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Every day I listen to my heart あるいはHALの見る夢 ― 高野史緒『ムジカ・マキーナ』 [本]

Zauberflote_160529.jpg
Zauberflöte (Deutsche Oper Berlin)

前にとりあげた巽孝之『プログレッシヴ・ロックの哲学』のなかに、音楽SF小説として紹介されていた高野史緒『ムジカ・マキーナ』を読んでみた (前の記事は→2016年05月14日ブログ)。
文庫のカヴァーには次のようなキャッチがある。

 1870年、理想の音楽を希求するベルンシュタイン公爵は、訪問先のウィ
 ーンで、音楽を絶対的な快楽に変える麻薬〈魔笛〉の流行を知る。その
 背後には、ある画期的な技術を売りにする舞踏場の存在があった。調査
 を開始した公爵は、やがて新進音楽家フランツらとともに、〈魔笛〉と
 〈音楽機械 = ムジカ・マキーナ〉をめぐる謀略の渦中へ堕ちていく。
 虚実混淆の西欧史を舞台に究極の音楽を幻視した江戸川乱歩賞作家のデ
 ビュー長篇

魔笛にはわざわざツァウベルフレーテとルビが振ってあるが、もちろんモーツァルトのジングシュピール〈魔笛〉を連想させる。
フランツ・ヨーゼフ・マイヤーは駆け出しの指揮者で、自分の考える理想の音楽に近づけようと奮闘しているのだが、老獪なオーケストラをうまく動かすことができずイライラしている。ベルンシュタイン公爵にスポンサーになってもらえるかどうかもイマイチという状態。ところが商売敵の指揮者の振る〈魔笛〉を恋人と一緒に聴いているとき、彼女と仲違いしてしまい、外に出たところでイギリス人のセントルークス卿と興行主モーリィに出会う。セントルークスは今評判の《プレジャー・ドーム》というダンスホールを建てたのだが、そこには楽士はひとりもいなくて、機械が音楽を奏でているのだということをフランツは知る。
モーリィはフランツに、副業としてDJをしてみないか、ベルンシュタインなんかよりこっちの水のほうが甘いぞ、と誘うのだが、そのシステムをオペレーションするためには麻薬〈魔笛〉が必須で、気がつかないうちにフランツは毒されてゆく。理想の音楽が実現できるようなのは見せかけで大きな陥穽があったのだ。
ロンドンのクラブに集う客たちも同様に〈魔笛〉に浸食され廃人となってゆく。

ややミステリーっぽい仕立てでもあるので結末がどうなるかまでは書かないが、理想の音楽という考え方と、ストーリーのなかに散見される音楽的な小技が面白い。
ただ、舞台設定が1870年とあり、ウィーンではヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスが現役であり、ナポレオン3世も登場するのだが、そんななかに突然、機械仕掛けの (というより電化された) ミキシング・コンソールやスピーカーが併存してしまうという世界で、その設定がやや唐突だ。
巽孝之は前述の著書で、

 蒸気機関とコンピューターが奇妙にも併存して混淆し、世にも妖しいア
 ラベスクを奏でる世界。(p.117)

と書いているのでスチーム・パンクを連想させるが、実際には蒸気機関という言葉は 「ロイヤル・アルバート・ホールの大オルガン」 が蒸気機関で風力を供給しているという記述が出てくる1個所だけで (ハヤカワ文庫JA・p.351╱以下同)、1870年という時代性はほとんど感じられない。ロンドンの描写は現代そのままといってもよいと思われる。

巽孝之の解説によれば pleasure dome とか、ディスコテークの店名として出てくる Xanadu といった用語はコールリッジの《Kubla Khan》(1816) からの着想であり、ピラネージからコールリッジ、ド・クインシーなどを経てボードレールやランボーに至る麻薬文化と人工楽園幻想の伝統によっている、とある (p.440)。
理想の音楽という概念とか、「〈それ〉は存在する」 というような表現で語られる、いわゆる 「おりてくる音楽」 についてのこととか、音楽の理解は一瞬である、つまりわかるかわからないかであることとか、ところどころに著者の哲学が披瀝されるが (p.21, p.101, p.239)、それよりもコールリッジの元ネタのような、一種のパロディのようなものがどうしても気になってしまう。

オルガンに向かうブルックナー教授という、「べらんめい」 みたいな (でも、ちょっと違う) 妙な言葉を話す人物が出てくるが、これはもちろんまだ認められていないアントン・ブルックナーのカリカチュアで、そのブルックナーが即興演奏に興じるシーンはジュリアン・グラックの『アルゴールの城』を連想させる (p.80)。
そのオルガンの調律師であるサンクレールは一種のメカマニアであり、彼の信奉するのは単純な2つの方法であるという。ひとつは人間の手を介さないで音楽を存在させる方法、それが音楽機械であり、もうひとつは、あらゆる物音に含まれ、それでいてあまりにも僅かな音楽の瞬間を最大限に鋭く感じ取るために薬物、つまり究極の麻薬が必要だというのだ (p.402)。
端役の軍人たちが、ワインガルトナーとかシューリヒトとかシャイーとかマズアとかいう指揮者の名前なのもお遊びの一環である。
stand-aloneで動いてしまう音楽機械という概念はキューブリックのHAL9000を連想してしまう。コンピュータが人間的な反応を見せるか見せないかは、単に人間から見た外面の表情でしかなくて、機械自体が傲慢で確信犯であるのは同じなのだ。

