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セシル・テイラー《Poschiavo》 [音楽]

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ポスキアーヴォ (Poschiavo) はスイスの南端、イタリアに突き出ている国境ぎりぎりにある町である。2016年12月の人口が3534人とあるから村と呼んだほうがよいのかもしれない。ポスキアーヴォはイタリア語読みで、wikiには各言語での読みが載っている。Italian: Poschiavo, Lombard: Pusciaaf, German: Puschlav, Romansh: Puschlav とのこと。

セシル・テイラーのアルバム《Poschiavo》はこのポスキアーヴォで1999年5月14日に行われたピアノソロによるライヴの録音である。ライヴなのだが、まるでスタジオ録音のようにクリアで残響が少なく、ベーゼンドルファーの下のほうの音が重く響いているという印象がある。といってもヘヴィなのではなくて心地よい低音であり、後期のセシル・テイラーの特徴的なピアニズムをよく捉えている。そして録音されたのは1999年であるがリリースされたのは2018年の6月であり、いわば新譜である。

1999年というと彼は69歳で、ピアニストとしてはまだまだ十分に現役だが、しかし若い頃のような目眩くように走り回る指はさすがに衰えていて、そのかわりに音の深みとか構成力に老練な味わいが出て来た頃である。よく使われるパターンというか、一種の手クセは幾つもあるのだが、その左手の重厚な打鍵とそのメロディ造形が後年になればなるほど際だってきているように思える。つまり右手はある意味オブリガートであり、重要なのは左手である。アヴァンギャルドな方向性は終始変わらないのだが、アヴァンギャルドでありながら円熟していてトリッキーなキツさがだんだんと収まってきてしまっている。それを円熟として認めるのか、それとも退行として批判するのかは自由だが、次々に繰り出されるパターンはまろやかで、尖鋭的な前衛性とか、細く過激で狷介な音楽とは無縁のようにも聞こえてしまう。
《Poschiavo》は約54分にわたる切れ目の無い1曲であり、trackも1つしかない。40’40”頃からヴォイスが混じるが、その後、一瞬ピアノの表情が変化する。延々と弾きながら飽きさせないテクニックも手練れの境地にある。

ジャズにおけるソロピアノはずっと以前からあったが、その概念を変えたのがキース・ジャレットの《Solo Concerts》であった。短い曲をピアノで弾くというそれまでの佳曲集的手法でなく、オリジナルな構想で延々と弾き続けるというコンセプトが当たったのである。そのブレーメンとローザンヌのソロが録音されたのが1973年の3月20日と7月12日、そしてリリースされたのが同年の11月とある。
この1972~1973年あたりのジャズの隆盛は凄まじいほどである。1972年はチック・コリアの《Return to Forever》が出された年であり、翌1973年はハービー・ハンコックの《Head Hunters》というアルバムが続いていることからもわかるように、世の中はフュージョンであった。

だがそうした時代でもセシル・テイラーのスタンスは変わらない。ソロによるアルバム《Indent》は1973年3月11日、オハイオでのライヴを収録したものであるが、これはキース・ジャレットのブレーメンの9日前である。つまりほとんど同時期の録音であるが、片方は大ベストセラー、もう一方は、おそらく、ごく地味にしか売れていなかったという違いがある。もちろん私が肩入れするのは売れなかったセシル・テイラーのほうである (同様にして1972年の録音ではアンソニー・ブラクストンの《Town Hall 1972》があるが、これはまさに《Return to Forever》への回答としてリリースされたものである)。
私はセシル・テイラーをそんなに聴いているわけではないので、ごくアバウトな感想なのだが、彼のソロの最も優れていると思われるアルバムは《Indent》(1973) と《Silent Tongues》(1974)、そして1976年の《Dark to Themselves》と《Air Above Mountains》だろう。そしてユニットにおける最高傑作として1978年の《One Too Many Salty Swift and Not Goodbye》を偏愛している。

当時の日本では、1973年5月22日に東京厚生年金会館で行われたライヴを収録したトリオレコードの《Akisakila》がそれなりの評判になったのではないかと思われる。演奏曲目は〈Bulu Akisakila Kutala〉の1曲だけで、同時期にソロピアノの《Solo》というアルバムもリリースされているので、《Indent》よりもこれらの録音のほうが先にリスナーの耳には届いたのではないだろうか。wikiには《Indent》のリリースが1973年とあるが、Sessiongraphyには1977年と表記されていて、どちらが正しいのか不明である。たぶん1977年のように思えるが、調べてもわからなかった。そしてSessiongraphyも最近は更新されていないので、この《Poschiavo》のデータはもちろん収録されていない。

《Poschiavo》はアリゾナのBlack Sunというレーベルから出されているが、ブラック・サンのサイトを見ると《Indent》と《Silent Tongues》も別ジャケットで再発しているようである。だが、amazon.comにはあるけれどamazon.co.jpを含めた国内のサイトにはBlack Sun盤は見つからない。


Cecil Taylor/Poschiavo (Black Sun Music)
POSCHIAVO セシル・テイラー(ピアノ)




The 2013 Kyoto Prize Workshop in Arts and Philosophy
Cecil Taylor and Min Tanaka
https://www.youtube.com/watch?v=Q8rqVi_ROSo
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末尾ルコ(アルベール)

田中泯との共演ですね。とても興味深い動画です。
田中泯は映画などで観ていますが、踊っている姿はほとんど観たことがなく、しかも比較的最近の映像ですね。
一見して、素晴らしい肉体であり、とてもよく鍛えられていることが分かります。
そしてこの踊り。
自分の踊りをカテゴライズされることを嫌う田中泯についても今後いろいろチェックしてみたくなりました。

