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もう来ない夏 ― 浜崎あゆみ《Fly high》 [音楽]

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何かに心を惹かれること、興味を持つことには2種類あって、「これだ!」 と瞬間的に沸騰してしまう場合と、最初はぼんやりと何となく気になっているだけなのに、次第にそれがかたちを成して大きな位置を占めてしまう場合がある。
瞬間的に分かってしまうのは私の場合、服で、ショップに入ったとき、どれが自分の欲しい服かは瞬間的に分かる。ただ、いきなりそれに手を出すのは恥ずかしいので他のものを見てみたりするフェイントがあるのだが。たとえばファッションショーの何十枚の写真からこれ1枚を選ぶのだったら簡単に決められる。好みが明快だからだ。
だが音楽の場合は、「最初はぼんやり」 であることがほとんどで、心に引っかかっているのか、それともそうでないのかがよくわからない。形がないものだからなのだろうか。選びとるまでの過程がとても臆病である。

浜崎あゆみについて語ることはむずかしい。音楽以外の夾雑物が多すぎるし、その音楽自体がそうした夾雑物を含めて成立している実態もあるからである。
まず年代的な視点でいうと、浜崎はよく安室奈美恵と比較されることがあるが、安室がブレイクしたのは1995年1月の〈TRY ME〉あたりからであって、浜崎の1stシングル〈poker face〉は1998年4月、時代として少しズレている。
浜崎の最初のアルバム《A Song for ××》の発売は1999年1月1日だが、この1999年という年は特異な年であり、アルバムの発売日で見ると、椎名林檎《無罪モラトリアム》が同年2月24日、宇多田ヒカル《First Love》が同年3月10日である。つまり浜崎、椎名、宇多田の1stアルバムがこの年の1月から3月の間にリリースされているのだ。音楽に限らず、こうした 「出現」 は多くの場合、特異点であり、時間軸の中に偏在する。
安室はむしろ、Every Little Thing (1stシングル〈Feel My Heart〉が1996年8月7日発売) などと同時代であり、浜崎などよりひとつ前の世代であるというふうに捉えたほうがよいのだと思う。

もうひとつ、安室と浜崎が異なるのは、安室は単純に 「歌手」 だということである。一方、宇多田や椎名は作詩作曲をするシンガーソングライターであり、浜崎はその中間に位置する存在であって、原則的に作詩のみをするライターであることだ。
夾雑物ということで述べるのならば、その当時 (今でも?)、浜崎の作詩は本当は彼女が書いているのではない、という風聞もあった。彼女を目の敵のように攻撃していたマニアなHPがあって、その彼が強力に推しているアイドル・グループが存在していたのだが、それは泡沫アイドルでしかなく、今となっては影も形もないし、名前さえ忘れてしまっている。マニアックなプロモーションの一環だったのかもしれない。
大雑把に言ってしまえば、浜崎が作詞を実際にしているかいないかなど、どうでもいいのである。それを含めたそのプロジェクト総体におけるコンセプトが時代の心象風景を反映していたかどうかが問題なのだ。

何となく気になっていただけの浜崎あゆみが明確にかたちをとったのは、私にしては珍しくはっきりしていて、それは〈Fly high〉(2002.2.9リリース) のPVによってである。つまり時代のトレンドへのかかわりかたとしては、やや遅い。
PVと同時に彼女が自分の音楽について語る動画があって、その確信的な自信と、同時に感じた乖離のようなものが興味を引き起こした。年齢の割に妙に悟っている部分と、幼い感じとが混在していて、プロデュースされていることに沿っているものとそれに反撥しているものが同居しているように思えたからである。

〈Fly high〉のPVは、スタジオライヴのような設定であり、めまぐるしく動くカメラワークが、雑然としたライヴの雰囲気を作り出している。ダボッとしたひかりもののトップスにダメージのショートパンツ、ブロンドのショートヘアでクラシカルなフォルムのマイクを持って歌う浜崎あゆみは少年っぽい。それは歌詞にも表れる。

 僕は考え過ぎたのかもしれない

1stシングル〈poker face〉(1998.4.8) のPVは、樹に鈴なりとなったモニター画面で、それはナム・ジュン・パイクのインスタレーションを連想させる (ということはすでに書いた→2012年04月24日ブログ)。そしてこうした初期の浜崎のPVから受ける印象は、やや実年齢より上の、オネエサンな雰囲気を湛えているように思える。
〈poker face〉以後、シングルは昔の流行歌手のように2カ月毎にリリースされる。〈YOU〉(1998.6.10)、〈Trust〉(1998.8.5)、〈For My Dear...〉(1998.10.7)、〈Depend on you〉(1998.12.9)、そして1999年元旦の1stアルバム《A Song for ××》へとつながる。

