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ルンファルド — 1984年のアストル・ピアソラを聴く [音楽]

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若きアストル・ピアソラ

前ブログにアルゼンチン・タンゴのバンドネオン奏者/コンポーザーのヴィセンテ・グレコのことを書いたが、グレコがイタリア移民の子どもであったのと同じように、アストル・ピアソラもまた移民三世としてマル・デル・プラタに生まれた。
ピアソラは幼い頃からたくましいワルだったらしいが、アルゼンチンでは貧しい子どもはサッカーの選手を目指すか、それともタンゴ演奏家となる道を選ぶかくらいきり選択肢がなくて、それで彼もバンドネオンを選んだのかもしれない。

ピアソラは1984年にモントリオール・ジャズ・フェスティヴァルに出演しているが、この1984年前後のピアソラはその音楽の頂点にあったように思える。
ピアソラの有名なライヴに《Live in Wien Vol.1》というメシドール盤のアルバムがあって、これはORF (Österreichischer Rundfunk: オーストリア放送協会) によりウィーンのコンツェルトハウスで1983年10月に録音されたものである。
もう1枚の有名なライヴは、歌手のミルヴァとの、パリのブフェ・デュ・ノールにおけるライヴで、1984年9月29日に録られている。

モントリオール・ジャズ・フェスはこれらのライヴの間に位置する1984年7月2日で、その模様は映像も含めて記録され、CDとDVDが発売されている。ジャズ・フェスには他にモンタレーやモントルーなどの似た名前があって紛らわしいが (モントリオールはフランス語読みのモンレアルと発音されることも多い)、1984年のモントリオールはその第5回目であった。
Fundación Piazzolla名でmilan surから出されたタマラ・ド・レンピカのジャケットによる一連のライヴ・アルバムの中に《Otoño Porteño》というのがあるが、これも同一音源のはずだ。ジャケットには7月4日と記載されているがおそらく7月2日の間違いであると思われる。当時のプログラムを参照しても、ピアソラの出演は7月2日の1回のみだからだ。23時30分開演という深夜のコンサートである。同日には他にデヴィッド・マレイ・オクテットのコンサートがあったとのことだ。

ピアソラのこの時期のライヴ盤を辿ってみると、1983年6月11日がブエノスアイレスのテアトロ・コロン、1983年10月13日にスイスのルガーノでのライヴ (《Live Lugano 13 Ottobre 1983》であり、milanの《Adiós Nonino》は同一内容)、1984年2月がアルゼンチン、マル・デル・プラタのテアトロ・ロキシィでのライヴなどがあるが、そうしたなかでモントリオールでのライヴは最も高いテンションを持っている。
ピアソラをはじめ、メンバー全員のテンションには全く乱れがないが、特にピアノのパブロ・シーグレルがキレまくっていて、ピアソラに拮抗するソロを展開している。

そのテンションの高さは冒頭の〈Lunfardo〉から発揮されていて、やや抽象的なピアソラのバンドネオンの展開は、何かいつもと違う曲のように聞こえてしまう。コンサートの白眉は16’00”を過ぎてからのピアソラのメンバー紹介 (ここはモントリオールなので、ピアソラはフランス語でしゃべっている。ピアソラのネイティヴ言語はスペイン語だが、英語、フランス語、イタリア語にも堪能だ) に続く〈Tristezas de un Doble A〉だ。
この曲は楽譜を重視するタンゴにおいては異端ともいえるインプロヴィゼーション主体の構造を持っていて、しかし単純なアドリブの積み重ねではなく、美しい積層構造を持っている。だからこそジャズ・フェスティヴァルにふさわしかったのかもしれないが、この日のDoble Aは他のライヴでのどのDoble Aとも異なる様相を見せる。より緻密でタフだ。
後に、再びORFによって1986年11月に録られたコンツェルトハウスでのライヴ、メシドール盤の《Tristezas de un Doble A》における同曲のほうが、より無調的に、より先鋭的になっていることでは上なのかもしれないが、この構成力とピアソラの〈指の回り〉を見ると、この日のDoble Aが最もすぐれているように私は感じる。(尚、メシドール Messidor とはフランス革命暦の月の名称のひとつである。ゴダールの映画《Week-end》に革命暦で表示されるシーンがあった。)