セシル・テイラーは名前を知っているくらいで、今回初めてじっくり聴かせていただきました。
『Return to Forever』は1972年なのですね。さすがに古さを感じさせないですね。
72年よりずーっと後に同級生のフュージョン小僧たちがこぞって聴いておりました。
わたしはその頃はパンク・ニューウエイブで、ジャズ系はまだまったく聴いてなかったのですが、フュージョン小僧たちがロックに対して舐めた口をきいてきたことは忘れられない青春の日々です(笑)。
でもセシル・テイラーを聴いていた同級生は一人もいなかったですね。
わたし自身もこの度初めてじっくりと聴かせていただいておりますが、このようなピアノは好きですが、いつどのように聴くかをわたしなどは考えてしまいます。
こうしたピアノソロを無性に聴きたくなる時間もあれば、ポップな曲のみがしっくり来る時間もあります。
セシル・テイラーのようなピアノソロに徹したい時間もあれば、仕事をしながら流しておきたい時間あると思います。
ここが音楽のおもしろいところで、音楽は他の芸術と並行して愉しめる時間を創れるのですよね。
だからと言ってもちろんイージーリスニング的なものはいかなるシーンでも使いませんが。
セシル・テイラーのような音楽をこうしてご紹介いただき、(さて、今後どのように愉しんでいこうか)などということを考えています。

それはそうと、いつもlequiche様がおっしゃるように、動画の情報量は音楽においても極めて重要ですね。
お記事を拝読しつつ動画を拝見すると、わたしのような音楽素人にも(ああ、ここはこういう側面なのか・・・)などと、少しずつ理解できてくる気がします。

>限られた理想空間

高校時代に毎日のように入り浸っていた街中の本屋を思い出します。
地下一階に夢野久作や中井英夫、そして澁澤龍彦やマルキ・ド・サド、ジョルジュ・バタイユらの怪しげな文庫本がずらりで、あれはよく地下一階の置いていてくれたなあと今となっては感謝ものです。
そうした本が明るい2階にあるのと、いささか陰湿な(笑)地階にあるのとではずいぶん印象が違いますから。

アンダーソンの猫もそうですし、古代オリエントからヨーロッパへ繋がる文化圏では、猫はより美的・神秘的なイメージを持たれている感じですね。
日本でも猫に神秘性を感じる文化はありますが、やはり「可愛い」に大きく傾いております。
ま、「可愛い」に間違いはないのですが。

>自分の理解能力で咀嚼できないものは悪であるとする傲慢

精神衛生上よくはないのですが、世の中の動向の一端を知るためにちょいちょいヤフコメ欄やネット掲示板をチェックするんです。
「咀嚼できないものは悪」という風潮はどんどん強まってますし、「PV稼いで一儲け」というシステムがそれを助長しています。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-10-23 16:19) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

京都賞の受賞時のセシル・テイラーは、
そう言っては失礼ですがもうすっかりお爺ちゃんで、
田中泯さんが、うまくリードしていたわっている様子が
微笑ましいというか、もうそういう年齢なのかというか、
少し感慨がありました。
でもピアノを弾き出すと、そこだけは現役なんです。

田中泯さんは全くブレないところが
セシル・テイラーと同じです。
25年前も前ですが、デレク・ベイリーとの動画があります。
デレク・ベイリーはセシル・テイラーと同じく
アヴァンギャルド・シーンにおけるギターの重鎮です。
https://www.youtube.com/watch?v=A5dz_1meBjY

山下洋輔がエッセイで、セシル・テイラーのライヴを
聴いたときのことを書いていたのを思い出しました。
その前にオスカー・ピーターソンが出演して、
ピーターソンが終わってセシルが弾き出すと、
お客が皆、ぞろぞろ帰ってしまうんだそうです。
音楽の傾向が正反対なので仕方が無いのですけれど、
アヴァンギャルドとはそういうものです。
音楽はいろいろな切り口があって、
フュージョンが好きな人もいればパンクが好きな人もいる。
演歌好きもクラシック好きも、人それぞれですし、
そのときによって聴きたいジャンルも変わります。
聴きたいときに聴きたい音楽を聴けばよいのだと思います。

地下の本屋さんですか。
地上階と地下とでは確かに印象が違いますね。
その本にふさわしい本屋というのもあると思います。
澁澤訳のサド『悲惨物語』はフランス綴じになっていましたが、
そういう工夫のある本は面白いです。

最近、リラダンの『未来のイヴ』の新訳が出ましたが、
まだ読んではいませんけれど、チラッと見ただけで
斬新な訳のように感じました。これはまたあらためて。

猫に限らず、かわいいに振れてしまうのは、
やはりペットブームだからなのでしょうが、
ペットとオモチャは違うんだということを覚悟して
飼うべきだと思います。

PV稼いで、というのも経済至上主義の一環ですね。
今ではアメリカの大統領がそういう人なのですから
世界的な傾向なのでしょう。
そもそも、芸術とは元来、わかりにくいものです。
わかりやすいものは入門用のものに過ぎないので、
いつまでも入門編ばかりやっているわけにはいきません。
そんなに簡単にわかってたまるか、というのが
実は私の本音です。
でも、あちこちで入門レヴェルだけ囓るのが好き
という嗜好の人もいるみたいです。
by lequiche (2018-10-24 03:12) 

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