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Lieder ohne Worte — デルジャヴィナのスタンチンスキーを聴く [音楽]

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Ekaterina Derzhavina (2016)

エカテリーナ・デルジャヴィナの弾くスタンチンスキーを聴く。
墺Profil盤の《Stanchinsky Piano Works》は2017年のリリースだが、レコーディングは2004年、2005年と表記されている。
アレクセイ・スタンチンスキー (1888-1914) はマイナーな作曲家なので録音はしたものの出しにくかったのだろうか、そのへんの事情はよくわからない。

スタンチンスキーについては過去に書いたことがあるが (→2014年11月04日ブログ)、作品数が少なく、作品自体もそのほとんどが難曲であり、屈折した曲想であるため録音もあまり存在しない。メトネル系という括りの中で、よりマイナーなのがスタンチンスキー、アレクサンドロフであると思われる。
前回の記事は露メロディア盤のアレクサンドル・マルクスによるピアノであり、しかもグリンカとスタンチンスキーの相乗りという構成であった。

デルジャヴィナのアルバムは全曲スタンチンスキーだが、マルクス盤にも収録されている《Zwölf Skizzen》(12のスケッチ) op.1から始まっている。曲は皆短く、一番長い Largamente でも2’40”であり、1分に満たない曲もある。ひとつひとつは技巧的であり、どちらのアルバムにも収録されているということからも 「スタンチンスキーといえばこの曲」 的な意図があるのかもしれない。といっても、曲が短いのはヴェーベルン的に凝縮されて短くなっていったのではなく、詩的な音の連なりとしての風景のような書法であり、まさにスケッチという言葉通りのラフなイメージを想起させる。

収録されているソナタは《Erste Sonate (F)》、つまりソナタ第1番である。3楽章であり、《12のスケッチ》などと較べれば各楽章も比較的長い。スタンチンスキーのソナタは3曲あり、番号の付いていないes-mollのソナタ、第1番 F-dur、そして第2番 G-durである。調性は存在していて、ラフマニノフやメトネルにも見られるようなロマン派の残滓を引き摺ったアナクロで退嬰的なロシアである。屈折しているが難解ではない。そしてこの第1番は古典派のソナタと比較すれば十分にトリッキーだが、でもスタンチンスキーの中ではそんなにトリッキーではない。やや古風とも思えるが、それはその当時において最先端であればあるほど風化するのも早いという意味においての 「古風」 という印象である。各楽章は順にAllegro、Adagio、Prestoというごく普通な速度表示がされているが、第2楽章の、脈絡もなく 「とり散らかって」 しまっているような書法に彼らしい表情が見られる。対して終楽章は、軽くて明るいPrestoで、快調に小気味よく、ずっと流れていくようでありながら、ちょっとだけリズムにも和声にもイレギュラーに引っかかる個所があるが、デルジャヴィナの解釈は秀逸である。最後はまさに古典曲のようにあっさりと終わる。

だがアルバム最後に置かれた《Lieder ohne Worte》でスタンチンスキーの憂いが戻ってくる。Lieder ohne Worte は Songs without Words、つまり無言歌であるが、作曲は1904年から1905年、つまり彼が16~17歳の頃なので習作と考えたらよいのだろうか、曲自体も他の複雑系な曲に較べると妙に易しく、この通俗ギリギリにまで落ちてくるウェットな楽想に、意外に彼の心情が反映されているのかもしれない。
そしてこの曲をアルバムの最後に持ってきたところにデルジャヴィナの作曲者への想いを感じる。


Ekaterina Derzhavina/Stanchinsky Piano Works (Profil)
Stanchinsky: Piano Works




Alexander Malkus/Two Geniuses of Russian Piano Music (Melodiya)
Glinka/Stanchinsky




Ekaterina Derzhavina/Stanchinsky: Lieder ohne Worte - 1. Largo
https://www.youtube.com/watch?v=WLquKJKRsx0

参考:Lieder ohne Worte 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=f-NxlRQWv4I

