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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』を読む [本]

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ここのところ忙しくて、というより単にいろいろな雑事その他もろもろが山積しているので単に気ぜわしいだけなのかもしれないのだが、本もろくに読んでいないし、それより以前に全然書店に行っていないことに気がついた。
それでなんとか時間を作ってこの前、本を買い出しに行った。買い出しという死語がすごいね。J・G・バラードの短編全集が完結してしまって、すでにその書評まで読んでしまった後なのに今さらなのだけれどとりあえず揃えておこうと思って、それと新潮社のナボコフの出ている分 (ロシア語からの翻訳というのが特徴。そして最後に増補版ロリータもあり) と、ハヤカワのSF銀背の新刊2冊 (クリストファー・プリーストとケン・リュウのアンソロジー) と、須賀敦子の詩集と萩尾望都のエッセイと文庫になった『羊と鋼の森』と、そして川上未映子の新刊と雑誌を数冊。雑誌は私のなかでは本としてカウントしてないんですけど、でもなにはともあれ重い。
川上未映子の新刊は書店にサイン本が山積みでした。なんか芸能人してるなあ。

さて『羊と鋼の森』はすぐに読んでしまったのですが、今回の話題は新刊の川上未映子、表題作の 「ウィステリアと三人の女たち」 です。
主人公 (わたし) は主婦で、結婚して9年経つ。結婚してから3年後に今住んでいる家を買って、それから子どもができないということに対して真剣になり始めるのだが妊娠しない。夫とそのことについて話し合うが、2人はすでにすれ違い始めている夫婦であり、夫は不妊治療などという言葉に対して嫌悪感を示す。
さて彼女は、向かいの大きな家が壊されていくのを毎日見ていて、そこには老女が住んでいたような記憶があるが詳しいことはわからない。藤の木が切り倒されたことから、毎年その藤の花びらを老女が掃き集めていたのを思い出す。
家の取り壊しは途中で止まってしまい、工事の人間もやって来ないある日、その壊されかけた家を見ている女を見つける。女は黒いワンピースを着ていて腕が長い。女はわたしに話しかけてくる。女は空き家に入るのが好きなのだという。人のいなくなった家でも部屋でも、夜、そのなかでただじっとしているのだという。だがこの家は、気がついたときにはすでに取り壊しが始まっていて間に合わなかったのだという。
週末、夫が接待ゴルフに出かけていった日の深夜、わたしは半分取り壊された家に入ってみる。光の入り込まない真っ暗な部屋があり、そこでわたしはその家に住んでいたと思われる老女の若い頃のことを思い浮かべる。若い頃、彼女はその広い自分の家で、偶然出会ったイギリス人の女性と一緒に英語塾を始めた。彼女の母親はおらず、父親に育てられ、そして彼女は結婚することはなかった。英語塾は繁盛し、生き生きとした毎日を送る。だが彼女はある日、イギリス人の女性に恋していることに気づく。しかしそのことを打ち明けることができない。やがてイギリス人の女性は、母親の身体の具合が悪くなり、介護をするため母国に帰って行く (以下、結末部分のあらすじは省略)。

というような記述が続くのだが、それは壊されかけた家の真っ暗な部屋の中でのわたしの幻想なのである。この幻想に入って行くところがうまい。するっと自然に舞台がかわる。幻想の中の二人 (若い頃の老女とイギリス人女性) は塾が始まるまでの時間、一緒に昼食をとり音楽を聴く。繰り返し聴くのがベートーヴェンの第32番のピアノソナタ。その第2楽章を二人は何度も聴く。そして彼女の愛読書はヴァージニア・ウルフだ。

 彼女が夢中になったのはヴァージニア・ウルフだ。辞書を片時も離さず
 難解なウルフの文章の息遣いと、それらが編み上げる、一度としておな
 じ影を落とさない美しい模様を苦労して、何年もかけて読み込んでいっ
 た。(p.151)

