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知性が潰えるとき ― ル=グィンの追悼特集におもうこと [本]

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Ursula K. Le Guin (Hürriyet Daily Newsより)

この数日、急にしのぎやすくなってきたような気がする。兇悪な夏の力がやっとのことで衰え、夕空には三日月が浮かんで、金星が寄り添っている。空は秋だ。三日月は日々太り、半月となり、金星は少しずつ位置を変える。

『SFマガジン』8月号はアーシュラ・K・ル=グィンの追悼特集だった。小谷真理の追悼記事のなかで《letters to Tiptree》(Twelfth Planet Press) という本のあることを知った。ティプトリーに宛てた手紙という形式をとっているが、ティプトリーはすでに亡くなっているので、それは片道書簡的なトリビュートの集成に過ぎないのかもしれない。しかし、ル=グィンとティプトリーとは実際に手紙の往復があり、そしてティプトリーがその仮面を最初に脱ぎ捨てたのはル=グィンに対してであったのだという。
2人はともに知的な家庭のもとに生まれ、その作風がジェンダーを超越しているところも似ている。ティプトリーはゴシップの巣窟的メディアへの対処を含めてル=グィンに相談したが、ル=グィンは誠実に応答したという。SF界における最も重要な作家であるル=グィンとティプトリーにそうした交流のあったことに心が安らぐ。

当時、フェミニズムはまだその存在が成立しつつあるような時代で、ともするとそれは尖鋭で過激で攻撃性を帯びることがあった。しかしル=グィンはその頃から大人であった。攻撃に対する攻撃でなく、ウィットを持って、的確に下劣な悪意をかわすが、それには感情的な拒否反応でなく理性的な方法論が必要なのである。

アースシーの物語 (ゲド戦記) は当初3部作であり、ずっと時が経ってから後期3部作が追加された (それが開始されたのはティプトリーが亡くなって2年後であったという)。前期3部作における若きゲド、そしてテナーは一種のエリートであり、エリートゆえの高慢を持っていたという。それは作者であるル=グィンや、そしてティプトリーにも存在していた高慢さに他ならない。
テナーが名も無き者であったことは、フェミニズム成立以前の暗黒時代のメタファーであり、ブロンテ姉妹やヴァージニア・ウルフなどを通じて継続発展してきたジェンダー認識を反映させたことにあった。

しかし後期3部作において、ゲドは魔法の力を失うが、それはエリートの崩壊としてのメタファーでもあり、そうなったときのゲドや、そしてテナーは、不完全かもしれないがより深い人間性を帯びるのである。
魔法や巫女は幻想であり、自己中心的なエゴのメタファーであり、翻ってそれらは現在の電子的技術依存の世界を批判しているように私には思える。
インターネットは失敗であり、それは虚偽の再生産装置でしかなく、未来からこの時代を振り返ったとき、何の文化的痕跡をも残さない。残るのは巨大な虚無である。amazonが嫌いというル=グィンの言葉から (若島正の連載文にあり) 私はそうしたメッセージを感じ取る (ル=グィン自身は電子書籍自体を批判はしていないが)。

もっともル=グィンにしても前期3部作のとき、そうしたメッセージを包含させようと意識的に考えていたのではなかったのかもしれない。それはぼんやりとした暗喩であり、無意識に生成されたのかもしれない。しかし後期において、魔法が幻想であったこと、それはヴァーチャルであり 「真の力」 を持っていないこと、それゆえに偉大な魔法使いなど存在しないことに関してル=グィンは意識的である。魔法は男性中心世界のパワーの象徴であり、それはその後のジェンダー的認識から見ればすでに旧弊な発露であることに成り下がる。
魔法は無益なもののみに奉仕し、邪悪なものを生み出し、そして名も無きものを作り上げたのだ。巫女は傀儡に過ぎず、神秘性を煽ることは男性中心世界の方便である。都合の悪いことから目を逸らさせるために神秘が存在する。

とすれば東のさいはての島はあいかわらず神秘の国である。その島では、セクハラやパワハラがまかり通り、強欲と専横が支配し、かつてエコノミック・アニマルと呼ばれた形容は死に絶えているように見せかけながらいまだに健在であり、その名前を唱えることは揶揄とはならず羨望への言葉となる。伝説の彼方にあった黄金の国では経済のみが正義なのである。
知性の無いところに文化はなく、創造性も育たない。その結果、東のさいはての島は秩序が崩壊し腐敗が進んでいる。

ル=グィンから教えられたことは数多い。しかし信頼すべき知性は潰えてしまった。愚鈍な無知は知を食い荒らし、世界に跋扈する。無知性は常に知性を凌駕し、決して滅びることはないのである。


SFマガジン 2018年8月号 (早川書房)
SFマガジン 2018年 08 月号


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末尾ルコ(アルベール)

一昨日、わたしは半月を見ました。天体の運行が人間の精神などに影響を与えるという説が古代からありますが、どうなのでしょうね。占星術などにも精神史的な面ではおもしろいのですが、雑誌の星占いとかのファンが多いのは不思議です。「まず星占いを見る」という人も多いようですよね。
アーシュラ・K・ル=グィンの『空飛び猫』は最近読みました。村上春樹の翻訳で。
なかなかよかったです。シンプルながら一文一文とても丁寧に綴られていると感じました。

