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真夏の通り雨とパラス・アテネの間に [雑記]

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杏沙子

夜のフジテレビ《Love music》を見ていた。銀杏BOYZの峯田和伸が大ファンである森高千里についてまず語り、それから本人とご対面という趣向だったのだが、その後の歌〈愛は永遠〉がよかったのです。あぁこういうの、ありなんだなぁ、と思って。何かすごく青春している。それは森高千里からインスパイアされた部分も少し混じっているのだろう。

でも、音楽ということでいうのならば、数日前に2kさんがリンクされていたコバソロ&杏沙子の〈真夏の通り雨〉に聞き入ってしまったのです。この曲をカヴァーしている人はYouTubeでちょっと探してみても何人もいて、でもそのなかでこの杏沙子の歌唱は出色。彼女のこの曲に対してのコメントに 「とてもとても奥が深く、難解で、試行錯誤を繰り返して」 とあるけれど、オリジナルの宇多田ヒカルとは異なる表現で、歌を歌うという行為に対する面白味をあらためて感じさせてくれる。

歌い出しはウィスパーヴォイスっぽく始まるのだけれど、でも本質はそこにはなくて、声が強くギラッと輝く個所が突然あらわれる (たとえば1:45あたり)。それは、単純なリフレインにしないで、わざと言葉数を多くして強い印象にする宇多田の常套パターンである2:12あたりからのフレーズで (教えて 正しいサヨナラの仕方を) より鮮明になる。これはこれでちょっと面白い。ただ、演歌のキメみたいな感じにも聞こえる。
同じ個所を宇多田はどう歌っているのかを確かめてみると (2:11あたり)、さらっと同じテンションで歌っているのだが、それでいてその部分はちゃんとそれなりの意味と強さを持っている。宇多田は声を変えなくても風景が一気に変わるのだ。その微妙なコントロール感はすごいのだが、おそらくそれは本人の歌唱の根源にはじめから内在しているものに過ぎない。
その、歌のなかでの 「かげひなた」 のうつろいをトレースしようとするとむずかしい。だから自分なりのラインを見つけるしかないのだ。ただ、単にきれいに丁寧に歌おうとしただけでは、歌の本質を摑むことはできない。それが如実にあらわれるのがこの〈真夏の通り雨〉という曲なのだ。

杏沙子はカヴァー曲の歌唱と解釈が素晴らしいのだけれど、オリジナル曲の出来がイマイチなのが残念。同様だったSotte Bosseを思い出してしまう。

それで難解ということから思い出したのが、山尾悠子のwikiにおける 「難解な作風」 という記述で、その気持ちはわかるけれど、とりあえずシュルレアリスムじゃないと思います。
それで、たとえば 「パラス・アテネ」 を例にとると、

 帝都が近づくにつれて花は凝血色に闌れていき、野遊びから戻ってくる
 豺王の額に、草ばかりの花冠が載っているのを隊商の者たちは見た。
 (p.246)

この場合、闌れて [=すがれて] みたいな難読文字もあるけれど、それより 「豺王の額に花冠が載っている」 とすればわかりやすいのに、その後に 「~のを隊商の者たちは見た」 と付け加えるから、なんとなくわかりにくいという印象を与えてしまう。もっとも作家は、わざわざその効果を狙って書いているので、構文のシステムさえわかってしまえば難解ではないはず。
文庫本の自作解説ではこの 「パラス・アテネ」 の後、「火焔圖」 「夜半楽」 が続くとあるが、タイトルは塚本邦雄の歌集タイトル『星餐圖』『感幻樂』を意識したものであると思われるし、連作全体の重要なイメージである赤い繭は安部公房の『壁』の第三部のタイトル 「赤い繭」 がヒントになっているような気がする。
さらにいえば 「パラス・アテネ」 をずっと通俗にしていくと栗本薫なのかもしれないとも、ちょっと思いました。


コバソロ&杏沙子/真夏の通り雨
https://www.youtube.com/watch?v=vVxJZUsdWXU

宇多田ヒカル/真夏の通り雨
https://www.youtube.com/watch?v=f_M3V4C8nWY

銀杏BOYZ/恋は永遠
https://www.youtube.com/watch?v=xm6cm49PSW4

Love mujic 2017年10月08日
https://www.dailymotion.com/video/x63r200
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末尾ルコ(アルベール)

