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スピルヴィルの森とドヴォルザーク [雑記]

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Wiener Konzerthaus streicherquartett

8月9日、池袋のジュンク堂で雑誌とジーン・ウルフの新刊を買った帰り、並びに丸善の池袋店ができていて、翌日開店ということでチラシを配っていた。この炎天下大変ですね、と思ったのを覚えているのだが、それから後、ずっと雨模様が続いて、今年は冷夏なのだろうか、そのほうが助かるけど、と思っているうちに8月も残り少ない。

こころかなしきときはおもひを野に捨てよ、と尾﨑翠は書いたが、捨てるほどの野原もないので、そういうときはセンチメンタルな音楽でも聴くのがいいのかもしれないと思うのである。
この前の《ブラタモリ》は長瀞だったのだが、長瀞といって思い出すのは中学生の頃の遠足の記憶ではなくて (その微かな記憶もあるのだけれど)、大塚愛の金魚花火だったりする。それはしんとして暗い。
野原だったらJalouseだけで消えてしまったLのことを私は思い浮かべるが、あのPVは野原というより森で、しかも単なる暗喩に過ぎない。森のなかが暗いことは同じだけれど (L: ラファエル・ラナデールについては→2011年07月19日ブログ)。

センチメンタルの王道は荒木経惟でもなくて、とりあえず私にとってはドヴォルザークの弦楽四重奏曲《アメリカ》である。いつも還って行く原初的記憶のなかの曲のひとつのような気がする。
でも、前にも書いたのだけれど、音楽というのは最初に聴いた演奏が深く刷り込まれてしまうことが多くて、たまたまあった東京クァルテット盤で聴いたら、なんとなくだるくて眠いのだ。私の最初の《アメリカ》は、おそらくウィーン・コンツェルトハウスのレコードのはずだが、確信が持てない。

尾崎翠を初めて知ったのはたぶん川又千秋の紹介記事によるものだったと思うが、同様な印象を松岡正剛も書いている。それは千夜千冊の0424夜で、花田清輝が尾﨑翠との引き合いに安部公房の 「デンドロカカリヤ」 を比較対象として選んでいたことに対して、

 そこが花田清輝にしてわからなかったのは、この時代、まだ少女マンガ
 というものが爆発していずに、花田は竹宮恵子や萩尾望都や大島弓子が
 実のところは尾崎翠の末裔であることを知る由もなかったからである。
 これは大目に見てあげたい。

というのだが、それは無理、と思わず笑ってしまった。このときの松岡の批評対象は創樹社版全集で、その後、筑摩書房版全集も出たので尾崎のカルト性は薄まった (尾﨑翠については→2013年11月06日ブログ。今回の記事はこの日の記事の焼き直しみたいなものです)。

ドヴォルザークは《アメリカ》を1893年6月、アイオワ州スピルヴィルのチェコ人居住区で書いたとされる。私はいつもこの曲を聴くとアメリカの夜のハイウェイとか摩天楼とかラスベガスのネオンのような光景を思い浮かべてしまうことを以前のブログに書いたが (→2012年02月01日ブログ)、ドヴォルザークが作曲した頃にはもちろんまだハイウェイなどは存在していなかった。

全音のEulenburg版のスコアには、第3楽章21~28小節のヴァイオリン主題はスピルヴィルの森で聞いた鳥の歌にもとづいていて、それはアカフウキンチョウなのだと書かれている。突然、ドヴォルザークがメシアンみたいに感じられてきて面白い。

第1楽章は前奏2小節に続いてヴィオラが第1主題を弾く。すぐに繰り返す1stヴァイオリン。そのとき、下を支えるチェロのピチカートが心地よい。f、g、a、c、dというペンタトニックの主題と、いつもは目立たない内声のヴィオラの柔らかい音色がその心地よさの源泉である。
ペンタトニックの使用はアメリカ先住民族や黒人などのプリミティヴな音楽へのリスペクトであるとともに、同様にプリミティヴなチェコや東欧の素朴な音楽への郷愁でもある。
17小節目からチェロ、ヴィオラ、2nd、1stと、同じフレーズを1小節毎に受け渡しながら高音楽器へと上がっていく流れなどに、つい私はハイウェイのイメージを重ねてしまうのだ。

曲は63小節で繰り返し記号があり、3小節目へ戻るのだが、その直前のe-c-a-c-e、e-c-a-c-eという1stヴァオリンによる繰り返しには翳ったニュアンスがあり、最初に戻ると瞬間的に違和感が残る。でも、これは64小節目 (6) 以降につながっている音だと考えれば納得できる。
それに、その少し前の58小節目の2ndとヴィオラによるd、f♯、a♯、g♮、b♮、f♯、a♮、dという音がすでに違和感の感じられる前哨である。

などと書いていると、もっとだらっとして聴けば良いのに、とニワムスクイが同情をこめて鳴くのだ。昔の詩人なら、ああかけすが鳴いてやかましい、と簡単に言い捨てるのに違いない。


ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団/ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲アメリカ・他
(コロムビアミュージックエンタテインメント)
ドヴォルザーク:アメリカ/ハイドン:日の出、他