『未来を花束にして』という映画がありまして、現代は『Suffragette』。
あの「サフラジェット・ムーブメント」の中心人物であるエメリン・パンクハーストを信奉する女性たちを描いた作品ですが、時代の雰囲気がよく出ておりました。
もちろんこれは英国の女性参政権を求める戦いでル=グィンよりずっと以前の話なのですが、先人たちのこうした命懸けの闘争を経て少しずつ手にしてきたはずの「女性の自由」も今の日本を見ていると虚しさもこみ上げてきます。
欧米の「女性の尊厳」もいまだ不完全ですが、それでも「戦い」は常に存在します。日本では「戦いの存在」さえあり得ないような雰囲気。そして思考停止の「欧米否定」が広がりつつあります。


>黄金の国では経済のみが正義なのである。

ひょっとしたら、「エコノミック・アニマル」と呼ばれていた時代よりも拝金主義、さらに文化の衰退・堕落が強まっているのではないでしょうか。
当時より経済が弱くなっている焦りが加わり、社会の醜悪化がより進んでいる気がします。
ファシズム的雰囲気はより深刻になりつつあります。

「身も心も」のリンク、ありがとうございました。
玉置浩二の顔がつるつるなのには驚きましたが(笑)、いい歌ですね。
宇崎竜童は若い頃から外見もほとんど変わらないのも凄いです。そして今は、(何もかも分かって歌っている)という深い味わいを感じます。

楽譜についてのご説明、ありがとうございました。
楽譜ってクラシック音楽に明るくないわたしにとってはかなり神秘的な存在で、例えば、建築の設計図から建造物が生まれるのは分かるのですが、楽譜からある時は壮大な、ある時は優美で繊細な音楽が紡ぎ出されるというのはそれこそ錬金術的な世界の名残のようにさえ感じます。
楽譜を読めないわたしがそれを見た時に感じるのは、非常に美的な記号ということですね。ひょっとして名曲の楽譜の方が駄曲のそれよりも視覚的に美しいのではないかとか、そんな想像もしてしまいます。

>バッハには楽器の指定が無い楽譜も存在します。

そうなんですか!う~ん、さらに神秘的。
極私的体験なのですが、高校時代にちょっとだけパンクバンドのヴォーカルをやっておりまして、なぜヴォーカルだったかと言えば、パンクっぽく歌えるという以上に何も楽器ができなかったからですが、他のメンバーも誰も楽譜を読めませんで、耳コピーでカヴァーなどを演奏しておりました。
プロの場合はいろいろ事情が異なると思いますが、誰か忘れたんですけれどジャズの人が、「クラシックは譜面がないと何もできないけれど、ジャズは違う」的なジャズ自慢をしていたことがあり、このように他ジャンルの音楽を軽々に貶すのは嫌な感じがした覚えもあります。

ピリスのお話でもとても認識を新たにさせていただけるのは、わたしなどはどうしても一つの曲を「まとまり」としてしか聴けないところがあって、一つ一つの「音を確実に」というような境地をあまり想像することがなかったので、これはまさに(わたしにとって)音楽についての「新たなページ」だったのです。
そして音楽をできる限りしっかりと見据え、丁寧に聴くということですね。

「権威」に関してですが、大学教授や著名批評家もいろいろですので一概に決めつけることはしませんけれど、音楽に限らず世間的に「えらい」とされている識者であっても、ある論文を書く際の根源的な衝動が極めて卑俗な功名心であったりといのは日常茶飯だと思っておりますので、わたしも「看板」には惑わされないようにしています。

澁澤龍彦を最も読んでいたのは高校時代なのですが、その後も現在まで折に触れページを開いております。「この人を知ると知らないとでは人生まったく変わっていた」と断言できる一人ですよね。
中野翠が、「ある時期澁澤をとても閉じた世界だと感じ、もういいやと思ったけれど、その後ずっと後で、精神が自由でなかったのは自分の方だったと気づいた」という内容のエッセイを書いていたことがありましたが、(なるほどな)と思いました。

どんな分野でもカッコいいタイトルが少なくなりましたね。海外ものに興味のない日本人がほとんどになってしまったのも原因でしょうし、「本当にカッコいい言葉」に対する感度も低くなっているのではないかと。
今だと『風と共に去りぬ』なんかも、『ゴーン・ウィンドウ』というタイトルで公開されそうです(笑)。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-08-19 12:11) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

あぁ、星占い。雑誌のは当たりませんよね。(^^)
私は占星術より天文年鑑のほうが好きです。

英語のニュアンスまでは私はよくわかりませんが、
ル=グィンの文章は品があるように思えます。
パッショネイトな文章もそれはそれで面白いですが、
文章にどぎつい味をつけないほうが、
文意は明確に伝わるのではないかと思います。

