ビートに抱かれて — プリンス [本]
ここのところ本を読む気力が無くて未読の本が溜まるばかりなのだが、とりあえず雑誌の『現代思想』臨時増刊号のプリンス特集を読み始めたところである。
宇野維正がプリンスが踊れなくなったことについて書いているのを読んで納得した。
最近のプリンスのライヴでは、その中間あたりにヒット曲をメドレーで歌う 「サンプラー・セット」 というのが存在していたのだそうだが、それはサンプラーの音源による、いわゆるカラオケで、いくらメドレーで歌うのだとしてもそれはちょっと手抜きなんじゃない? という否定的な意見をいうファンもいたのだそうだ。
しかし完全主義のプリンスがそうした手抜きをするはずがない。ではなぜその 「サンプラー・セット」 によりピアノやギターの弾き語りのような演奏スタイルをとったのかというと、その原因は踊れなくなったことにあるのだという結論なのである。
もともとプリンスは踊るパフォーマンスをする人ではなかったが、それが映画《パープル・レイン》において急に踊るようになったのは、やはりマイケル・ジャクソンの〈スリラー〉の影響があったのではないかという。
しかし《Diamonds and Pearls》あたりからダンスはだんだんと減ってきて、そして名前の読めない時期を経て《Musicology》で再びプリンスとしてメジャー・マーケットに復活した頃には完全に踊らなくなっている。そのPVでは子どもたちのダンスに目がいくようにしむけられているが、プリンス自身は踊っていない、というのだ。
《Diamonds and Pearls》が出たときに私のプリンスへの注目も復活したのだが (→2016年04月23日ブログ)、それは一般的なファンなら同じように彼の動向を注目することに回帰した時期だったのだと思われるのだけれど、でもそうした分水嶺の時期でもあったのだとは全然感じてはいなかった。
宇野によれば、プリンスは最近踊らなくなったよねぇ、と思わせるように見せかけていたが、実は踊らないのではなく踊れなくなったのであって、それは身体の酷使によってもはやダンスができる身体ではなくなったことを意味している、しかしそれをプリンスは死に至るまで隠し続けていたというのである。
だから2015年のグラミー賞にプレゼンターとして杖をついて現れたプリンスに対しても、杖本来の役目でなく、杖をまるでファッションアイテムのように見せかけたのだとすれば、それもプリンス一流の矜恃だったのだということなのだ。
マイケル・ジャクソンもプリンスも、ともに薬によってその命を短くしたといっていいだろうが、そのように薬に頼らなければならなかったプレッシャーとかストレスを考えると胸が痛むという結論になっている。
そしてまた、彼の未発表音源を今後無理矢理発表するのはプリンス自身のフィジカル、つまり彼が監修し最終的にチェックする工程が伴っていないのだからそれは音楽的なゴーストであって、そういうものをプリンスの作品として出しても意味が無いとするのだ。これは大変厳しい意見だが頷けるものがある (大全集を出して欲しいとするミーハーな心はもちろんあるのだが)。
プリンスは最後まで自分の音楽をCDというフィジカルに籠めることにこだわったが、そうした彼の意志とは関係なく、かたちの存在しない配信という方法に音楽の今後は変わりつつある。そんなときにフィジカルというメディア (=CD) にこだわったプリンス自身のフィジカル (=肉体) が消失してしまったという暗合は象徴的であるとするのだ。
また大谷能生によるベースラインの存在しない曲があるという指摘にも大変興味を持った。
大谷によれば〈When Doves Cry〉(ビートに抱かれて) にも〈Kiss〉にもベースラインが存在しない。これはいわゆるR&Bとかブルースという黒人発祥の音楽としては異質である。
マイルス・デイヴィスがこのことについてプリンスに聞いたところ、プリンスは 「僕にとってベースラインは邪魔者」 だと答えたのだという。ベース音が存在しない奇妙な空間の虚ろさが、いままでの定型的音楽と異質の感触を与えてくれるとのことなのである。プリンスの場合、曲のスカスカ感こそがカッコイイことはよくある。それはトラックを音で埋め尽くさないと気が済まない強迫観念へのアンチテーゼでもある。
大谷は濱瀬元彦のブルーノート理論を援用して、IV→I といういわゆるアーメン終止の可能性とその広がりについても書いているが、V→I のドミナント・モーションでは終止形として強過ぎる解決がアーメン終止では薄まるということであり、それはあえて近代スケールでなくチャーチ・モードへと遡ったかつてのジャズの拡張性/融通性/曖昧さと通じる部分でもある (濱瀬のパーカーに対する解析『チャーリー・パーカーの技法』についてはすでに書いた。というか私には高度過ぎてわからないということでしかないが。→2014年07月21日ブログ)。
プリンスがベースラインを除去したのもいままでのオーソドクスなセオリーからの逸脱であり、その結果としてジャームス・ブラウン的ステロタイプなR&Bテイストからも離れてしまうという道をとったのだともいえる。それゆえにプリンスのサウンドは奇妙で孤高であり、それがエロティックな志向とも重なるのである。