「真夏の通り雨」の二人の歌を聴き比べながら感じたのは、オリジナルをカヴァーする場合のアプローチの難しさと言いますか、特に宇多田ヒカルのように自分で作ってしかもクオリティが高いオリジナルを、自分自身で最も納得がいくように歌っている場合、「宇多田ヒカルでない人」がそれをどう歌うかということは、歌に対して真摯であればあるほど困難な挑戦なのだなあということです。
しかしそうした真摯な挑戦が多ければ多いほど、一つの歌はより豊かに、そしてスタンダードになっていくのかなとも思います。例えばビートルズの中でも特に好きでもない曲を現代のジャズ・ミュージシャンがカヴァーして、(これは凄いなあ)というケースも多々ありますし、そのようなカヴァーを聴くことでそれまで気づかなかったオリジナルの凄さがより理解できる場合もあります。
「真夏の通り雨」に関しては、深く的確なご比較のできるlequicheの素晴らしい分析を(なるほど)と頷きながら拝読するのみですが、「演歌のキメみたいな感じにも聞こえる」というお感じ方はおもしろいなと思いました。この辺りは耳に残り過ぎるようにやってしまうと逆効果になる可能性もあり、けっこう綱渡りなアプローチなのかなとも。

>おそらくそれは本人の歌唱の根源にはじめから内在しているものに過ぎない。

こうした能力は他人には真似できないものだし、練習しても習得できないものですね。そして抜きん出た歌い手の魅力の大きい部分を占めている要素なのではないかと。

「難解」という言葉は哲学などにはある程度相応しいけれど、その他の表現、音楽、絵画、小説や詩などにはあまり使わない方がいいような気がします。「難解」という言葉や概念があることにより、「それに接してまずどう感じるか」という鑑賞者として一番大事なことが阻害されているケースがとても多いのではないかと。それと、「難解でなければ困る人たち」もかなり多くおりますし。

それにしてもこの前からの「フランスの歌」についてのお話しでもつくづく感じているのが、「歌そのもの」の奥深さとおもしろさです。
先週またフランス人の友人と歌についての話をしたのですが、彼の意見では、ブリジット・フォンテーヌはいろいろな意味で「特別」だと言っておりました。
彼にとってレオ・フェレとジャック・ブレルが「二人の神的存在」だと言うのですが、ブレルがまたわたしにはピンと来なくて(笑)。ちなみにこの友人、別にフランスの歌だけでなく、欧米ロックやジャズにもかなり精通しております。

エレヴァンで歌うアズナブール・・・感動的ですね。この動画は何度も視聴してみます。
バルバラの「r」も強いですし、ブレルの発音も伝統フランスならではとしか言いようがありませんね。
つい考えてしまうのは、この伝統的歌い方は今後もフランスで受け継がれていくのか、消えていくのかということです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-10-09 12:23) 

トロル

「真夏の通り雨」という楽曲が好きなので、たしか以前もコメントしてしまいましたが、久しぶりに聴いてもまた、同じ箇所で響く歌詞と声の響きがあり、わたしにはやはりこの曲、宇多田ヒカル以外にありません。「風景が一気に変わる…」解ります。そのお陰で歌詞が無理なく聴こえて映像化されるようです。
さて、もうひとつ。銀杏BOYZのサポート、ベース、ドラムスに
もとandymoriのヒロシと、岡山くんが映っていたのに気がついて、
「お、おおお、、」と、なりました。
峯田さん出演のひよっ子で、古舘伊知郎の息子さんもいい役で出ていて、改めてどんなミュージシャンなのかな?と検索したらその彼のバンドにもやはりサポートなのかな、ヒロシと岡山くんがメイキングVTRに出ていたので、世の中、せま〜い!
あと、また縁の話なのですが、わたしが勤めていたあのお店に、峯田さんの妹さんが一瞬バイトしていたのですが、
「兄です。妹をよろしくお願いします!」って店頭に挨拶に寄られたことがあったなぁ…。わたしは厨房に居たのですが、凄い存在感は遠くからでも感じました。笑
今回は個人的にとてもネタ満載でした╰(*´︶`*)╯
by トロル (2017-10-09 23:40) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

