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ヴェーグ・クァルテットに関する覚え書き [音楽]

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Béla Bartók

シャーンドル・ヴェーグのことはにすでに書いたことがあるが (→2016年08月27日ブログ) これはその続編である。ヴェーグに関して、私が最も重要視しているのはバルトークの演奏であるが、バルトークとの関係性は前記ブログにも書いたように非常に濃密である。それは単にハンガリーであるということと、その人脈によることと2つの意味がある。

バルトークの弦楽四重奏曲については、最近はごく普通に古典的な曲として扱われることが多くなり、かつてのような 「よくわからない曲」 といった視点は途絶えてしまったように思える。そしてCDとしてリリースされることも非常に多く、私は15~16種類くらいの演奏をすでに聴いていると思うが、そしてその比較について未だにできていないが、そんなことをしても無駄なのではないかと最近は思っている。なぜならバルトークもベートーヴェンと同じでどのグループの演奏の場合でもそんなに破綻がない。破綻がないというのは、私は楽譜がそれだけ完成されているから、というふうに解釈する。それほどにこのバルトークの6曲の弦楽四重奏曲は完成された曲であると思う。

最初に聴いたCDはアルバン・ベルクであり、これはしばらく私のスタンダードであったが、パレナンを聴くことによって全然異なる解釈があるのだということを識るようになった。その後、スタンダードはタカーチの新録となってしばらく固定していたが、次第に何でもいいのではないかというふうに崩れてゆく。それは今回のヴェーグをしみじみと聴いて、より強くなってくる感想なのである。

ヴェーグの録音は、結局1954年のモノラルのほうが評価が高いのだろうか、入手できるCDもモノラルばかりである。それはたとえばロバート・マンのジュリアードの場合もそうで、古い録音ほどバルトークというのは認知されていないから、そういう状況でバルトークを弾くというアグレッシヴさが演奏の表現として強く残るのではないのだろうか。
ヴェーグのバルトーク1954年録音のCDには、Music & Arts盤と《The Art of Vegh Quartet》というタイトルのScribendum盤があるが、前者もdigitally remasteredとあるので、おそらく同じ音源であると思う。

今回、ヴェーグの1954年の録音に比較する演奏として選んだのはエマーソン・ストリング・クァルテットの1988年のDG録音である。
演奏時間を見てみれば如実にわかるのだが、たとえばサンプリングとして第4番を選ぶと、ヴェーグの場合の演奏時間は楽章順では、6’17”、2’51”、5’22”、2’54”、5’36”である。対してエマーソンは5’38”、2’47”、5’12”、2’41”、5’05”であり、いずれもエマーソンのほうが速い。特に第1楽章 Allegro と第5楽章 Allegro molto の差が大きい。

速く弾いたほうがバルトークの刹那性というか切迫感が出てスリリングであり、だから極端にいえばどんどん速く速くというのがリスナーの気持ちの中にはあるのかもしれない。そしてその気持ちが反映されてスピードは増加する。
でもある時から、それは違うのではないかと思うようになった。絵画を見るときに適正な距離が存在するように、音楽にも適正な速度が存在していて、それは速くても遅くてもいけない。それは作曲家が指定している速度とは別物である。この第4番の場合、第1楽章は四分音符で110、第5楽章は152と指定されているが、それを厳密に守ればよいのかというとそうでもないような気がするのである。

第4番の第4楽章は Allegro pizzicato であり、これはいわゆるバルトーク・ピチカートを駆使した楽章である。静謐だがカドの立ったピチカートの楽章に続いて第5楽章が急速調で始まるのはエキサイティングであり、興奮度も高まる。エマーソンはまさにそうしたアーバンな雰囲気のある演奏であり、リスナーの希求するイメージに的確に応えている。
だがその結果、メカニックで斬新な無機質感が出るかわりに、マジャルな田舎の音は減少してしまうようにも聞こえる。ヴェーグはエマーソンに較べれば遅いのだが、刻まれるリズムの、その息のタメの中に何か得体の知れないものが垣間見える気がするのだ。

第5楽章の高音部と低音部の呼び交わしは一種のスウィング感のようにも思えて、しかしそれが終息し、156小節目から1stヴァイオリンがくぐもったように出現して来るところ、そこにもさらりとしたマジャルのデーモンが見える。それはヴェーグのほうが印象として強いのだ。
私はこの第4番の第5楽章の272小節目から、不意に民族音楽調なメロディが立ち上がってたちまち消滅していくところにこの曲のせつなさを聴くのだが、そしてそれは思い入れたっぷりでも、全然思い入れないのでもなく、気がついているのだけれど誰も気に留めていないふうを装うように弾いてもらいたいと思うのだ。それに関してはエマーソンもヴェーグも、曲の読み取りに関して真摯である。
ヴェーグの1972年録音はCDがなくYouTubeで聴いただけだが、第5楽章を較べると1954年より速度がやや速く、より現代風であることは確かだ。めりはりがあってわかりやすいが、それによって得られるものと失われるもの、どちらが優れているのかは簡単には判断しにくい。

1954年のヴェーグの音はモノラルだが、クリアで、60年以上の時を経ても鋭さを失わず、空虚な心にダイレクトに突き刺さる。


The Art of Végh Quartet (Scribendum)
The Art Of Vegh Quartet




Végh Quartet/Bartók: String Quartet No.4 (1954)
https://www.youtube.com/watch?v=lh3WfCSop2o

Végh Quartet/Bartók: String Quartet No.4, mov.5 (1972)
https://www.youtube.com/watch?v=KFzXMSmMM1c
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末尾ルコ(アルベール)