書店で、平積みしてある蓮實重彦の『伯爵夫人』を見たらすでに四刷。しかも百田尚樹の本と並んでいた。『重版出来』に出て来る河さんみたいな書店員がやったに違いないと想像して笑ってしまった。
現代思想 2016年8月臨時増刊号 プリンス1958-2016 (青土社)
濱瀬元彦/チャーリー・パーカーの技法 (岩波書店)
When Doves Cry
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14347765
スーパーボウルでの完璧なライヴ完全版:
Prince/Live 2007: Super Bowl XLI Halftime Show
https://www.youtube.com/watch?v=IAVQGtOxOhI
2016-07-25 02:15
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わたしはプリンスのファンですが、「熱心な」というほどではなかったので、とても興味深く拝読しました。特にプリンスと「ダンス」「フィジカル」の関係には唸らされます。(ああ、なるほど!)という感じです。
> しかも百田尚樹の本と並んでいた。
これは確かに笑えますね(笑)。三島由紀夫文学賞の時も楽しませてくれた蓮實重彦。今後も衰えを感じさせない活躍に期待してます。 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-07-25 08:12)
本筋とは違うコメントで申し訳ありません。
以前、lequicheさまがドラマ「重版出来」のことを書いておられ、
私はまだ録画をしただけで見ておらず・・でしたが、記事を拝見して
とっても楽しみにしていました(^^)
すばらしいドラマでしたね~。まだ余韻に浸っております(^^)
河さん、ステキな書店員さんでしたね(^^)
by keroyon (2016-07-25 09:01)
>> 末尾ルコ(アルベール)様
こうした雑誌の特集では色々な人の色々な意見があるので、
「目からウロコ」 的に感心することが多いです。
蓮實/百田と並べてあるのに書店員の悪意を感じますね。
いや、悪意と言ったら言い過ぎなのでイタズラ心でしょうか。(^^)
でも売上的には 「してやったり」 なので、
蓮實先生のあの受賞会見はパフォーマーとしても一流です。(^o^)
早速、蓮實論集の便乗本も出てますし、
前2作の小説集も出るみたいです。売れるのかなぁ〜?
by lequiche (2016-07-25 11:41)
>> keroyon 様
そうですか〜。ありがとうございます。
いいドラマでしたよね。
私は原作マンガ7巻も全部読んだのですが、
ドラマは原作よりもさらに作り込まれていましたし、
五百旗頭はオダギリジョーそっくりで、
最初からそのキャスティングを想定して描いたとしか思えないです。
あと三蔵山先生の小日向文世も似てるかなぁ。
もちろん、最初からドラマ化の予定だったなんてありえないので、
役者のその人物へのなりきり度ってすごいです。
濱田マリは好演でしたね。
あんな書店員さんばかりだったらいいのになぁ、と思います。
でも、たまにいますよ。河さんみたいな店員さん。
本が本当に好きかどうかは本の扱いかたですぐにわかります。
by lequiche (2016-07-25 11:41)
ファンでも何でもないけれどプリンスは知って居ます。最近亡くなりましたよね。
by ponnta1351 (2016-07-26 15:29)
プリンスさんのことは無知なのですが、
ベースが邪魔だからと入れないで録るのは
なんとなく解らないでもないかもー。
単に普段観るジャズで日によって
ベースレスも当たり前にあるから、
違和感を感じないからというだけですが^^;;;。
でも、なんだか面白そう。
(※プリンスさんが他とは色々と違うのは
実は嫁がいつも教えてくれてるんですよ^^)
ユーチューブで「When Doves Cry」、
「ビートに抱かれて」、「Kiss」聴いてみます♪。
by すーさん (2016-07-26 17:10)
>> ponnta1351 様
はい。突然とも思える死でした。
でもすでに身体はかなりボロボロだったようです。
大変残念です。
by lequiche (2016-07-26 23:11)
>> すーさん様
ベースとドラムスはロック系などの音楽では
下支えをする基本的な音という認識がありますが、
でもそれがかえって定型的なパターンに縛られている
という見方もできるわけです。
プリンスはわざと下品で露悪的なパフォーマンスで
人の目を引くような戦略を持って出て来ました。
けれど、たとえば上にリンクしたスーパーボウルなどを観れば、
いかに洗練されたセンスを持っているのかがわかります。
楽器の扱いかたを見ても、ラフなように見せかけていて
すべてが計算されています。
そして性的に見えて最も禁欲的なのがプリンスです。
by lequiche (2016-07-26 23:12)