カヴァーというのはオリジナルに対するリスペクトが必要で、
単に 「うまく歌ってやろう」 という気持ちだけでは
オリジナルを凌駕することはできないように思います。

実はピエール・バルーのことを書いた前ブログで、
カルロス・プエブラの〈アスタ・シエンプレ〉が
もはやスタンダードのように流布していく
ということを知り、それからの連想として
この〈真夏の通り雨〉の記事が湧き上がってきました。
音楽はいろいろな人に演奏されることで
汎用性を獲得していきます。それはとても重要です。
文章の場合は、より多くの人の目に触れること、
というのが目標だと思いますが、
読むということは能動的な意志がないとできないので、
音楽よりもやや不利ですね。(^^;)
昔、吟遊詩人が声によって物語などを伝えていったのは
音楽の伝播方法と近似した部分があり、面白いなと思います。

演歌のキメというのは、少し言葉が適切でなかったかもしれませんが、
宇多田はそうした音楽的感性で日本人ではない部分があります。
今回のアルバムの歌詞が
ほとんど英語を使っていないのにもかかわらず、
グローバルな支持を得たのは、日本的情緒を包含しているのだけれど、
それが日本人でなくてもわかりやすい処理がなされている、
というところにあるのかもしれません。

宇多田の音は日本的演歌 (J-popも含む) の感性に較べると
簡素で突き放される部分があるようにも思えますが、
それでいてものすごく細かいニュアンスがあります。
それは楽曲のなかで比重をかけるべき場所が
違うのではないかという仮定です。

サンレコなどでも指摘されていることですが、
宇多田のコーラス部分のオーケストレーションは
必ずしもコードが合っていなくて、つまりぶつかる部分があって、
これでいいのか、と思うけれどそれでいいのだ、
ということなのです。
ビートルズが《ラバーソウル》を出したとき、
コードがめちゃくちゃ、と言われたのだそうですが、
今では普通に音楽の教科書に載っている楽曲です。
ゲンズブールの曲に対するスタンスと同じように、
宇多田はそんなに細部まで考えているわけではなくて、
けれど大づかみな部分が非常に独創的なのです。
それは簡単に言ってしまえば天才性なのですが、
つまり一流の体操選手は最初から蹴上がりなんかすぐできてしまう、
別に練習などしなくても天性のセンスがあるので、
だから逆上がりさえ練習しないとできない一般人とは違う、
という喩え話がありますがそれと同じようなことです。

以前のブログにソット・ボッセのカヴァーのことは書きましたが、
まさに 「それまで気づかなかったオリジナルの凄さ」 を
上手く引き出した例です。
徳永英明とか柴田淳もカヴァーが上手いですね。

Sotte Bosse/One more time, One more chance
https://www.youtube.com/watch?v=WPkW_E62Gns

確かに難解かどうかということは相対評価ですから、
「こんな簡単なことなのに難解なんていうのは理解力が劣るから」
と見られてしまうかもしれませんね。
今回の山尾悠子のwikiの記述は、まさにそうだったのですけれど。
でも蓮實先生の『陥没地帯』あたりなら、
難解といっても差し支えないのかもしれません。(^^)_

レオ・フェレとジャック・ブレルですか。
やはり日本人は基本的には韻がわかりませんので、
そのへんが理解不能な部分です。
理論的にわかっていても感覚的なそういう耳を持っていません。
フランス人の子どもが動詞の不規則変化を間違えないために、
何度も繰り返して声に出したりして覚えているのは、
日本人の子どもが九九を覚えたりするのと同じです。
そういう言語環境のなかで韻という感覚が育まれるのだと思います。
日本語でもたとえば数詞の不規則性、
いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん、ごほん……
このように 「ほん」 が 「ぼん」 になったり 「ぽん」 になったり、
というのは外国人からみれば非常に不規則で難解だということです。