C. M. Schröder 200周年のデルジャヴィナ (2016)
https://www.youtube.com/watch?v=Te2os-PwKAo
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末尾ルコ(アルベール)

スタチンスキーという人はこれまた初耳ですが、困難な人生を生き、20代で死去しているんですね。
リンクしてくださっている過去のお記事も拝読いたしました。
梶井基次郎やジョン・キーツとのご比較もとても興味深いです。梶井基次郎は最も好きな日本人作家の一人です。やはり日本文学史上でも特別な美しさがありますよね、梶井の作品には。
芸術分野に限らず、わたしは、「早くして亡くなった」人たちの人生やその中で何を成し遂げたかなど、常に大きな関心を持っています。
まあ例えばとても有名なところでは、ジャンヌ・ダルクやレイモン・ラディゲ、あるいは樋口一葉などですね。
スタンチンスキーの場合は、その人生の中のかなり多くが知られているのでしょうか?それとも謎の部分が多いのでしょうか?とても興味があります。

「Lieder ohne Worte」・・・こころの奥深く入り込んで、掻き毟られるような感覚を持ちます。このような曲が多いのでしたら、スタンチンスキー、もっともっと聴いてみたくなります。

>通俗ギリギリにまで落ちてくるウェットな楽想

この感覚よく分かります。
デルジャヴィナという人はモスクワ生まれなのだそうですが、これは単に見た感じの印象ですけれど、他のロシア人演奏者にはあまり感じない軽快な雰囲気がありますね。
見ていて、愉しくなる雰囲気といいますか。

戸田山和久さんは『恐怖の哲学』というホラー映画を題材とした著作も出版しておられますね。この方のこと、存じませんでしたが、とても「おもしろ」そうです。そもそも「ホラー映画がお好き」な人って、好感が持てます(笑)。
『ダイ・ハード3』はジェレミー・アイアンズが悪役だった回ですね。細かなところは覚えておりません(笑)。また観たくなりますね。考えてみれば、ハリウッドというのは世界から各界の才能が集結する場であり、そこで再作された映画は世界中で鑑賞されるわけですから、そうそう「単純なだけ」のものができるわけではないですよね。

>「当然知っているよね?」という古典の知識が必要であると書かれています。

これは大きなポイントですね。「当然」の範囲をどこまでに設定するかで大きく違ってきますが、まさにここにこそ「日本の知的危機」があるような気がします。「当然」の部分が一切ない人たちの急増ですよね。

>ともかくこれをうるさくなく聴かせるというのは高難度です。

なるほどです。わたしはクラシックに関しては完全な素人耳なので、そんな次元のお話になりますが、うるさく感じる演奏はありますね。ただそれは、自分の体調や精神状態が因になっている場合もあります。凄く見当はずれなことを書いているかもしれませんが、オペラとかはけっこううるさく感じることがあります。わたしの場合、もっと同じ曲を聴き比べる経験が必要なのだという、今更ながらの自覚もあります。

「ポストモダン」って、確かに恥ずかしいですよね。そしてわたしも「チャリンコ」、ダメです。「まっじで~」という言葉も、パロディ以外では絶対使いません。もちろん「ヤバい」も、従来の「危険な」という意味以外では絶対使いません。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-06-08 13:23) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

過去記事までお読みいただきありがとうございます。
「夭折」 という言葉で語られる人たちがいますが、
そのほとんどは死にたくて死んだんじゃないけれど
長く生きられなかったというのが多いです。
しかしスタンチンスキーはおそらく自ら死を選んだので、
余計に痛ましい印象があります。

ただロシアには無数の作曲家やピアニストがいて
(ピアニストは多くの場合、作曲もするので)、
チャイコフスキーやラフマニノフのような人たちを頂点として、
巨大なヒエラルキーがあると思います。
スタンチンスキーとかバラキレフあたりまでなら
ある程度は知られている存在ですが、
フェインベルクとかリャブノフとか、きりがありません。

