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オーネット・コールマンの〈Lonely Woman〉 [音楽]

Ornette_150617.jpg
Ornette Coleman (on violin)

倉橋由美子の『夢の浮橋』は源氏物語の第54帖である 「夢浮橋」 からとられたタイトルなのだろうが、そのなかに浮橋という言葉はなく、幾つかの夢があるばかりである。そのうちのひとつに、

 更に、聞えん方なく、さまざまに、つみ重き御心をば、僧都に、思ひ許
 し聞えて、今は、「いかで、淺ましかりし、世の夢語をだに」と、急が
 るゝ心の、我ながら、もどかしきになむ。まして、人目は、いかに。

とあって、「淺ましかりし、世の夢語」 というあたりに倉橋の視点があるように思う。彼女の後期の作品は、以前はなんとなく煙ったくて、鼻持ちならないような気がして、というよりよくわからなかったのだが、年齢を重ねるとだんだんその真意がわかってきたような気がする。あくまで 「気がする」 だけで相変わらず勘違いなのかもしれない。
ジュリアン・グラックの『アルゴールの城』について、倉橋がそれを偏愛していたと私は書いたが (→2015年03月07日ブログ)、彼女の後期作品は、正確に言えば、空虚な様式美のように見せて、こっそりと毒を盛っていたというべきなのがその真相であり、物語は虚しく、「石橋」 は人間には渡れないという諦念が、物語作者は結局、旅の僧のように、傍観者でしかないのだという立場の表明なのだろう。

そして最近のニュース記事のなかに、オーネット・コールマンという名前を見たとき、倉橋の若い頃の作品にその単語があったことを唐突に思い出した。それは『暗い旅』(1961) のなかにある。

 まへにはこんなことはなかつた、シュガー・ポットが運ばれてきて好き
 なだけ砂糖をいれることができた………しかし無理もない、こんな連中
 が每日とぐろを卷いてゐるかぎり、店はますます汚く騷然となり、末期
 的な荒廢の症狀におちこんでいくだらう、それがファンクなのさ、とい
 つかかれがいつた、それからかれはファンキイを敬遠してしまつた、な
 にしろ騷々しすぎる、眼はとぢても耳に蓋をしてはきけないからね、と
 かれはいつた………《New Soil》が終つた、ウエイトレスの嬌聲がきこ
 えたのち、とつぜん生々しい女の聲が叫びだす、いや人間の聲ではない、
 アルトサックスとトランペットのユニゾン、肉聲よりも哀しい金屬の絕
 叫だ………「だれだい、オーネット・コールマンを註文したやつは」
 ———「この人らしいよ」———「あたしよ」とあなたはいふ。「まつ
 たくお好きですねえ」———「默つてゐてちやうだい、《淋しい女》
 だから」(p.76)

『暗い旅』は当時、その二人称の使い方がミシェル・ビュトールの『心変わり』の模倣だということで論争になったとのことだが、上記の部分の見た目はむしろフェルディナン・セリーヌのようだ。後年、倉橋は 「ビュトールをパクッているのが前提なのにビュトールをパクッていると言われたら鼻白む」 みたいなことを述懐していたが、そんな表層的なことではなく、むしろ全体の雰囲気にこそビュトールの影響というかパクリが見られると言ったほうが鋭い批評だったと見るべきだろう。
文中の 「ファンキイ」 とは吉祥寺のジャズ喫茶 Funky のことだ。アヴァンギャルドなリクエストがかかるのを嫌う客もいたらしい。生真面目な時代であるが、音楽がまだそうした訴求力を持っていた時代であるともいえる。オーネット・コールマンとドン・チェリーのメロディラインは同じフレーズを吹きながらも、ときどきわざと少しだけズレて、それがまさに Lonely Woman の悲しみを増幅しているように聞こえる。