藤の木と32番ソナタとヴァージニア・ウルフ、これがいわば3つのキーワードとして作用している。32番のソナタはベートーヴェンが最後に書いたソナタで、この頃、ベートーヴェンの耳は完全に聞こえていない。そして最後ということだけでなく、後期ソナタの中でこの32番は特殊だ (たぶん時代的に考えればモノラルのバックハウスあたりがふさわしいのだろうが、下記にはわざとアムランをリンクしておく)。
ウルフは、精神的に不安定な部分を持っていて、そして同性愛的性向も持っていた。それが彼女の性格に反映されているだけでなく、そもそも川上の文体そのものがウルフへのオマージュでありトリビュートに他ならない。ウルフの名前が出る前に、もうそれがわかってしまう。時間的な錯綜が垣間見えるのだが、それはすぐに訂正されていて、それをしなくてもいいのにとも思うのだが、ともかく意識の流れのようでいてそうでもなく冷静さを保っている兼ね合いのバランスに、川上未映子ならではのテクニックが感じられる。完全に無調の音楽のようになって壊れていくことがないのも、死のにおいが感じられるのもウルフに似ている (ヴァージニア・ウルフに関しては→2016年12月03日ブログを参照)。

ネタモトがウルフであるのは、川上のインスタグラムの1月25日にウルフの写真が載っていることからも明らかであり、2月8日の Memories of the lost garden というのは、なんとなくその壊されかけた大きな家を連想させる写真のように思えてしまう。背景が煉瓦塀のようなのだが見間違いかもしれない。

藤の花というと私は亀戸天神を思い出す。この季節に、親戚の伯母が亡くなってその法事に亀戸のお寺に行ったことがあった。それまであまり親しい交流のなかった親戚だったのだが、それがかえって新鮮だったのかもしれない。その帰りに、なぜか亀戸天神に行こうということになった。細かいことをいえばお寺の後に神社ってどうなの、という人もいるのだろうが、なぜか誰もそれを言い出さなかった。だが、その年の気候は暑かったのか、すでに藤の花はなかった。ほとんどその頃のことなど覚えていないのに、そこだけにピントがあったように鮮明な記憶があるのはなぜなのだろうか。それが正確な記憶なのかそれともあとから補塡され修飾された記憶なのかわからない。藤の花びらが散るさまは、桜の花びらよりも冥い。


川上未映子/ウィステリアと三人の女たち (新潮社)
ウィステリアと三人の女たち




川上未映子公式ブログ
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川上未映子インスタグラム
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Marc-André Hamelin/Beethoven: Piano Sonata No. 32
in C minor, Op. 111 (live)
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末尾ルコ(アルベール)

高知市の街路は今日、躑躅がピンク、白、赤紫と咲き誇っています。もうすぐ満開というところでしょうか。
川上未映子は最近は読んでなかったです。また読もうっと(笑)!
穂村弘と共著の『たましいのふたりごと』は読みました。なかなかおもしろかったです。
そう言えば、穂村弘はけっこう読んでます。母が短歌をやっておりますこともあり。
「買い出し」という言葉、いいですね。「大人買い」という言い方よりもずっといいです。
「生活に必要なものを纏めて買う」というイメージの「買い出し」。本は「生活必需品」であり、「精神のぜいたく品」ですから。
しかし書籍に限らず、「買い出し」は重量を伴い、自然と腕や手や指に負担を掛けます。わたしの左指、長年の(笑)「買い出し」でかなり痛めてしまいました。まあ日常生活に支障ない程度ですが。
川上未映子は歌手活動もしてましたよね。今もしているのかどうかはよく知りませんが。川上未映子出演映画『パンドラ匣』も東京の映画館で観ました。
「ウィステリアと三人の女たち」、おもしろそうです。ストーリーのご説明、有難うございます。
小説の中のベートーベン、そしてヴァージニア・ウルフの登場が得も言われぬ効果を上げているようですね。そして藤ですか。
私は特にギリシャ神話の花のエピソードが好きなのですが、各文化圏で花に対する様々な「想い」が伝わっておりますよね。だから花という存在は極めて奥深いメタファーとして物語などに使えるものですね。
引用してくださっている、「p.151」のような本の読み方はわたしももっと実践していきたいです。
ついついいろんな本に手を出してしまいますが、「いつも持っていて、奥深くまで読み込む本」・・・もちろんわたしも少なからずそんな本がありますが、もっともっと深く探求したいと、いつもそんな読み方に憧れています。
ドストエフスキーや、バルザック、あるいはエミル・ゾラなどのプロフィールを見ると、そのクオリティと同時に圧倒的量産ぶりにも、(本当に人間なのか?)とさえ感じることがありますが、ウルフは比較的少なめの著作ですね。その理由も彼女の文章を読めばよく分かる気がします。