だが《A Song for ××》のジャケット写真は、フードを被った正面からの顔で、オネエサンな雰囲気でなく、むしろロリータ的に幼い。白を基調としたモノクロームなイメージ、そして繊細に絡まるヘアラインのデザインからはある種のメッセージが感じ取れるが、それはそれまでの各シングルから発せられてきたメッセージとは微妙に異なるのだ。私はそれがプロデュース・チームに存在する相剋のように感じられる。どのようにして売るべきか、まだキャラクターが定まっていなかったように思える。

1999年もほぼ2カ月毎のシングル発売は続き、浜崎はまさに 「流行歌」 を連発し続けていた。だがタイトルが全て英語であることが一種の抽象性を持ち、連続性の陶酔なのか、それともどこを切っても同じ金太郎飴のようなステロタイプなのか (例えが古い!)、その均衡のなかにいたようでもあった。
1999年の終わりから翌年はじめの3曲、枚数限定のシングル〈appears〉(1999.11.10)、〈kanariya〉(1999.12.8)、〈Fly high〉(2000.2.95) はその連続性に変化を持たせるためのビジュアルを強調したセットのようでもある。
〈appears〉と同日に、2ndアルバム《LOVEppears》がリリースされ、ここがひとつの転換点であることを暗示していた。

2000年4月から次のセット、いわゆる 「絶望3部作」 と呼ばれる3曲が1カ月毎に出された。〈vogue〉(2000.4.26)、〈Far away〉(200.5.17)、〈SEASONS〉(2000.6.7) というセットである。その後のシングル〈SURREAL〉(2000.9.27) が出たとき、その頃親しかった浜崎好きな友人と私が共通の認識を持ってしまったことは確かである。「終わったね」 と。
この2つ目のセットは、わかりやすいたとえで言えば、ビートルズのサージェント・ペパーズのようなもので (この例えも古い!)、ここがピークだったのだと、振り返ってみると思える。

この時期、通常のシングル、アルバムだけでなく、リミックス盤、アナログ盤と、浜崎サイトは多彩なかたちで攻撃を仕掛けた。幾つものヴァージョンで稼ごうとするのはミレーヌ・ファルメールと同じで、夢にうかされると霊感商法のように何でも買わされてしまうのである。
リミックス盤とはそのほとんどが製作者サイドの自己満足であり駄盤であるが、浜崎の2枚目のリミックス・アルバム《SUPER EUROBEAT presents ayu-ro mix》は例外的な傑作であり、個人的にはこのリミックス・アルバムが浜崎の最高傑作であると思う。このアルバムはシングル〈Fly high〉の発売から1週間後の2000年2月16日にリリースされているが、このアルバムのトップに収録されているのが〈Fly high〉のリミックスなのである。

冒頭、〈Fly high〉はクジラの鳴き声のようなエフェクトから始まる。私が連想したのはジェラルド大下であるが、曲に入ればそれは軽快なユーロビートであり、車の中で聴いてはいけない。スピードが出過ぎるからである (でも、今聴いてももうスピードは出ないだろう。なぜならときが過ぎてしまったから)。

さて、ユーロミクスではない本来の〈Fly high〉のPVに戻ろう。この曲から私が感じるのは、浜崎あゆみの少年性である。彼女はときどき歌詞に 「僕」 という一人称を使う。

 僕は考え過ぎたのかもしれない 〈Fly high〉

 振り向けば君が
 笑っていました 〈vogue〉

 僕らは今生きていて
 そして何を見つけるだろう 〈SEASONS〉

〈vogue〉の歌詞は 「ですます」 調で、「僕」 は出てこないが 「君」 という第二人称によって、それを言っている第一人称が 「僕」 っぽいことがわかる。
浜崎自身は、なぜ 「僕」 という単語を使うかという問いに対して 「(わたしという言葉を使うのが) 恥ずかしいから」 という答えを出していたような記憶がある。また、女性が 「僕」 という第一人称を用いても別によいのではないかという意見もある。もちろん、単に男性歌手が女心を歌う演歌もあるのだから、その逆だという解釈も当然ある。だが、そんなに簡単なことではないと私は思う。