〈Tristezas de un Doble A〉の後、〈Adiós Nonino〉が立ち上がると観客席は一段と盛り上がる。ピアソラの最愛の父が亡くなったとき、彼はニューヨークにいて家に戻る金が無くて、その無念さと望郷の思いを籠めた曲が〈Adiós Nonino〉だと言われるが、そうしたともすると過度にセンチメンタルに感じてしまう由来とは少し違った印象で、この日の演奏がされているように思える。父の死を超えるもっと力強い何かに突き動かされるような、普遍的な悲しみへと昇華する何かである。

ルンファルドとはブエノスアイレスでのイタリア訛りの俗語のことを指す。英語のコックニー (ロンドン訛り) とは少しニュアンスが違うけれど、ピアソラの出自を振り返るタイトルのように思える。

YouTubeにこのコンサートの全シーンが載っていて、それをリンクしてしまうのはよくないのかもしれないが、この音楽の興奮とその高踏さはかけがえのないものである。
ピアソラの楽曲は彼の死後も確かに楽譜として残されているが、それは単にメロディの動きを指示する地図に過ぎない。地図をトレースしてみても、それはピアノロールを再生するのと同じでそこにピアソラは存在しない。ピアソラはひとつの息吹きであり啓示であって、その代替は存在しない。ピアソラは永遠に失われてしまってそれを取り戻す術はない。Doble Aの悲しみとはそのことを言うのである。


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モントリオール・ジャズ・フェスティヴァル・プログラム

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ナディア・ブーランジェ
20世紀最大の音楽教師。彼女に教えられなかったらその後のピアソラは無かった。


Astor Piazzolla/Live at the Montreal Jazz Festival (milan)
Live at the Montreal Jazz Festival [DVD] [Import]




Live at “Festival international de Jazz de Montréal”
1984.7.2.
https://www.youtube.com/watch?v=benTjI0goBw
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コメント 3

lequiche

>> desidesi 様

そうですか。ありがとうございます。
でもコンサートの映像全部乗せ (トッピングかっ! ^^;) っていうのは
YouTubeけしからんのですけど、私はメディアも買いますのでいいんです。

ポール・マッカートニー!
なるほど、シーグレル、イケメンですね。
キンテートの編成はこの頃のピアソラでは不動ですけれど、
たとえばマイルスのクインテットにも感じるように、
ピアソラ作品を演奏するのには最も優れた編成だと思います。
1984年はピアソラにとって音楽的に最高の年だったと思いますが、
振り返ってみれば、つまりそれは最後の燦めきだったとも言えます。
by lequiche (2015-08-29 12:59) 

sig

こんぱんは。
前回のコメントのご返事、とても参考になりました。ありがとうございました。話は変わりますが、最近WOWOWでドイツ映画「パガニーニ/愛と狂気のウァイオリニスト」2013 を観ました。パガニーニの再来と謳われるデイヴィット・ギャレットが主役を演じ、ストラディバリウスですばらしい演奏を聞かせてくれていますね。
by sig (2015-08-29 23:03) 

lequiche

>> sig 様



トレーラーで見るとパガニーニっぽいですね。
デイヴィッド・ギャレットのことはほとんど知りませんが、

現段階ではクラシックの演奏のCDがほとんど無いので、

ポピュラー系のヴァイオリニストだと思っていました。

葉加瀬太郎さんみたいな印象です。

最近はクラシックの演奏もリリースしているようなので、

もう少し本格的な曲を聴いてみたいです。



パガニーニの映画にはチョイ役で
ヘルムート・バーガーが出ているので、

老いた彼がどんななのか、ちょっと興味があります。(^^)
by lequiche (2015-08-30 17:32) 

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