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ザビーネ・リープナー《Stockhausen: Klavierstücke I-XI》 [音楽]

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Sabine Liebner (2015) (nachrichten-muenchen.comより)

ザビーネ・リープナー (Sabine Liebner) は現代曲のスペシャリストであるが、最初に聴いたのはモートン・フェルドマンのWERGO盤《early piano pieces》で、それから彼女の演奏が気になっていた (そのことはすでに書いた→2013年03月19日ブログ)。リープナーの弾くフェルドマンには《For Bunita Marcus》もあるのだが、この曲の入っているCDが品切れなのかなかなか入荷しない。マルカンドレ・アムランの同曲と比較してみたかったのだが、そういう理由でとりあえずそれはパスして、今回の話題はリープナーのシュトックハウゼンである。

シュトックハウゼンのピアノ曲はKlavierstückeというタイトルの曲が〈 I 〉から〈XIX〉まで存在するが、I~XIが作曲されたのが1952~61年、XII~XIVが1979年~84年、そしてXV~XIXが1991~2003年と別れていて、IからXIまでは作曲家の初期の作品に相当する。後期の作品ほどプリペアードやシンセ系の音などを採用するように変化していて、そうした後ろのほうの作品と比較するとリープナーの弾いているI~XIはごくオーソドクスなピアノのための作品といってよい。
wikipediaを読むとさらにこの第1のグループは3つに別れていて、I~IVはfrom point to group composition (Nr.2/1952)、V~Xはvariable form (Nr.4/1954-1955/1961)、そしてXIはpolyvalent structure (Nr.7/1956) となっている。polyvalent structureというのがよくわからないのだが訳語にしてももっとわからないだろう。リープナーはこの曲のみ2つのversionを録音している。wikiには作曲年は1956年と記載されているが、CDパンフレットには 「/1961」 という表示があり、V~Xと同様、改訂があったのだと思われる。

シュトックハウゼンといっても私はほとんど知らなくて、学校の教科書に出てくるのは必ず《少年の歌》(Gesang der Jünglinge, 1955-1956) でしかない。あぁ電子音楽の人、というような理解で片付けられてしまいがちだが、結果としてそういう刷り込みの弊害は大きい。
でもこの時期のシュトックハウゼンはブーレーズ、ノーノと並ぶ存在であり、曲を聴いた印象はガチガチのオーソドクスなセリーの現代曲である。

歴史的にとらえれば、電子音楽の黎明期にはもちろん今のように製品化されて簡単に音の出るシンセサイザーなどというものはないから、どのように電子音を出すかというのがまず問題であり、技術的に非常な手間をかけているわりにはチープな音だったりする。それはそれで仕方がないのだが、逆にそれこそが電子音楽だという解釈も成り立つ。
しかし、アコースティクピアノのために書かれた作品はすでに完成されているピアノという楽器を使用しているから、音楽そのものとしては完成されているように聞こえるので、「最初はシュトックハウゼンもこんなだったのだ」 というような感慨めいたものがある。

セリーの曲は初めて聴くときは意外性を感じるのだが、ともすると皆同じように聞こえて退屈してしまうということがないわけではない。つまりどんな新規な意匠もすぐに色褪せるのである。それはどんな珍奇な衣裳もすぐに古びてゆくのに似ている。
だがリープナーの弾き方にはその退屈さがない。どれも新鮮であり、それはジャケットの色合いに似て、なんらかのカラーを帯びているが、だからといってストラヴィンスキーのようなカラフルさを連想するのは少し違う (いや、かなり違う)。
それは何のせいかというと、音ひとつひとつの粒立ちのよさであり、それは非常に考えられコントロールされているピアニズムにあるのだと思う。フォルテシモの強い打鍵であっても荒々しさや粗雑さが無く、どのように音を出すかということに関して配慮された美を持っている。これは曲構造を解釈し吟味したうえで到達した一種の余裕なのだろう。