人は常に自分の心の中に自分の性とは反対の性を持つ。男性の中にも 「女性」 性は存在し、女性の中にも 「男性」 性は存在する。
浜崎の初期PVはきれいなオネエサンを志向しながらも、どこか美少年的な翳りをも同時に併せ持っている。ヘアスタイルもロングよりショートのほうが少年っぽいはずである。

〈Fly high〉のPVにはフードを被って立っている浜崎が出てくる。それはアルバム《A Song for ××》のジャケットを暗示している。フードを被った浜崎あゆみは内向的な過去のもうひとりの浜崎あゆみであり、もっといえば性的に未分化なキャラクターを指しているのかもしれない。つまり正確にいえばロリータ以前かもしれない。
〈Fly high〉から私が連想したのはトマス・M・ディッシュの『歌の翼に』でもある。主人公はどうしても飛べない。だが主人公の彼女は簡単に飛べてしまう。飛ぶことはピーターパンに似て、まだ未分化な性の象徴でもある。大人になったら飛べないのだ。まだ飛べていた〈Fly high〉から、飛べなくなった〈SEASONS〉への移行というふうにも考えられる (ディッシュについては→2014年02月01日ブログ参照)。
少年性を連想させるということでは〈SURREAL〉以後の曲だが〈NEVER EVER〉のPVやジャケット写真がそうである。服がワンピースであるにもかかわらず、迷彩柄であること、顔が泥で汚れていること、髪がやはりショートであることなどが倒錯した性を感じさせる。

〈SEASONS〉のPVにおける浜崎の衣裳は喪服である。少年と少女は白い服で浜崎は黒い服、それは少年期・少女期からの訣別としての喪服であるのかもしれない。未分化なときから、大人としてのときへの移行。未来ある白から絶望の黒へ。傾いた風景は廃墟となった未来を思わせる。
と書いてはきたが、もしかするとこれは 「考え過ぎかもしれない」。

浜崎あゆみと安室奈美恵は、その一時期、カリスマ性を持っていたことで同根のように語られたりもするが、最も異なるのは浜崎の歌詞の中に存在する泥くささである。たとえば〈A Song for ××〉のそれは時として直截すぎ、洗練されていなくて、なめらかでない。そして結論なく終わる。
十代の少女たちに浜崎が共感を得ていたのは、世間の不条理感に対する個別の抗いであって、連帯感とは無縁である。少女たちは共通した共感を持っているがそれは個々のことで、連帯することはなく、やがてそこから卒業してゆく。なぜなら大人になってゆくから。ウェンディのように。
ディッシュの『歌の翼に』の悲劇は、ウェンディが飛べて、ピーターパン自身が飛べないことにあるのだ。それは倒錯したマゾヒスティックな悲劇でもある。

〈SEASONS〉を過ぎてから、浜崎は普通の女性としての作品がほとんどになった。彼女の商業的成功は、すべてを手に入れたように思えるが、何も手に入れていないようにも見える。すべてがありながら、同時にすべてはないという矛盾した孤独感は、小室哲哉から感じ取られる孤独感に似る。
近年になって浜崎あゆみは太ったと言われるが、彼女は 「あの時代にはもう戻りたくない」 という。もっとも好きなことができるべき時期に、体型維持のため食べるものを制限され、いつもひもじかったという。

〈Far away〉で歌われるのはかたちのないものであり、それは音楽の別名でもある。

 新しく 私らしく あなたらしく 生まれ変わる...
 幸せは 口にすればほら 指のすき間
 こぼれ落ちてゆく 形ないもの

曲の最後のフレーズはこう歌われる。

 もうすぐで夏が来るよ あなたなしの...

〈vogue〉と〈SEASONS〉の間に位置するこの曲は普通の失恋の歌のように見えてなにか不穏だ。「忘れてた景色たち」 と、景色は複数形で呼ばれる。それは残酷な風景であり、「もうすぐに」 でなく 「もうすぐで」 というところに飛散する夏ではない夏を見るのである。


浜崎あゆみ/A Song for ×× (エイベックス・トラックス)
A Song for ××




Fly high
https://videa.hu/videok/zene/ayumi-hamasaki-fly-high-japan-jpop-mv-xmKC4OyfoqE72S2X

A Song for ××
https://www.youtube.com/watch?v=st8eRKaqchU

SEASONS
https://www.youtube.com/watch?v=BQEBJeZSaVs

Far away
https://www.youtube.com/watch?v=M80sHiboK3o
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(。・_・。)2k

音楽のことは良く分かりませんが
Fly highのPVはボイッシュでカッコ可愛いですね
顔は好きでしたが なんとなく 小室一家が苦手で
あまり聴かなかったんですよねぇ
良い歌 沢山 あるんですよねぇ


by (。・_・。)2k (2018-03-18 02:07) 

