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ガローテの黒い瞳 — ディーノ・サルーシを聴く [音楽]

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Dino Saluzzi & Anja Lechner

アストル・ピアソラの曲とその演奏は、その当時のタンゴというジャンルの中であまりにも革新的であったために、故国アルゼンチンで排斥され、踊れないタンゴと言われた時期があった。彼はヨーロッパに渡り、そこで彼の新しいタンゴを創造する。故国に迎え入れられるまでには、かなりの時間を待たなければならなかった。もちろん今、ピアソラはむしろ伝統的なタンゴの一部と解され、その曲で普通にダンスをすることが可能である。

かつてピアソラのメロディから生じるクロマチックな動きやそのテンションが、ともすると難解という印象を持たれたのだろうが、ピアソラには彼特有の強烈なリズムがあり、その内在するリズムは彼があらかじめ持っているブエノスアイレスのタンゴの血を感じさせる。

でも、バンドネオンはピアソラばかりがもてはやされるわけではないとする意見も当然あって、その理由のひとつとして、ピアソラのエネルギッシュでパッショネイトな音はいつも聴いていると疲れてしまうからなのかもしれないし、そんなときもっと違った音が欲しいと思う願望が生じることがあるからだ。
ピアソラ以後のバンドネオン奏者のひとり、ディーノ・サルーシの《Ojos Negros》(2007) の演奏を聴いてみると——それはお薦めアルバムとしてもらったコピーなのだが——、彼の作品はそうしたポスト・ピアソラ的傾向に応じたコンセプトを持っているようにも思える。

サルーシ (Timoteo “Dino” Saluzzi, 1935−) の音はピアソラのように強烈なパーカッシヴなリズムを打ち出す意志が稀薄であり、ずっと内省的で、ときに調性感が薄く、より抽象的な方向へと傾いてゆく。そうした音楽性の違いは、ピアソラが基本的にキンテートを主体としたいわゆるグループサウンズであること——それはたとえばマイルス・デイヴィスにも共通していえる——に対して、サルーシはソロやデュオといったもっと孤立したアプローチの形態を採ることがあり、それは伝統的タンゴから逸脱した現代音楽的なテイストを持っていたり、あるいはごく曖昧に、緩く設定されているワールド・ミュージックとして語られる一種のアンビエント・ミュージックに属するもののようにも見えてしまう。
それはECMというスタイリッシュなレーベルの宿命であり、よく言えばコンテンポラリーでクリア、悪口を言うのならばデラシネなムード・ミュージックということになって、でも最近そうしたネガティヴな意見が下火になってきたのは、そもそもアンチテーゼに拮抗し得るメインストリーム自体が存在しなくなったからに違いない。逆に言えば、21世紀になってから、消費社会に従属するだけの音楽以外の音楽は、より内省的に孤立的になって行きつつある。

ウチにもサルーシのCDが何かあるはずだと思って我が家のCD棚を探してみたら1枚見つけた。
《Once Upon a Time — Far Away in the South》(1985) という彼の初期から中期にかけてのアルバムであり、クァルテット (バンドネオン、トランペット、ベース、パーカッション) 編成になっている。ベースはチャーリー・ヘイデンだ。ほとんどその内容を覚えていないのは、1度くらいしか聴かずにそのまま死蔵されていたのだと思われる。

ディスクユニオンのブログ (2011.05.21) によれば、バンドネオンで 「ECMから作品をリリースする、それはいかにタンゴから逸脱するか、といった挑戦のようで」 あるとも書かれている。なるほど、そうかもしれない。ピアソラからでさえなく、タンゴそれ自体から離れること、でもそれはバンドネオンというアルゼンチン・タンゴのための楽器という定まった先入観の、個性の固着したインストゥルメントにとってかなり困難な道でもある。
たとえば以前、ヴォルフガング・カラヤンのアコーディオンのCDがあったのを記憶しているが (でもその内容は覚えていないのだけれど)、本来のアコーディオン属の、オルガンの代用品的な本来の目的とは全く異なった地点にアルゼンチン・タンゴのバンドネオンは位置している。