ほとんどの曲は比較的短いが、XIの2つのversionは15’45”、14’37”と比較的長く、Xのみが44’47”と超絶的に長い。延々と無音の部分があったりするのだが、それはポリーニが弾いている動画がYouTubeにあるのでそれを見るとわかる。だがポリーニの演奏時間は約24分。リープナーの半分に近くて、現代曲というものが厳密そうに見えていながら必ずしもそうでもない一面がここにあらわれている。
そしてリープナーのフェルドマンの演奏における遅さがこのシュトックハウゼンにも踏襲されているようにも見える。なぜ遅いのか。しかしそれは近年のポゴレリッチの遅さとは異なる意味での遅さだと思うのだ。


Sabine Liebner/Stockhausen: klavierstücke I-XI (WERGO)
カールハインツ・シュトックハウゼン : ピアノ曲 I-XI / ザビーネ・リープナー (Karlheinz Stockhausen: Klavierstucke I-XI / Sabine Liebner) [CD] [Import] [日本語帯・解説付]




Sabine Liebner/Stockhausen: Klavierstücke II, Nr.2
https://www.youtube.com/watch?v=zL7viIqfJeE

Forum Neuer Musik 2011:
DLF-Festival für zeitgenössische Musik “goes Germany”
https://www.youtube.com/watch?v=lC2z6l-EoQU

Herbert Henck/Stockhausen: Klavierstücke I
https://www.youtube.com/watch?v=-hGHH4IDHAk

Maurizio Pollini/Stockhausen: Klavierstücke X
https://www.youtube.com/watch?v=qfRlVvqBfYA

参考
Maurizio Pollini/Webern: Piano Variations op.27
https://www.youtube.com/watch?v=iJfF1THDnuY
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末尾ルコ(アルベール)

本日取り上げてくださっている人たち、わたしまるっきり知りませんでした。
現代音楽についても明るくないし、普段はついつい忘れているジャンルなのですが、わたしは好奇心旺盛なので、こうして未知の世界をご提示くださるとワクワクしてしまいます。
そこでリンクしてくださっている動画(Sabine Liebner/Stockhausen: Klavierstücke II, Nr.2、Herbert Henck/Stockhausen: Klavierstücke I、Maurizio Pollini/Stockhausen: Klavierstücke X)、視聴させていただきましたが、わたしの感想としては「心地よい」と、あまりに素朴で申し訳ないですが(笑)、まず出てきた言葉がこれです。
ザビーネ・リープナーの演奏はもっと聴きたいですが、YouTubeにはあまりないのでしょうか。
lequiche様のいつもながらの素晴らしい文章を拝読させていただき、とても興味が湧いております。
と言いますか、次の部分は本当に素晴らしいです。

>音ひとつひとつの粒立ちのよさであり、それは非常に考えられコントロールされているピアニズムにあるのだと思う。

>これは曲構造を解釈し吟味したうえで到達した一種の余裕なのだろう。

いやこれはですね、リープナーはもとより、ピアニストという存在、ピアノという存在に対して、あらためて強く興味を喚起してくださるお言葉でありますよ!!!

ところでこのような現代音楽の鑑賞方法なのですが、例えば読書しながら流すとかではなくて、しっかりと対峙してお聴きになることが多いのでしょうか。
それと日本と海外ではもちろん事情が違うでしょうが、欧州などではけっこうお客さんが入ったりするのでしょうか。
ポリーニのように知名度の高いピアニストがこうした曲を弾いているのもとても新鮮なのですが。

それと、リンクしてくださっている動画の次に次のようなアルバムが出てきまして、なかなかおもしろかったです。

Karlheinz Stockhausen - Sonntags-Abschied
https://www.youtube.com/watch?v=6JdRTI5mkjc


>世間一般に知名度が低くても別に構わないのです。

結局、「世間での知名度」の「世間」の成熟度などの問題でもありますね。
単純には比較できませんが、「日本における世間」を考えてみても、「かつての日本」と「今の日本」の世間はまったく異なる世間です。
「かつての日本の方がずっといい」とは言いませんが、少なくとも今より知的好奇心のある世間だったと思います。
まあ現在はそれぞれのマニアックな興味の世界で島宇宙のように閉鎖的に欲求を満たしている人たちが多いですから、状況も大きく変わってしまっております。