Dover Quartet/Dovorak: America, 1st movement
https://www.youtube.com/watch?v=6piTRGlSzDg

L /Jalouse [Clip Officiel]
https://www.youtube.com/watch?v=XAqpJfHCwSs
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末尾ルコ(アルベール)

また暑さが戻ってきた高知です。この前まで友人のフランス人の娘さん二人が来日していて、どちらもまだティーンエイジャーで、しかも少々性格や容姿も違うということで、とても愉しく話はできたけれど、気は非常に使いました(笑)。けれどフランス人でも10代だと、映画でも音楽でも好きな俳優でも出てくるのはアメリカのものが多いです。確かにフランス映画とか、ティーン向けは少ないのですが、もっと大人にならないと分からないというのもあるのだろうなと感じました。
尾崎翠は以前ちょっと読んだかなあ~というくらいなので、また探してみよおっと♪で、リンクしてくださっている動画へ飛んで、わたしもセンチメンタルな気分を堪能させていただいております。カルテットの向かって右端の女性はお綺麗ですね。ついついバーバーの動画まで進んでしまいました(笑)。いや~、Dover Quartet、いいわ~。Lという人はあまり知らないのですが、なかかないいクリップですね。顔は似てないんですが、髪の感じが若き日のジュリー・デルピーとやや共通しています。『ブラタモリ』はわたしもいつも楽しみに観ています。すぐ観るのがもったいないので常に数回分溜まった状態なのですが(笑)。
松岡正剛の『千夜千冊』はとてもおもしろくて、しかも便利ですよね。著名な作品や作家はかなり網羅されているので、(この本について、松岡正剛はどう読んだのだろう)とチェックしてみることしばしばです。
ブルトンの書斎、「北米のアート」には特に興味があります。もっとも北米先住民の精神性や習慣などは、いくらか過大評価されているような気もしますが、それでもロマンティシズムを含めて惹かれる要素は多々あります。もちろん白人のやってきた歴史的文脈を忘れるわけにはいきませんが。
武満徹の音楽的趣味に家庭教育の影響は希薄だったというお話も興味深いです。しかし考えてみれば、わたしの父母もロックとか聴いてなかったし(笑)。ただ、読書の習慣は家庭きょいくと言うか、家庭環境の影響は大きいと思われますし、興味は尽きません。
ちなみにわたくしここ数日は、谷崎潤一郎の短編とダシール・ハメットなどで暑さを凌ごうと試みております(笑)。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-08-23 12:15) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

東京も同様に暑熱の日が戻ってきました。
確かに若い人だとどうしてもアメリカ志向になります。
フランス人は世代毎に聴く音楽がそれぞれ異なるということも
よく言われていますし。
たとえばシャンソンなどは、もう音楽的には 「死に体」 ですから、
今の若い人は、齢をとっても聴かないんじゃないでしょうか。

尾崎翠は以前のブログにも書きましたが、
大島弓子の元祖であり、金井美恵子や川上未映子に連なる系譜です。

ドーヴァー・クァルテットは、
とりあえず動画として見ることのできる演奏がよいと思い、
《アメリカ》の動画は多いので、そのなかから
これがいいのでは、と適宜選択したものです。
バーバーの動画もとても素晴らしい演奏です。
まだ若いクァルテットでCDは1枚しか出ていません。
それがモーツァルトのプロシャ王2曲と弦5のK406という
考えようによってはマニアックな選曲です。
K406は単なる編曲版といえばその通りなのですが、
K6でいえばK516bであって、
つまり疾走する悲しみby小林秀雄のK516/g-mollの次の曲です。
K515、K516、K406の順に作曲されました。
一般的にはK515とK516がペアと言われていますが、
このK516とK406は短調の双子曲なのです。

Lはアルバム1枚で消えてしまったのですが残念です。
やはり今のフランス人の嗜好には合わないのでしょうか。

ブルトンは、かなり悪く言われることもありますし、
翻訳全集も過去に一度出たのですが全巻完結していません。
比較的手に入りにくい本で、私は2冊しか持っていません。
つまり日本ではシュルレアリスムというのは、
そんなに理解されているとは言い難いのです。
そして、キュビズムとシュルレアリスムの美術嗜好が
なぜそのように異なったのかというのは不明です。

武満は、ほとんど独力で作曲のノウハウを学んだ
という歴史があり、それ自体は驚嘆すべきことですが、
シビアにいうと、ごく簡単なことを知らなかったりという
バランスの悪い部分もあったのではないかと推察できます。
食べ物の嗜好も偏っていて、食に対する関心がほとんど無く、
ドンブリメシみたいなのが一番好きと言っています。
食に無関心ということでは小室哲哉と同じです。
また武満には多くの著作がありますが、
文章が上手いために、その内容をそのまま信じてもよいのか、
という負の面も存在するのではないかと私は思います。

谷崎とダシール・ハメット、すごい組み合わせですが、
なかなかいいんじゃないでしょうか。(^^)
by lequiche (2017-08-28 02:06) 

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