きよたん

今回の分析 興味深くよませていただきました。
娘が中学から高校の頃浜崎あゆみに共感していたようです。
あきらかに安室奈美恵への執着の度合とは違っていましたね
by きよたん (2018-03-18 10:11) 

末尾ルコ(アルベール)

「興味を持つ」過程に関するご論考、とても「興味深い」(笑)です。これはわたしもじっくり生活を振り返る意義がありそうです。
わたしの場合、服の色とか形態とかには明確な好みがありまして、基本的に「ほのぼの系の色」や「ざっくり系の形態」は着ないので、それ以外から選択していきます。
流行は、ケースバイケースではありますが、普通は対象外ですね。「自分と似たような服装」してる人たちがぞろぞろいるのは嫌なので(笑)。
音楽はいきなり心に突き刺さってくるものは玉座に置きますが、その他はけっこう雑食で、音が気に入れば、割と何でも聴きます。

浜崎あゆみはわたしにとって、かなり縁遠い存在であり続けていました。確かに「夾雑物」が極めて多い人なのでしょうが、それ以前におそらく、わたし自身が日本のポップミュージックを一切聴いていなかった時期と重なっているというのもあると思います。
しかし浜崎あゆみ、観たり聴いたりしていないけれど、情報はどんどん入ってくるタイプでしたね。やや「スキャンダラス」という点では、米国のポップスター的だった感もあります。
テイラー・スウィフトの人気のありようを先取りしていたような気も・・・というのは書きながら思いついたことですが(←こういうパターン、最近のわたしにはとても多いのです)。
リンクしてくださっている動画、視聴しました。
とは言え、浜崎あゆみを正面から観たり聴いたりしたことのないわたしがすぐにいろいろ述べるのは差し控えましょう。
いつもながらLequiche様の視点とご考察は新鮮で、またしてもポップミュージックに対するわたしの味方に新たな段階が生まれました。

>すべてがありながら、同時にすべてはないという矛盾した孤独感は、小室哲哉から感じ取られる孤独感に似る。

確かにそうですね。少し前にNHK『うたコン』に小室哲哉が出ていましたが、年齢の割にはとても老けた印象で、驚きました。
TMネットワークが台頭してきた時期のことを知っているだけに、尚更でした。

デルジャヴィナのハイドン、ソナタも視聴いたしました。
確かにデルジャヴィナ、視聴回数が少ないですね。世界的にはまだあまり知られてないということで、このようなピアニストをご紹介いただき、すごく得した気分です(笑)。
そしてとてもスタイリッシュな方だという気がいたします。どの映像を観ても、カッコいいですね。
けっこうロシアのピアニストって、スタイリッシュかつ、やはりデカダンを感じさせてくれる人が多いような。

ジミヘンもジャニスも、「いつ聴いても凄い」という共通点がありますね。ローリング・ストーンズやザ・フーなどもカッコいいですが、それ以上に「ロックの塊」と言いますか、ちょっと人間離れしたところを感じます。
ジム・モリソンあたりにも感じるのですが、この人も早くに亡くなりましたね。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-03-18 13:08) 

えーちゃん

浜崎あゆみは、元アイドルみたいな感じだからね(゚□゚)
アイドルがアーチスト系歌手に転向するのが流行ってたしね。
渡瀬マキ(リンドバーグ)や持田香織(ELT)や篠原涼子なども元アイドルです。
アイドル時代に、あまり売れなかった人たちが歌手で一旗揚げようみたいな感じで皆ハマったよね。
by えーちゃん (2018-03-18 16:32) 

lequiche

>> (。・_・。)2k様

あ、そうそう。
ボーイッシュという言葉がありましたね。(^^;)
男の子ふうな中に秘められた女性らしさというか。

浜崎はavexですし小室さんも何曲か書いていますが、
小室ファミリーではありません。
菊地一仁、星野靖彦、長尾大といった作曲家の作品が
多いです。
by lequiche (2018-03-18 22:36) 

lequiche

>> きよたん様

そうですか。
最も流行していた頃なのでしょうね。
浜崎と安室に共通しているのは
ある種のコンプレックスを抱えていたことで、
それをうまく利用してブレイクしたように思います。
コンプレックスを克服するバネは強いです。
by lequiche (2018-03-18 22:37) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