ちなみに最近読んだ小説でおもしろかったのは、絲山秋子の短編、村田沙耶香の『コンビニ人間』・・・これ、笑っちゃいました。
そしてクリスチャン・ガイイーの『さいごの恋』は文体がとてもおもしろかったです。
翻訳が野崎歓で、この人もけっこう好きなのです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-04-16 14:05) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

直感で言うのですが、紙でできている書籍というのは、
そのうちに贅沢品になるのではないかと思います。
たとえば最近の回転寿司店などでは、
タッチ画面で客が注文するような方法をとっていたりします。
これはメカニックで最先端ふうを装っていますが
内実は省力化であり、そのほうが儲かるからです。
客自身に注文させて手抜きをしている傲慢な商法なのです。
それは銀行のATMについてもいえます。
わざと窓口業務を時間がかかるようにして、
客が窓口利用をするのを諦めさせるための手口です。
書籍も同様で、どんどんヴァーチャル化して
キンドル本みたいなのに移行していきたいのが本音です。
アナログレコードとCDではCDのほうが儲かるし、
CDよりもネット配信のほうがもっと儲かるから
その方向性でいきたいのです。

つまり外食産業でいうのなら、
紙製のメニューで、ボーイが注文をとりに来る
というシステムはやがて贅沢になります。
それはごく一部の金持ちのための限られたシステムとなり、
庶民は皆、タッチ画面で、どのように調理されたのかわからない
食品をとるようになります。
同様に、紙で製作された本は贅沢品となり、
《華氏451》で描かれたのとは違った意味で
本を所有することは驕奢であり反道徳的なものとなります。
図書館の本はファイル共有でありクラウドなので、
便利なように思えますが、その根幹を 「誰か」 に握られていて、
私はその 「誰か」 というのを信用していません。
ですから今のうちに本を買い集めておきたいと思うのです。
これは半分本気です。

川上未映子は以前は売れない歌手 (バンド?) だったみたいですね。
映画というのも知りませんでした。
パンドラは太宰治の 「パンドラの匣」 なんですね。びっくりです。

「ウィステリアと三人の女たち」 は、身も蓋もない言い方をすれば
子作りの行き違いからセックスレス夫婦になってしまった妻の
妄想に過ぎないのかもしれません。
現実に存在していたのは、壊された家にあった古びた英語塾の看板で、
そこから果てしなく妄想が膨らんだのに過ぎないのかもしれない、
という小説構造をとっています。
ですから 「三人の女たち」 というタイトルも、
誰と誰をカウントして三人としているのかという問題もあります。

9年経って倦怠期にある夫婦ですので、主人公は夫のことを
「夫はときどき嘘をつく」 と簡単に切り捨てます。
その嘘のなかには接待ゴルフが本当なのかどうかという
疑惑までもちろん含まれています。
そのように深読みすればきりがないというのが面白いのですが。

ベートーヴェンの32番ソナタはもともとが変な曲であり、
それをデビュー盤にしたポゴレリチのはもっと変過ぎるので、
あえてそうではないはずのアムランにしたのですが、
ベートーヴェンのデーモンはかなり強烈な作用がありますし、
私はこの曲を死の曲であるととらえています。

桜の散るさまにも死のイメージは感じられますが、
藤はもっとなんていうのか、そもそも色が死の色ですね。
異常に水を消費する木ですし、
花びらの堆積は秋の落ち葉の堆積よりずっと官能的です。

古典文学はやはりそれなりのパワーがあるから
生き残ってきたのだともいえます。
ヴァージニア・ウルフはずっと精神的疾患がありましたから、
全く書けない期間がかなりあったので
作品数としては多くない、というように考えられます。

『さいごの恋』、そもそも作家そのものを知りませんでした。
目配りされる範囲がお広いですね。
野崎歓は翻訳で一時大騒動になりましたが、
私にはその訳が誤訳なのかどうなのかという語学力がありません。
by lequiche (2018-04-17 02:39) 

きよたん


>>
桜の散るさまにも死のイメージは感じられますが、
藤はもっとなんていうのか、そもそも色が死の色ですね。
異常に水を消費する木ですし、
花びらの堆積は秋の落ち葉の堆積よりずっと官能的です。
>>

う〜ん すごく良く分かります
by きよたん (2018-04-19 20:14) 

lequiche

>> きよたん様

そう言っていただけるとうれしいです。
花びらは、落ち葉よりなまめかしくてウェットな感じがします。
そうしたさくらの花の下でお花見することは、
日本の独特な美学だと思います。
by lequiche (2018-04-20 01:58) 

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