ただ、デルジャヴィナがわざわざスタンチンスキーを
提示してきたところに意味があるのです。
どういう曲を弾くか、なぜその曲を弾くかということが
一種のマニフェストであり指標であると思うのです。
デルジャヴィナは確かに軽快で明るいですが、
それは軽薄ということではなくて、
音楽をすることの喜びそのものへの方向性を感じます。
デカダンで暗いイメージの芸術もありますし、
それはそれでひとつの方法ですけれど、
デルジャヴィナの、さらっとしていながら、
でも実は深い構成力・表現力に私は惹かれるのです。

おぉ、ホラー映画ですか。
戸田山先生は映画全般にとても詳しいように思えます。
ダイ・ハードに関しては、主に宗教的な、
つまりキリスト教の基本的常識があることを前提として
語られている言葉があって、そういうのは
そもそも平均的な日本人にはよくわかりませんし、
それを字幕の少ない文字数に凝縮するのはほとんど無理です。
トリュフォーの《華氏451》に関しても詳細な分析があります。
そのうち本になると思います。

日本の文化の歴史において
最も基本的知識が必要とされていたものの頂点は新古今ですが、
それは本歌の知識が当然分かっていなければならず、
つまり元ネタがわからないとそれに対するギャグもわからないので、
ある意味、今の言葉でいえばオタク的な方法論なわけです。
そうした方向性は爛熟して朽ちてゆきましたが、
今の日本はそんなレヴェルではなく、もっとずっと低いです。

でも私が文章を書くとき想定しているレヴェルは
大体中学卒業から高校1年くらいで学ぶ程度の最低常識です。
音楽の場合、たとえば符点4分音符とか旋律短音階とかは
中学でマジメに勉強していれば知っているはずです。
文学でも夏目漱石とか森鷗外とか名前を知っているだけ、
というのでは困るのです。でも最近はそれが多いです。
カタログ的に名前は知っているが実物は読んだことがない、
というものです。
それは歴史の年号の丸暗記と同じであまり意味がありません。
漢字検定も同様です。
いかに難しい漢字を知っているかではなく、
いかに文章の中で漢字を使えるかが必要なはずなのですが、
日本人はカタログ的な知識のほうに流されやすいです。

音楽は幾つもの音が鳴れば鳴るほどうるさい、
というものでもなくて、
どのようなバランスによって鳴るかによって
うるさく感じたりそうでなかったりするように思えます。
オペラは見せる要素と聞かせる要素が重なっているので、
どうしても夾雑物が発生してしまいますね。
それがうるさいと感じる要素なのかもしれないです。

同じ曲の聴き較べは、つい私も話題にしてしまいますが、
それは話題にしやすいから、という 「逃げ」 に過ぎません。
音楽は聴き較べより種類だと、私は思います。
より多くたくさんの数と種類を聴くことです。
ベートーヴェンやブラームスの交響曲ばかり聴いて、
これを誰それはこういうふうに指揮した、とか
そういう楽しみかたもあるでしょうが、
それは偏っているし、ステロタイプだと思ってしまいます。
でも、誰にも得意不得意がありますし、
それぞれの嗜好があってよいですから
そういうのを阻止する意味合いはありません。
私はクラシック音楽に関してはまだまだ初心者ですので、
単純に、より多くの種類の曲を知りたいのです。

ただ、たとえばこの前の話題の中にあった
プレイボーイとか平凡パンチというような雑誌を
私はほとんど知らないんです。
見たことはあるかもしれませんが、買ったことは無いです。
世代とか環境もあるのでしょうけれどほとんど未知の世界です。
だからといって、そういう雑誌はリアルタイムで読むべきで
あとになって 「こういう雑誌があったんだ」
と振り返って見たとしても、それは何か違うでしょうし、
知識が無いということに関しては残念な部分ですね。

言葉は時代とともに変化していくので、
表現がかわっていくのは仕方がないとは思うのですが、
最近だと 「キラキラネーム」 とか 「肉食系」 のようなのは
あまり好きじゃないです。
固有名詞の中に自己正当化なニュアンスが
混入している感じがします。
by lequiche (2018-06-09 02:15)