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フィンランドのブルー — トーベ・ヤンソン展に行く [アート]

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トーベ・ヤンソン/山猫の毛皮をまとった自画像 (1942)

横浜そごうで開催されているトーベ・ヤンソン展に行って来た。
トーベ・ヤンソン (Tove Marika Jansson 1914−2001) はフィンランドの画家でありムーミンの作者であるが、今年は彼女の生誕100年という区切りの年だということで、《ムーミン展》という展覧会が開かれ、東京での会期はすでに終了しているのだそうで、知らないうちに見逃してしまったのは残念である。

今回の《トーベ・ヤンソン展》はそのタイトルの通り、有名アイコンであるムーミンをクローズアップした展示ではなくて、画家トーベ・ヤンソンがメインとなっている。特に日本ではムーミンがあまりに人口に膾炙し過ぎていて作家の名前より勝っているが、そうしたムーミン・フリーク的傾向とはかなり切り口の異なる捉え方がされていて、そうした意図を知らない者にとっては少し意外性も感じられる内容だった。

まず、ムーミンというのは、その連載が始まるずっと前から、トーベのなかで生成されていたキャラクターで、それをコミックスにして評判を得て、さらにイギリスの新聞から依頼を受け、連載を始めたことにより大ヒットとなるのだが、社会に広く認知されていく過程での弊害として、嫉妬をも含む批判とか否定的な意見も出現し (たとえば初期の頃、ムーミンパパがブルジョア的だとか)、途中からコミックスの製作はトーベではなく弟のラルスに引き継がれたこと。そしてムーミンの成功はトーベに対して金銭的な余裕を与えたが、彼女自身のアイデンティティより肥大したイメージとなったムーミンに対して、彼女はおそらく複雑な、つまり一種のコンプレックスを抱いていたのではないかと思える。
ムーミンを完全否定することはもちろんできないのだけれど、でもトーベにとって 「私は私」 であって、ムーミンに従属した私ではないという矜恃である。

ムーミンは彼女のなかで息抜きの時の間から発案された妖精のようなものであって、そのイメージの原型は多分にプリミティヴな意味合いが濃いように感じる。また彼女は常に原寸大でそれを描いていたため、展示されている原画は驚くほど小さい。
劣化を避けるため展示室の照明も暗めに絞ってあるので、かなり見えにくいのが実情だがこれは仕方のないことだろう。

あくまで自分は画家である、ということを前提としていたらしいトーベの油彩画に繁雑に登場するのは、彼女の自画像であり、それはかなり強い自己顕示の発露であることが伝わってくるし、その性格的な強さがはっきりと示されている。
また《GALM》という政治的な風刺雑誌の表紙や挿画が数多く存在していて、それは反戦的なプロパガンダであり、ナチズムへの批判でもあったりして、戦時中の2色刷に制限された造形から感じとれるのはロシア・アヴァンギャルド的な乾いた美学である。

つまり、ムーミンという、特に日本のアニメのイメージからするとホンワカしたようなやさしいキャラクターとは全く対立するような強い意志を彼女に感じてしまって、ちょっとたじろいでしまう。
1940年に当時の彼女の恋人であったとされるサム・ヴァンニの描いた彼女の肖像は毅然とした表情を見せていて、その強い意志を再現しているように見える。

もうひとつ強く感じたのは、時にその初期の絵画作品に共通する、すべての風景を覆いつくすような青の影だ。その画面のどれもが青いフィルターがかけられているような色彩の青ざめた暗さをたたえていて、素朴に考えれば、フィンランドは寒い土地だからともいえるのだが、そのブルーは気候風土によるものでもあるだけでなく、彼女の心象風景をも表現しているように思える。

トーベが生涯の後半のほとんどを一緒に過ごしたトゥーリッキ・ピエティラ (Tuulikki Pietilä 1917−2009) はグラフィック・アーティストであり、ムーミンの立体作品などをトーベと協同で製作している。彼女はこの展示の解説においてもトーベのパートナーというような漠然とした表現で紹介されているが、つまり同性の伴侶であって、トーベのそうしたセクシュアリティがわかれば、ムーミンにおけるスナフキンの性格のぼんやり感に対する焦点も合ってくる。展示室内の動画では、繰り返し〈花のサンフランシスコ〉が流されていたが、スナフキン的アウトローで内閉的な性向がフラワー・ムーヴメントだけで解釈できるわけではない。

また若い頃には男性の恋人 (たとえば前述したサム・ヴァンニ) たちが存在したにもかかわらず、次第に彼女の強い性格が、弱々しい男性を相手とすることに飽き足らなくなりセクシュアリティが変化していったのではないかという推察もあるようだ。
といって、そうしたセクシュアリティだけが作品のすべてをコントロールするわけではないし、人間がそんなに単純な存在であるともいえないが、それを過剰に隠蔽してしまうのも作家の理解を妨げる要因ともなりうる。たとえば江戸川亂步のセクシュアリティなども近年は比較的伏せられる傾向にあるようで、それが亂步にジュヴナイル作品があるからという理由付けなのだとしたら、トーベ・ヤンソンにもムーミンがあるから、ということで同列な感覚の情報操作なのかもしれない。

トーベ・ヤンソンにはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』への挿画もあって、アリスの挿画としてはオリジナルなジョン・テニエルが有名であるが、それとは全く違ったテイストのアリスで、凶暴な面構えのチェシャキャットとか面白い。唐突な比喩かもしれないが、バッハの無伴奏ヴァイオリンに対するバルトークのそれに似た感触がある。
キャロルの『スナーク狩り』の挿画もあるようで、それは展示にはなかったが、グッズ売場の書籍の中で見かけた。

日本で作られたムーミンのアニメはトーベ・ヤンソンの好みに合わず、否定されたままに終わっているという。このあたりの事情はよく知らないが、彼女の絵画作品を主体とした今回の展示を見て、単純にかわいければよいという日本の風潮とはかなり違うムーミンの実情を知った。
『ムーミン谷の十一月』というムーミンシリーズの最終作においてトーベ・ヤンソンはムーミンが不在の話を書いた。ムーミンはもう帰ってくるかどうかわからない、という状態のままま、彼女はムーミンを終結させる。ムーミンもまた彼女の作り上げた世界の青い霧の中にいるような気がする。


トーベ・ヤンソン展
http://www.asahi.com/event/tove100/
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シルフ

つい最近、トーベ・ヤンソンの伝記を読みました。今日のブログはかなり本質をついていると思いますよ。
鋭いですね。私はもともとのレズビアンだと思ってましたが、徐々に内的に変化していったんですね。
by シルフ (2014-11-19 15:53) 

lequiche

>> シルフ様

どうもありがとうございます。
シルフさんにそう言っていただけるとうれしいです。

彼女がもともとそういう性向があったのか、
それともだんだん変わっていったのかは私にはよくわかりません。
そのように解説されているのを読んだためです。
ただ、若い頃に複数の男性との交遊があったのは事実ですが。
彼女にはもともと潜在的に同性愛志向への土壌があって、
何かのきっかけにともなってその性向が
次第に顕わになっていったというふうにも考えられます。

ムーミンの中では、トゥーティッキーというキャラが
トーベのパートナー、トゥーリッキをモデルにしていますが、
トゥーティッキーがレズビアン的なキャラを、
スナフキンがホモセクシュアル的なキャラを代弁している
と考えればムーミン世界におけるバランスがとれると思います。
by lequiche (2014-11-19 16:40) 

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