《…Far Away in the South》のトランペット、パレ・ミケルボルグ (Palle Mikkelborg, 1941−) はデンマークのミュージシャンであるが、トマス・スタンコに似た北欧的音色を持っている。彼はマイルスの晩年の作品、《Aura》(1989) の作編曲とプロディースをしている。
ECMのこうしたトランペッターたち (と括ってしまうのは乱暴かもしれないが) は温度の低い音色を持っていて、音楽は美しく素晴らしいのだけれど、あらかじめ何かが喪われているインプレッションをリスナーに感じさせる。もっとマイナーだけれど例えばマルクス・シュトックハウゼンなどにも私はそれを感じる。冷静な、感情を抑制した悲しみのようなもの。
あらかじめ喪われているか、それとも喪われていないかの差異とは、例えばクリフォード・ブラウンやマイルスや、そしてきっとピアソラの音にはあって、冷たい音の彼らトランペッターたちにはないものだ。それが悪いと言っているのではない。むしろそれは心が痛んでいるときに、知らぬ間に心の深くまで入り込んでくる音なのだ。

チャーリー・ヘイデンはいつも通りの硬質なベースだ。どこにいてもいつでもチャーリー・ヘイデンなのが彼らしい。ただ誰とでも合わせてしまえる柔軟さを持ちながら、自分のキャラクターは貫くというそのしたたかさには驚く。

1曲目の〈Jose, Valeria and Matias〉はリズムが無く始まる。後半になるとリズムが刻まれてくるが、決してジャズではなく、つまりスウィングはしていなくて、もちろんタンゴのリズムでもない。
3曲目の〈The Revelation〉は冒頭から持続するパーカッションがブリジット・フォンテーヌの《Comme à la radio》の何かの曲を連想させる (何だったか忘れてしまったけれど、リバーブの谷間から聞こえるようなあの音)。その音が響いてくるのは世界が寒いからだ。

4曲目の〈Silence〉はチャーリー・ヘイデンの曲だが、和音を主体としたレントなバンドネオンのソロである。
5曲目の〈...And He Loved His Brother, Till the End〉ではヘイデンの硬いしこりのあるベースとミュート・トランペットに、静かに和音を鳴らすバンドネオンが背後にいて、しかしそのバンドネオンがソロになると、その音はタンゴ風でありながらタンゴ的クリシェを避けるような方向に時として外れてゆく。

6曲目の〈Far Away in the South...〉はタイトル曲でもあり、最も長くて一種の描写音楽のように展開してゆく。最初は点描風で、その風景の中で寂寥のトランペットが聞こえて、しかしだんだんとクレシェンドすると5’20”あたりで全く異質で楽しそうな音が混じる。やがてベースが入ってきて、そして10’00”を過ぎるとタンゴ風なバンドネオンのリフレイン、しかし定着しないままの気まぐれなベース。そしてバンドネオンとパーカッションの対話があって、13’30”あたりからバンドネオンは伝統的なタンゴフレーズを垣間見せる。南への遠い旅はよそよそしくて冷たいのだろうか、何かが始まりそうでなにも始まらずに終わるその風景はぼんやりとしていて見えにくい。

それでは比較的近作の《Ojos Negros》に戻ってもう一度聴いてみよう。2007年のこのアルバムはアニヤ・レヒナー (Anja Lechner, 1961−) のチェロとのデュオによる演奏が収められている。レヒナーは比較的現代寄りの曲を多く演奏しているロザムンデ・クァルテットでチェロを弾いている人である。

チェロに関して私はある偏見を持っていて、それは実力以上に上手く聞こえてしまう楽器だということ。もちろん偏見だ。チェロはヴァイオリンでもなく、でもコントラバスでもなくて、ちょうど手頃なポジションをキープし、弦楽クァルテットでも、オーケストラでも、おいしいところをいつも持って行ってしまう楽器で、洒落ていてちょっと自己主張が強くて、だからきっと羨望の的にされやすくて、嫉妬もされやすい。
宮澤賢治の童話が、ヴァイオリン弾きのゴーシュでもなく、コントラバス弾きのドロワットでもなくてセロ弾きなのはそのせいだ。ましてジャクリーヌ・デュ・プレに象徴されるように、女性のチェリストはカッコよくて、それでいて時にtristesseの影を漂わせる。

《Ojos Negros》の6曲目、〈El Titere〉はところどころにタンゴのステロタイプなラインを見せながらも、どのジャンルにも属さない浮遊感に満ちている。それは傀儡の芯の無いこころもとなさに似ている。4’20”あたりからのチェロのピチカートを伴ったサルーシの音と、それに続くレヒナーのソロは、無色で、どこに辿りつくのかの手がかりもない。
7曲目の〈Carretas〉は何度も試行錯誤する音の重なりが歪んだ緩慢なフーガを形成しているように思える。