流行というのは不思議な現象で、
他人と同じ恰好はしたくないと思いながら
結果として同じような恰好が蔓延するという構造です。

J-popに関しては最近Speakeasyさんも書かれていますが、
英米のロックそのものがジリ貧で聴くべきものがない、
それでJ-popに行ってしまう傾向があるとのことなのですが、
それは確かに言えてます。
ポップミュージックばかりでロックが無いですね。
その結果としてロックは、古いロックのリバイバルばかりで、
いつまでたってもビートルズ、ツェッペリンなどの
過去の大御所を超える存在が出て来ません。
もちろんそれぞれがんばっている人もいるんですが、
あまりに細分化してしまって
歴史的なムーヴメントとはなり得ないのです。
たとえばテイラー・スウィフトという人を私は知りません。
名前くらいは聞いたことがありますけれど。(笑)
つまり全てがミニマライズしてしまっていて、
どのジャンルもそれぞれにマニアックでしかないのです。

ひとくちにJ-popといっても、あまりに間口が広いので、
その細分化状態は世界的なものなのではないかと思います。
浜崎のブレイクははっきり言いますと
1999〜2000年の2年間だけです。
ここでほとんど全てのパターンは出尽くしてしまいました。
それ以後も続いていますがもはやステロタイプな再生産です。
これは歌謡曲というより流行歌の構図です。
長年こつこつとマイペースで活動している歌手もいますが、
ドカンとブレイクしてあとは・・・というのも
流行歌という位置づけならそれもありだと思うのです。

流行というのは極端に流れれば流れるほど、
爆発的に売れますが、急に消失してしまいます。
アムラーの頃の超ミニスカートとか厚底ブーツが良い例です。
でも流行は螺旋状に巡ってまた回帰します。
もし流行を利用したくて、流行に乗るのだとしたら、
その流れをどう有利に捉えられるか、です。
長年こつこつとマイペースというのならば、
別に流行におもねる必要はないからです。

ハイドンのソナタには
マルカンドレ・アムランが弾いたCDがあって、
アムランという人は超絶技巧的な曲を弾くのが得意で、
でも評価の分かれる人です。
私の感覚としては曲によりよかったりそうでもなかったり、
という感じです。
アムランのハイドンには斬新な部分もありましたが、
でも意外に正統派だったのです。
それと較べるとデルジャヴィナのはアヴァンギャルドです。
でも別にメチャクチャ弾いているわけではないのに
このアヴァンギャルド感は何なのかというのが
今後の課題です。
デカダン、それもひとつの要素のような気がします。

ジミヘンもジャニスもほとんど同時代で、
そしてすぐに亡くなってしまったのですが、
こういうのも特異点の偏在だと思うのです。
突出したものはまとめて前触れも無く出現して、
あっという間に消えて行く。
それは 「神の摂理」 なのです。
というのは言葉の逃げ、なのですが。(^^;)
by lequiche (2018-03-18 22:37) 

lequiche

>> えーちゃん様

確かにそのへんの人たちはアイドル系ですね。
TPDはかなりいろいろな人を輩出していると思います。
つまりそういうチャンスを利用できる隙間があった、
ということですね。(^^)
by lequiche (2018-03-18 22:37) 

シノピー

lequicheさん、こんにちは。
コメント投稿いたします。
あゆ「浜崎あゆみさん」は自分にして一番好きな歌姫、女性アーティスト歌手であります。
初期~中期作品で馴染みのあるヒット曲が多くも、今回取り上げてくださった「SEASONS」、「Fly high」は自分にして好意のある楽曲、中でも「SEASONS」は一番好きな楽曲です。
2000年6月にリリース発売され、絶望3部作最終章シングル作品にあります「「Vogue」「Far Away」「SEASONS」」。
しかしながらも、これらのジャケ写に関して、ほぼ同じ。
とはいっても、「SEASONS」のジャケ写で、あゆが手にしている紙切れ写真は「Vogue」と同じジャケ写であります。

しかしながら、あゆはこの3部作シングル曲リリース当時に初のコンサートツアー第一幕で難聴を患い、その影響からか、次シングル曲「SERREAL」、3rdアルバム「Duty」あたりでボーカルを急変してしまいます。

「Fly high」は、1999年11月10日発売の2ndアルバム「Loveppears」収録曲、2000年2月にアレンジを変えてシングルカット、自分が先に聴いたのは、シングルカットされたもの、その後にアルバム収録曲となります。

あゆも現在は特定以外のTVメディア出演などをほぼセーブしており、SNS等を中心に活動を行っているそうです。
by シノピー (2023-02-18 14:38) 

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