Suffragetteという映画は知りませんでした。
映画も含めて芸能の世界は人間関係とか人脈が重要ですし、
そうした中でセクハラとかコネとかによる関係性も
常態化してしまいがちなのはよくあることだと思います。
醜聞は繰り返し起こりますが、刷新されてもすぐに腐敗しますし、
アメリカの現大統領の言動が典型的ですが
男尊女卑の根本的思考は無くならないのだといえます。
そして昨今の日本はむしろ退行しているような気がします。
「社会の醜悪化」、まさにその通りですね。
だからブラック企業がますます繁栄するのです。
ブラック企業はダメだと言いながら、
それを温存し正当化するような動きが常に存在しています。

「身も心も」 というタイトルはもともとは
スタンダードナンバーである〈Body and Soul〉の
邦題なのではないかと思います。
でも今は〈ボディ・アンド・ソウル〉と原題で呼びますので、
「身も心も」 というタイトルもアリになってしまいました。
玉置浩二、やっぱり上手いなぁと思います。
阿木燿子の歌詞がその時代の肌触りを現していて、
当時のハードボイルド映画を観るような印象があります。
阿木/宇崎という夫婦の作詞作曲コンビは
傾向は違いますが安井かずみ/加藤和彦を思い出させます。

楽譜については私もよくわかりませんが、
昔からの慣習がいろいろあって、
でもそこから作曲者の発している情報を読み取るには
ある程度の熟練が必要だと思われます。
また、現代音楽の図形楽譜は別にしても
記号的美学を譜面自体に見ることも可能ですが、
美しいものもあり、鬱陶しいものもある (笑) と私は思います。
武満徹の楽譜は彼の音楽同様スタイリッシュに満ちていて、
特に手書きのオーケストラ譜はすごいですね。
オケの画像が見つかりませんので、もっと単純な楽譜ですが
たとえば下記のブログ記事にリンクされているこれなど。
Toru Takemitsu/Bryce
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/90/3a0c1416aafe0d4e2cfce1df872fdd8f.jpg

ロックの場合は単純な曲なら耳コピという方法がありますし、
むしろそれによって音に対して鋭敏になる長所もあります。
ただ、変拍子だったり、小節数が半端だったり
途中で拍子が変わったりするような曲の場合は、
ある程度の楽譜の知識がないと堂々めぐりになって困ります。
(これは私の過去の経験です)
ジャズは、たとえば12小節のブルース進行という
王道のパターンがありますが、だからどうしたということで、
それがあるからエラいとか、クラシックだめとかいうのは
ごく幼稚な認識に過ぎないと思います。

音楽はもちろん全体のまとまりで聴くことが大事ですが、
私は細部がすぐに気になってしまう傾向があります。
たとえば同じ繰り返しなのだけれど、1音だけ音が違う、
それはなぜなのか、というのが知りたくなり、
楽譜で確認してみたりします。
なぜ違うのかというのには必ず理由があります。
たまたま気分で変えたんだという曲もあるかもしれませんが、
一流の作曲家にはそれは無いです。
ベートーヴェンにはその音がなぜその音でなければならないか、
という理由が必ず存在します。

功名心の論文ですか!
あぁ、そういうのもあるでしょうね。
もっと端的なのは、しめ切りに合わせてデッチ上げた文章とか、
著述家の苦し紛れみたいなのも当然あるのだと思います。
何らかの結果を出さなくてはならないという 「縛り」 があると
楽しみは苦しみに変わりますね。

澁澤龍彦はいわゆるマニアックとかオタクのはしり
みたいな感じでも捉えられますが、本質が違います。
私がすごいなと思ったことのひとつに、
文章の中での表記の揺れ、たとえば時によって
「流れる」 と書いたり 「ながれる」 と書いたりすると
校閲者は同じ表記に統一しようとするのですが、
それは違う、と澁澤は怒るのです。
そのときによって 「流れる」 だったり 「ながれる」 だったり
違うふうに書きたいときがあるのだから、
それを統一するのはおかしいと言うのです。
統一はノウハウ本のような実用書だったらアリかもしれませんが、
文学はそういうのとは違うのです。
私はそれに非常に納得して、以後澁澤先生は神になりました。(笑)

「風と共に去りぬ」 は 「去りぬ」 がダメですね、文語だから。(^^)
萩原朔太郎の
 いまはや懺悔をはれる肩の上より
という部分で 「懺悔」 を肩に貼るんですか?
と先生に言った高校の同級生がいました。(実話です ^^;;;)
朝ドラ《半分、青い。》でカンちゃんが、
 うさぎおいし かのやま
という歌について、「うさぎ、おいしいの?」 と言っていましたが
それと同レヴェルです。

最近はフォントの関係からか、漱石全集も新漢字ですが、
(というかオペレーターが組めないし、校正者も読めない?)
若い国語の先生もそのほうが良いらしいです。ナサケナカ。

「東のさいはての島」 という形容は、
ゲド戦記3巻目のタイトル『さいはての島へ』のパロディですが、
黄金の国は地形的にも文化的にも 「さいはて」 になりつつあります。
思わず間違えて
「東のさいていの島」 とミスタイプしてしまったり……。
これは実話でなくてネタでした。(^^)
by lequiche (2018-08-21 01:48) 

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