わたしの中でバルトークとショスタコーヴィチが少々かぶっておりましたが、あらためて聴いてみると、ずいぶん違いますね。
そしてバルトークの方が前に生まれてますね。これも何となく、ショスタコーヴィチの方が先に生まれているというイメージを持っていました。
さらに少し調べてみると、この二人はけっこう微妙な関係だったのですね。そうした芸術家同士の関係性はもちろん、時代背景を含めて鑑賞すれば、興味は大きく上がりますね。
特にわたしは当時のロシアでのクラシック音楽の位置づけなどに興味があります。
特に19世紀から20世紀初頭にかけてのロシアは芸術的驚異の時代ですから、しかしその芸術家たちの凄まじい創造力と民衆の間にどれだけの繋がりがあったかであるとか。
もちろんバルトークはオーストリア=ハンガリー帝国出身なのですが、その中でのアカデミックなクラシックの教養とハンガリーの民族性についてなど、それはリンクしてくださっているお記事でもlequiche様が語ってくださっておりますが、とても興味があります。

>「よくわからない曲」

バレエ・リュスなどもそのような反応だったですよね。パリの観客の前で演じられただけに、それは「事件」となったわけですが、実にエキサイティングです。
おそらくバルトークの曲は現在でも、「よくわからない」と思う人たちがけっこういるのではないでしょうか。特に「クラシック」=「エリーゼのために」くらいの認識の人たちにはヘンな曲に聴こえるのではと想像します。
残念なのは音楽に限らず、(あれっ?)という感覚を持った時が芸術鑑賞を深める絶好の機会なのに、「分からない=つまらない」と勝手に決めつけて、もう近寄らなくなる人たちが大多数だということです。
「残念なのは」というのは穏当な表現で、内心はそうした人たちに対して、(アホか!)と思っておりますが(笑)。

>空虚な心にダイレクトに突き刺さる。

これってとても重要なご感覚だと思います。以前、わたしがAMラジオの音でとても感動することがある旨書かせていただいた時、その理由の一つをお話しくださって、(なるほど)ととても納得させていただきましたが、「音楽」と「音質」の関係というのも、わたしはかつて音質のいいオーディオを持ったことないだけに(笑)、とても興味があるのです。

ボウイのベルリンライブ、しょっちゅう聴いてます。
あの深みに関してわたしも現在言葉を見つけ出せませんが、それ以前に、レコードセールスを中心として音楽家のキャリアを語るしかできない多くのメディアに対しての怒りはより深くなります。
メディアに頼ることなく、自分の目で、耳でしっかりとそれぞれの作品を見極めながらできる限り伝えていくことの重要性をあらためて強く感じております。

ローリー・アンダーソンについてのご説明もありがとうございます。
この人などは、「日本で最も無視されるタイプ」の芸術家のような気がします。
高度な知性と音楽性、そして「感情過多」を絶対的に拒否する・・・ここに世界でも稀に見る美があるのですよね。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-09-23 17:20) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

バルトークとショスタコーヴィチでは、ほぼ一世代違います。
でも音楽技法的に見た場合、調性が完全に無くなっていない
ということでは共通性があるようにも思います。

ロシアの作曲家、またバレエ・リュスとの関係を考えると
ストラヴィンスキー、あるいはプロコフィエフあたりが
ショスタコーヴィチとの比較対象ではないかと思います。
バルトークは結局、立ち回りのヘタな人だったようで
不幸のままにアメリカで亡くなりますが、
ショスタコーヴィチはうまく立ち回ったり、
失敗しそうになったり、その繰り返しの歴史でした。
ただ、ジダーノフ批判だけで語られがちですが、
ロシアという国はそんなに単純な国ではないので、
最近のパンクバンドの件などを見ても、闇は深いです。

ショスタコーヴィチの音楽に見られる諧謔性が、
道化という仮面を被った批判なのか否かというのは
そんなに簡単に結論づけられないような気がします。
ヴォルコフの著作をそのまま信じることはできないわけで、
なぜなら彼もまたロシア人だからです。
そしてソヴィエトという体制の下では芸術は無力で、
音楽は抽象的であるがゆえにどのようにも解釈できます。
さらにソヴィエトとナチスが両大戦にどのように影響したか
を考えると、より複雑な様相となります。
どちらかというとナチスは
ヒットラーというパーソナリティによる徒花であり、
ロシアという大国のほうが周辺国 (たとえばハンガリー) に
与えている継続的プレッシャーという点で、
より強い要素を持っているように思えます。

私がバルトークを偏愛するのは、
その作品にほとんど駄曲が存在しないからです。
ショスタコーヴィチやストラヴィンスキーには
体制への 「おもねり」 という意図があるにせよ、
音楽的に疑問な作品があるように私には思えてしまいます。
作品は結果として出て来たものが作品なのであり、
それに対して 「他からの圧力で不本意ながらそうなった」
と弁護するのは私は違うのではないかと思うからです。

録音は、最近、たとえばビートルズでも
初期ステレオ盤よりもモノラル盤のほうが
音質的に安定していて優れているという評価がありますが、
それはモノラルに限ったことではなく、
音質と音楽とが必ずしも一致しないのは
古いフルトヴェングラーの演奏が決して無くならない
ということに対しても言えます。

ボウイのライヴや、まして動画のオフィシャル版は、
その演奏回数に較べるとほとんど発売されていません。
でも全てをブートにしてしまっては惜しいという状況ですが、
ほとんどはブートになってしまいそうです。
売れるものが必ずしも優れたものでないのは
音楽に限らずそうですが、経済とはそういうもので、
世界が経済を中心に動いている限りは仕方がないのでしょう。

ローリー・アンダーソンは結局言語の壁というのが
あるのではないかと思います。
ただそれを除いても屹立する音楽性はあるはずなのですが、
スイートなものが好まれる時代には不向きなのかもしれません。
by lequiche (2018-09-23 22:43)