著者によれば、フランツは指揮者のフランツ・ウェルザー=メストがモデルであり、セントルークス卿はトレヴァー・ホーンがモデルなのだという。
だからモーリィがフランツのことをフランキーと呼び、「ねえ、ハリウッドに行ってみたくない? フランキー?」 と言うのだ (フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのプロデュースをしたのはトレヴァー・ホーンだから)。

ただ、ストーリーの弱点と思えるのは、クラシックの指揮者が安易に単なるDJに鞍替えしたりするものなのかという点 (つまりこの音楽機械の性能に対して私はそれほどの魅力は感じない) と、そのようにして機械に踊らされる登場人物の個性がやや薄いということである。
そもそもこの話の主人公がベルンシュタインなのかフランツなのかが判然としないし、ベルンシュタインもアクの強くないアルド・ナリスといった印象で、シンパシィを感じにくい (アルド・ナリスは栗本薫の小説に出てくるキャラクター)。ただ、主人公は人間ではなく音楽なのだといわれたら納得させられてしまうのかもしれない。

ふたたび巽の解説の部分を読むと、「高野作品が得意とする 「おぞましさ」 や 「いかがわしさ」 のもつキメラ的魅力」 (p.442) とある。
プログレ大好きな巽孝之だと思っていたが、その視点は意外にも冷静であるように感じる。私はプログレやフュージョンはは知識としてはわかるのだけれど、それは単なる一般教養であって、没入しにくい音楽だと感じていることもあり、なぜならたとえばELPには、やはりクラシックへのコンプレックスと剽窃があるからだ。それが悪だと言っているわけではなくて、そうした編曲ものの 「いかがわしさ」 こそがプログレの精神性のように思えるからである。いかがわしいことでは、たとえばデヴィッド・ボウイだって同様である。むしろそのいかがわしさがなければグラムではないし、それとは異なるのだけれど、プログレもまた 「いかがわしい」 のである。
メロディもまたマテリアルに過ぎない。だから、冨田勲より平原綾香のほうがホルストらしいかもしれないのである。


高野史緒/ムジカ・マキーナ (早川書房)
ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)




Frankie Goes to Hollywood/Welcome to the Pleasuredome
https://www.youtube.com/watch?v=WfHKgcTaU_4
平原綾香/Jupiter
https://www.youtube.com/watch?v=K7rob0JVlfE
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末尾ルコ(アルベール)

> そうした編曲ものの 「いかがわしさ」 こそがプログレの精神性

クリント・イーストウッドがロック自体に対して、「ロックはブルースなどの剽窃だから聴かない。それならば本物(ブルース)を聴いた方がいいから」という趣旨の発言をしていました。わたしはロックも好きですが、イーストウッドの考えも理解できました。
クラシックの造詣が深いlequiche様がプログレに対してお感じになる印象が「いかがわしさ」だというのもうなずける気がします。

                  RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-05-29 07:56) 

えーちゃん

蒸気機関と言えば、ロンドンの地下鉄は最初、蒸気機関車が走ってたんだよね。
地下鉄で蒸気機関車は凄いと言うか、駅で待ってる人たちは煙かっただろうね(^^;
by えーちゃん (2016-05-29 23:25) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

おぉ、そうなんですか。
ちょっと極端ですけど気持ちはわかります。
それにクリント・イーストウッドはジャズですからね。
映画《バード》はよい作品ですけれどややマニアックですし。

「いかがわしさ」 というと負のイメージがありますが、
パロディとかコラージュとか、
文学だったらパスティーシュとか本歌取りみたいな手法って
そういうのも面白いと思うんです。
「なんでもあり」、「全部ノセ」 みたいなコンセプトとか、
楽譜通りにしかできないクラシックでは不可能なワザですよね。
《展覧会の絵》だってELPのほうがインパクトがあるでしょうし。

でも「クラシックを超えた」 とか言われちゃうと、
それはちょっとどうかなと思います。
超えるとか超えないんじゃなくて、違う種類のものですから。
by lequiche (2016-05-30 02:38) 

lequiche

>> えーちゃん様

そういえばそんな話、聞いたことがありますね。
ホントなのかなぁ?
地上の鉄道だってトンネルに入ると煙がすごい、
っていいますけど、地下鉄って全部トンネルですから、
駅で待ってるのもイヤですよね〜。
でも蒸気機関車がどの程度、煤を出すのか、
乗ったことがないので想像で言ってるだけですが。(^^;)
by lequiche (2016-05-30 02:39) 

末尾ルコ(アルベール)

なぜか今現在(1日0時50分くらい)、次のお記事のniceボタンもコメント欄も出ないので(ソネブロの不具合?)、こちらへ書かせていただきます。
川上未映子は小説もエッセイもおもしろいですね。もともとプロポーションがいいので、服もたいがい似合います。映画『パンドラの匣』へ出演していたときは、さすがに演技をしている感じはなかったですが、顔はなかなかスクリーン映えしてました。無駄にテレビへ出ないところもいいですね。羽田圭一郎はちとテレビへ出すぎで・・・。

                 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-06-01 00:58) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

申し訳ありません。
ソネブロの不具合でなく、たぶん仕様です。
修正しました。ご指摘ありがとうございました。

そうですか。映画にも出られてるんですね。
歌手をやっていたというのは知っています。
ご本人は、お尻が大きいし、脚が短いし、と謙遜されています。
ファッション大好きなことに関してはビョーキに近いです。(笑)

羽田先生はすでにバラエティ・タレントだと思っています。

昔の《トップランナー》の動画を貼っておきました。
by lequiche (2016-06-01 01:39) 

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