今福が連想したのは、書物を死の隠喩としてとらえる絵画の伝統的表現と技法にあったのだそうだ。それは静物画であり、とくにヴァニタス Vanitas (虚栄) と呼ばれるジャンルである。
静物画は単に動かないものを写実的に描くという表層的な意味の下に、死の影がつきまとう技法だというのだ。なぜなら、描かれる対象物としての物体は、食器とか道具類などの人工物でも、動物や植物といった自然物であっても、それらはすでに死んでいてその状態のまま静止している。それを写実的に描くのが静物画なのだ。
17世紀中頃にオランダ語の Stilleven といわれたジャンルが、ドイツ語の Stilleben となり、それが英語の Still Life になった。そしてその Still Life がフランス語で Nature morte つまり 「死んだ自然」 となってゆくという解説にとても興味を覚える。
言語を翻訳するという行為は、ともするとそこで自分に都合よく (改変して) 意味を確立してしまうという意志があるように思えるのだ。

ヴァニタスの語源は、聖書の 「コヘレトの言葉」(伝道の書) にある

 コヘレトはいう。何という空しさ、何という空しさ。すべては空しい。
 vanitas vanitatum dixit Ecclesiastes vanitas vanitatum omnia
 vanitas …

であって、vanitas vanitatum とは 「空のなかの空」 という意味であるという。
言葉そのものが聖書らしくないだけでなく、むしろ東洋的な虚無感を併せ持っているようにも思えてしまう。

静物画という、写生の基本のような絵画のごく初歩的な技法に潜む死の隠喩を発見した後、さらに磯江毅という画家の作品について、リアリズムという言葉の持っているリアルという意味に対して、今福は疑問を投げかける。

 彼 [=磯江] は、リアリズム絵画が 「現実そのもの」 を写し出していた
 という素朴な思い込みを粉砕すべく、写実という行為が究極において
 はイリュージョンの産物であり、絵画は創造的な意味で知的な構築物
 にほかならないことを、自らの死すべき肖像を賭けて主張していたの
 だともいえる。(p.108)

リアリズムだと信奉していたものがリアルではなくてイリュージョンだというのは空しさに通じるし、ケージの、いままで慣用とされてきたことを一度疑ってみるという精神性につながるように思う。

(→2014年09月15日ブログへつづく)


今福龍太/書物変身譚 (新潮社)
書物変身譚




近藤譲/線の音楽 (アルテスパブリッシング)
線の音楽

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コメント 4

シルフ

レヴィ=ストロース好きでした。もう一度彼の本を真剣に読んでいた頃に戻りたいです(笑)
by シルフ (2014-09-13 08:51) 

アヨアン・イゴカー

ナルシストの若者が、老醜を恐れ自らの命を絶つこと、それは若い自分の肖像がを描いたり写真を撮る行為と同様に、四次元時空の一つを場面の切り取り終える行為でもあります。
描く前には無限の線を引くこと、あらゆる配色をすることが可能な絵画、書かれるまではどのようにでも描写できる物語、等々。描き書く行為は、対象の固定化と同義になります。描かれた瞬間、対象は静止(≒命の停止)し、同時に永遠の命を与えられることになる、そんな風に考えています。
by アヨアン・イゴカー (2014-09-13 09:36) 

lequiche

>> シルフ様

そうですね。真剣に読んでしまう内容なんですけど、
あえて気軽に読んでみるのもいいかもしれません。
音楽にも造詣が深いのを知ってますますビビッてしまいますが。(^^;)
by lequiche (2014-09-14 16:05) 

lequiche

>> アヨアン・イゴカー様

その時点で停止してしまうことが、逆に永遠の継続になるんですね。
なるほど、たしかにストップモーションの中に、
永遠の時が籠められているのかもしれません。
結晶化という言い方もありますね。
by lequiche (2014-09-14 16:06) 

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