「r音」 はフランス語でもドイツ語でも衰退していくはずです。
人間はなるべく口を使わないでサボろうとしますから。
南のほうが 「r音」 が強く残っているのは気温のせいです。
北のほうは寒いのであまり口を動かしたくない、ということで。(笑)
日本語でも 「お」 と 「を」 はもはや区別されていませんし、
「じ」 と 「ぢ」 は、もっとそうです。

アズナブールは正規のライヴ映像を出して欲しいと思います。
by lequiche (2017-10-10 00:16) 

lequiche

>> トロル様

宇多田ヒカルのPV自体がよくできていますね。
映像と曲が一体化して相乗効果となっているように思います。

銀杏BOYZ、それはよかったです。
今回の朝ドラはほとんど観ていなかったのでわからないのですが、
峯田さんと古舘さんの息子さん出演! そうなんですか。
まぁ世の中狭いのはそうかもしれません。(^^)
でも、妹さんがバイトというのもリアリティがあり過ぎて
なんかスゴいなぁ〜!
そこに挨拶に来るっていうのももっとスゴいですけど。
by lequiche (2017-10-10 04:24) 

えーちゃん

森高千里は、昔チョッとだけファンでした(゚□゚)

by えーちゃん (2017-10-11 06:58) 

lequiche

>> えーちゃん様

そうなんですか。(^^)
《Love music》は落ち着いた雰囲気ですけど、
扱っている音楽は意外にトンガッたりしていて、
ときどき観てます。
by lequiche (2017-10-11 14:01) 

うっかりくま

峯田さんの「愛は永遠」、青春らしさが良くて以前
好きだったイエモンを思い出しました。それと番組内に
登場したクロマニヨンズのマーシーがしばらく見ない間に
おじいさんっぽくなっていたのにもびっくりしました。
「真夏の通り雨」は宇多田ヒカルのPVがあまりにも完成
されていてどうしても他は霞んで見えてしまいますが、
コバソロさんという今風の方もちょっと面白かったです。
山尾さんの作品は独自の世界を築いているのに不思議と
既視感を覚えるのは、自分も読んだ本や見た絵画から
着想を得た所があるからなのかと、御記事を読んで思い
ました。上橋さんの「精霊の守人」もそうでしたが、
映像化すると残酷シーンが際立ってしまいそうなので、
凝った修辞を楽しみつつ本を読むのがいいのだろうなあ
とも思います。栗本薫というとグイン・サーガとかで
しょうか?(またコメント書き換えてスミマセン・・)



by うっかりくま (2017-10-12 00:46) 

lequiche

>> うっかりくま様

吉井和哉って感じもありますけど、
もっと昔のフォークシンガーみたいにも思えます。

>> マーシーが…おじいさんっぽくなっていた

今度、言いつけておきます。(ウソウソ ^^;)

ネットには、言葉は悪いですけど、
「宇多田ヒカルはバケモノ」 という形容がありました。
もちろん、すごすぎるという意味でのバケモノです。
ただ、結局宇多田ばかりが中心になってしまいましたが
私はこのコバソロ&杏沙子ヴァージョンは相当良いと思います。
オリジナリティがあります。

山尾悠子の既視感、なるほど言えてますね。
やはり影響される元ネタというのはそんなに広くないんです。
たぶん、同じようなところを見ていれば、
感覚的にも同じになりますし、
そこから醸成されるものも似通ったものになるはずです。
私は文章技法的な部分に注目してしまうんですが、
やはり同じパターンを多用すると読者は麻痺するんですね。
たとえばトランプだったらエースは4枚しかないので、
それをどのように有効に活用するかです。
エースが10枚も20枚も出てきたら食傷しますし。

映像化というのが最近は安易に行われますが、
映像にしやすいものとしにくいものは厳然として存在します。
文字情報をどのように解釈するかというのは
作品によりけりですね。
文字を逐一映像化すればいいというのは安易な思考です。

はい、グイン・サーガです。
でも今読むと、たぶんストーリーテリング的にも弱いし、
消費文学でしかなかったのだろうと思えます。
そのようにして消費され、後に残らないものは
文学に限らず絵画にも音楽にもありますね。
淘汰されるのはしかたがないことなのかもしれませんし、
そのはかなさがまた良いのかもしれません。
by lequiche (2017-10-12 01:34) 

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