>失言というのはそのほとんどが本音

あと、酒飲んで出てくる言葉とかもそうですよね。
わたし今は酒飲まないのですが、高校の時は飲んでいて(笑)、でもわたしは絶対に羽目を外しませんし、酔いつぶれることもなかったのです。
で、1年年上のロックその他に詳しい先輩がいて親しく友人関係してましたが、ある時その人物が酔いつぶれて醜態を曝しまして、それ以降わたしの中での評価は大暴落しました。
やはり醜態を曝すような飲み方をすべきではないと思うのです。

立花隆の言うのは、隅々まで計算され尽した完成品よりも、計算以上の大きなものが生まれてしまった傑作として、『カラマーゾフの兄弟』や『地獄の黙示録』を挙げているのではないかと。
まあわたしも『地獄の黙示録』、大好きなのですが。(笑)。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-12-22 14:46) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

わざわざリンク音源までお聴きいただきありがとうございます。
リープナーの音源は
記事にもあげたフェルドマンの《early piano pieces》も、
また《Triadic Memories》などもありますが、
いきなり全曲を聴くのは少し大変なのではないかと思います。
YouTubeにForum Neuer Musik 2011というイヴェントの
紹介動画があります。
この中でジョン・ケージを弾いているリープナーを
少しだけ観ることができます。よろしければご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=lC2z6l-EoQU

こうした現代音楽のピアノ作品の演奏において
最もすぐれたピアニストのひとりに高橋アキがいますが、
その肝心な人について、まだほとんど書くことができないでいます。

現代曲は、そういっては何ですがやはりマイナーで聴く人が限られますが、
ドイツは比較的そうした音楽に理解のある人が多いようです。
フリージャズの山下洋輔を最初に注目したのもドイツでした。

私の鑑賞方法ですが、無限に時間があるわけではないので、
スピーカーと対峙して聴くこともありますが、
多くは 「ながら聴き」 です。
ただ単純に何度もリピートしているときもありますし、
そうして流しているうちに気に留まった曲を何度も繰り返し聴くとか、
ケースバイケースです。
そうした漠然とした聴き方のほうが
なんとなく見えてくる (聞こえてくる、ですね) ことがあります。

ポリーニは若い頃から現代曲をよく取り上げていました。
日本でそうした曲の演奏方法などについて
レクチャーを開いたこともあるようです。
上述の動画では軍手みたいな手袋をして弾いていますね。(^^)

Sonntags-Abschiedは比較的後期の作品だと思いますが、
シュトックハウゼンというと普通、このような曲のイメージがあります。
それなので初期のオーソドクスなピアノ曲というのは新鮮でした。
少し例がよくないかもしれませんが、
まだ若きピカソが特徴的な技法に到達していない頃、
上手いけれどまだ絵が萌芽で確立していないような印象を受けます。

好奇心というのは大切なものかもしれませんが、
逆にそんなに手を広げたくないという考えの人も多いようです。
なるべく自分のテリトリーの範囲内でやっていくというのも
またひとつの方向性なのでしょう。
いまはいわゆる一般教養みたいなのは無くなってしまいましたから
限りなく偏向して閉鎖的なのがマニアックなのかもしれません。
共通言語がどんどん無くなっていく徴候なのでしょうか。

計算してできあがったものよりも、
計算時には意図しないでできてしまったもののほうが
パワーを持ってしまうということはありますね。
それは必ずしも芸術作品だけに限らないはずです。
幾ら計算をして設計した理想的な音響のはずの音楽ホールより
昔に作られた伝統的な音楽ホールのほうが音響が優れているのは
計算が万能ではないからです。
数字だけで解決できない何かが存在するのだと思います。
by lequiche (2018-12-23 01:46) 

英ちゃん

☆;:*:;☆Merry Christmas☆;:*:;☆ 

♪o(^0^o)♪o(^-^)o♪(o^0^)o♪
きよしこのよる ほしはひかり
すくいのみこは みははのむねに
ねむりたもう ゆめやすく

素敵なクリスマスを~ヽ(‘ ▽‘ )ノ
by 英ちゃん (2018-12-24 14:22) 

lequiche

>> 英ちゃん様

クリスマスのメッセージありがとうございます。
クリスマスはケーキとお酒と、
食べ放題飲み放題がいいですね。(^^)
by lequiche (2018-12-25 03:42)