これらの曲はすべてサルーシの自作曲であるが、唯一、タイトル曲の〈Ojos Negros〉だけがタンゴのスタンダードである。Ojos Negros (オホス・ネグロス) ——〈黒い瞳〉はヴィセンテ・グレコの曲で、グレコ (Vicente Greco, 1886 or 1888−1924) はタンゴ創生期のバンドネオン奏者である。彼はイタリア移民の子で、貧しさから逃れるためにごく若い頃にタンギスタとなった。
この1曲のなかにガローテ、ピアソラを経て来たタンゴの歴史が籠められている。通俗的なタンゴの香りがむしろ心地よい。ガローテ (Garrote) とはグレコの愛称である。


Dino Saluzzi/Once Upon a Time — Far Away in the South (ECM Records)
Once Upon A Time - Far Away In The South




Dino Saluzzi, Anja Lechner/Ojos Negros (ECM Records)
Ojos Negros (Slip)




Dino Saluzzi, Anja Lechner/Ojos Negros
2007.10.23 Zurich
https://www.youtube.com/watch?v=7h19UcTzc_8
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コメント 7

sig

こんにちは。
ピアソラといえば「 リベルタンゴ」しか浮かびませんが、「黒い瞳」とともに好きな曲です。総じて、タンゴは大好きで、ドキュメンタリーなどはよく見ます。
by sig (2015-08-27 21:02) 

リュカ

今リンクのyoutube聴いてます。
なんか体が動いちゃいます(笑)
by リュカ (2015-08-28 21:31) 

lequiche

>> desidesi 様

そうですか。ありがとうございます。
確かにアルゼンチンタンゴはBGMには不向きかもしれません。
それに合わせるダンスもシャープで攻撃的で、
社交ダンスというよりは競技ダンス向きだと言えます。

ECMの音はジャズでもクラシックでも、
どんなジャンルにおいてもソフィスティケートされていて、
さらりと聴くための音楽というコンセプトがあり、
それが長所でもあり弱点でもあると思います。
by lequiche (2015-08-28 21:32) 

lequiche

>> sig 様

アルゼンチンタンゴ自体は、ボサノバほどではないにしても
比較的人工的な音楽ジャンルです。
それでも歴史の積み重ねとともにスタンダード曲は存在し、
スタンダードは歴史の重みでもありますが、保守化をも意味します。

ピアソラがトロイロにいた頃に試みたスタンダードの編曲は、
すでに彼の攻撃的なフィルターを通した結果であり、
つまり彼は最初から独自のテンションを持っていました。
それを継げる者はいないので、ピアソラの死とともに
ピアソラの音楽は永遠に失われました。
それは仕方のないことです。
by lequiche (2015-08-28 21:33) 

lequiche

>> リュカ様

アルゼンチンタンゴには独特のリズム感がありますからね。
バンドネオンとチェロのデュオという、リズム楽器がない編成なのに、
じっとしていられないようなリズムがあります。
タンゴは日本人の感性からしたら異質な音感のはずなのに、
それに共感できるのは不思議ですね。
by lequiche (2015-08-28 21:46) 

gorgeanalogue

ああ。知らなかったことをいろいろ教えていただいてありがとうございます。サルーシ、(私にとって)嵌りそうな気がしています。
ところで、ちょっとベトナムに行ってきたんですが、その流れで今はこういうのも好き。
https://www.youtube.com/watch?v=U4bBBpecMHo
by gorgeanalogue (2015-09-01 19:08) 

lequiche

>> gorgeanalogue 様

上手いギターですね。ベトナム人なんですか。
コシュキンという人の曲を私は全く知りませんが、
ロシアっぽくて技巧的でコンクール用みたいな雰囲気がありますね。
ハーモニクスとかバルトーク・ピチカートと言ったらいいのか、
でもギターはいつもピチカートですから違う言い方があるのかも。
ギターをアルコで弾くのはジミー・ペイジくらいですし。

この後のブログで1984年のピアソラのことを書きましたが、
このコシュキンのワルツも1984年に作られた作品とのこと。
1984年というのはそういう年なんだなあとしみじみ思います。
by lequiche (2015-09-02 01:24) 

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