この作品が発表されたとき倉橋は26歳で、その多分に気恥ずかしくて瑞々しい表現が、その1961年という時代を如実に現しているように感じる。
オーネット・コールマンが《The Shape of Jazz to Come》をリリースしたのも、ジャッキー・マクリーンの《New Soil》というアルバムも1959年で、リリースから2年経っているとはいえ、たぶん当時の時間感覚からすれば、それは最新のジャズシーンの作品だったのだと思われる。倉橋の、流行の先取り的な、あるいは少しスノッブな風俗的描写に惹かれる。それは識らない時代への美化された憧憬に過ぎないのかもしれないが。
オーネットが《The Shape of Jazz to Come》をリリースしたとき、彼は29歳。つまりオーネットと倉橋は5歳違うだけでほぼ同世代なのだ。

私にとってもこの《The Shape of Jazz to Come》は思い出のあるアルバムである。というのは、初めて自分のものになったジャズのアルバムがこれだったからである。といっても新品ではなく、まだオーネット・コールマンという名前も含めて何も知らなかった私が友人から譲ってもらったもので、しかもそれはジャケットも盤面も傷だらけで、ノイズの間から音が聞こえてくるという代物だった。
それを譲ってくれた彼は某ベースの近くに住んでいて、ベースから出るジャンク品のなかにそれがあったらしかった。ストーンズのアルバムを貸してくれたのも彼で、それは私にとって初めてのストーンズのアルバムだった。その頃、私にとって世界はまだ未知のことだらけだった。
これがジャズ? というような半分懐疑的な思いで私は《The Shape of Jazz to Come》を聴いた。なんの先入観もなく知識もなかったときで、それがよい出会いだったのか、それとも悪い出会いだったのかはよくわからない。

その後、もっとスタンダードな、いかにもジャズなアルバムも聴くようになって、するとオーネット・コールマンはそうしたスタンダードからは随分外れている奇矯な音のように思えてきた。でもさらに後になって《At The “Golden Circle”》(1965) を聴いたら、普通にスタンダードなジャズに聞こえてきた。

オーネット・コールマンは、音のつながりかたが変なのだけれど、ピリピリしていない。いつもどこかゆったりしていて、もっといえばユルくてだらだらしていて、でもいつも同じである。その、いつも同じなところがきっとすぐれているのだと思う。
たとえば《New York is Now!》なんてどちらかというと駄盤だと思っていたが、オーネットの味があることがわかってきたのは最近である。それはきっとニューヨークの夜のきらめきなのだ。街の喧噪とグラスを伝う水滴の輝く夜が聞こえてくる。

《The Shape of Jazz to Come》の冒頭曲である〈Lonely Woman〉は、そうしたオーネットだからこそ、より悲痛で、アヴァンギャルドな味がする。たぶんオーネット・コールマンこれ1曲といわれたら必ず選ばれるだろう代表曲だが、アヴァンギャルドと一線を画するマイルス・デイヴィスの《Kind of Blue》も1959年なのだ。メインストリームとアヴァンギャルドのそれぞれの代表的なアルバムが同じ年につくられた作品であること。その時代の濃密さに重みを感じる。
そしてその時代がどういう時代だったのか振り返るための音楽の記録は確実に音源として残されているが、かつてエリック・ドルフィーが言ったように、その音楽が演奏されたときの空気は決して残らない。


朝日新聞06月17日・山下洋輔
http://www.asahi.com/articles/DA3S11810882.html

Ornette Coleman/The Shape of Jazz to Come (Atlantic)
The Shape of Jazz to Come




倉橋由美子/暗い旅 (河出書房新社)
暗い旅 (河出文庫)




Ornette Coleman/The Shape of Jazz to Come
https://www.youtube.com/watch?v=Lbt9DDolcag
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リュカ

倉橋由美子さんの作品は
わりと若い頃に何冊か読んで、大人の世界を垣間みちゃった!みたいな感覚を覚えました(笑)
でもタイトルは覚えてないな−。
また読み返してみたくなりました^^
by リュカ (2015-06-17 09:45) 

lequiche

>> リュカ様

そうそう。大人の世界っぽいですね。
なんかスゲー面倒くさいなぁ、みたいなところがあって。
ずばっと言えばいいのに言わなくて回りくどくて、
こういうのが大人なのなら私はずっと大人になれないな、
と思ってたけど、いつの間にか大人っぽくなってる自分もいて、
あ〜、そぅなのか、と気づいたりしました。(^^)
by lequiche (2015-06-17 15:05) 

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