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Nardis ― ビル・エヴァンスの残したもの [音楽]

BillEvans_Kuusisto_190413.jpg

記憶を確かめるためにビル・エヴァンスのコペンハーゲン・リハーサル (オスロ・リハーサル) をYouTubeで探していたとき、見慣れない動画に行き当たった。それはごく家庭的な場所で演奏しているエヴァンス・トリオで、曲は〈Nardis〉だった。早速これは何なのか調べてみる。
すると動画はイルッカ・クーシスト (Ilkka taneli Kuusisto, 1933-) という作曲家のヘルシンキにある自宅で行われたセッションだということがわかってきた。クーシストはフィンランドの作曲家だが、wikiなどにはごく簡単な紹介文しかない。NAXOSなどにもリストがあることからわかるように、クラシック系の作曲家である (のだがwikiにはcomposer of popular operaとあって、どのあたりからポピュラーと規定するのかがよくわからない)。
エヴァンスの動画は画面の隅に表示されているYLE (Yleisradio, フィンランド国営放送/フィンランド放送協会) により1969年か1970年に制作されたものであるとのこと。こんなこと、知っている人は知っていて何を今さらなのだろうが、知らなかったのだから仕方がない。音源も動画もすでに発売されているのだが、年月の離れた複数のライヴの抱き合わせだったりすることがあって (このYLEの場合もそうなのだが)、しかも入手しにくいだろうし、分かりにくいことこのうえない。

興味を覚えたのは、ひとえに〈Nardis〉についてである。そして〈Nardis〉という曲は誰が作曲したのかというのが昔からよく知られている設問である。作曲者はマイルス・デイヴィスで、演奏として最初に収録されたのがキャノンボール・アダレイのアルバム《Portrait of Canonball》(1958) であるが、実は作曲者はビル・エヴァンスであるというのが巷間に流れている説である。
エヴァンス自身はそうした疑問に対して 「そんなこと、どうだっていいじゃない」 というような返事をしていたような覚えがある。

wikiには Nardis (composition) という項目があって、そこにはまさにこのイルッカ・クーシスト宅でのライヴ時のインタヴューが引用されている。

 [We’re gonna] finish up featuring everyone in the trio
 with a Miles Davis number that’s come to be associated
 with our group, because no one else seemed to pick up
 on it after it was written for a Cannonball date I did with
 Cannonball in 1958―he asked Miles to write a tune for
 the date [the album Portrait of Cannonball], and Miles
 came up with this tune; and it was kind of a new type of
 sound to contend with. It was a very modal sound. And I
 picked up on it, but nobody else did... The tune is called
 “Nardis.”
 ― Interview at Ilkka Kuusisto’s home, ca.1970, Bill Evans

これに拠れば〈Nardis〉はあくまでマイルスが作曲したものであると読めてしまうし、その前にある生成の経緯でもマイルスが作曲したものだということは繰り返し言われている。だが何となくグレーな感じが漂っているように私には思える。
さらに続けて英文を引用すると 「読むの面倒くさい」 と非難されそうなので、wikiに書いてあることとその他のいままでの情報や記憶から総合すると次のようなことが見えてくる。

この時期のマイルスの最も重要な作品は《Kind of Blue》(1959) である。このアルバムにおけるコンセプトはモードを使用したことであって、そのことによりジャズ史に残るアルバムという形容がされるのだけれども、ではモードとは何かといわれてもそういうのは音楽理論書を読んでもらいたいというしかないのだが、すごく乱暴に言ってしまえばモードはコードでなくスケール優先の概念であり、なぜならマイルスの楽器であるトランペットは単音楽器だからである。

wikiのNardisの項における解説ではマイルスの1955年から58年のクインテット (his First Great Quintetと表現されている) はジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズというメンバーであったが、これにセクステットと称してキャノンボールを加えていることもあって、つまりマイルスはキャノンボールを気に入っていたのに違いないと思えるのである。
なぜなら、1958年の《Portrait of Canonball》(1958年07月01日録音) の前に《Somethin’ Else》(1958年03月09日録音) というブルーノートの超有名アルバムがあるのだが、これはキャノンボール・アダレイのリーダーアルバムということになっているけれど、誰が聴いてもマイルスのアルバムである。それはマイルスがキャノンボールのアルバムを乗っ取ったということではなくて、キャノンボールに花を持たせたと考えたほうがよい。もっとも契約上の制限があってブルーノートからマイルス名義でリリースできなかったという事情もあったのだそうだが。

だがその後のアルバム《Portrait of Canonball》にマイルスが提供した〈Nardis〉をマイルスはあまり良いとは思っていなくて、それを気に入って自分の曲のようにして繰り返し演奏したのがビル・エヴァンスだということになっている。でもNardisというのはSidranを逆さまに読んだ言葉で、なぜならベン・シドランにマイルスが贈った曲なのだというのだが、もしそうだとしたらキャノンボールとしては面白くなかったのかもしれない。オレにくれるならLlabnonacなはずだ、という意味である。一方、ビル・エヴァンスは 「こんなヘンな曲、誰も演奏なんかしねーよ」 みたいに思って (なんてwikiには書いていないけれど) 自分のものみたいにしてしまったという顛末なのである。
でも、これらの話は全てマイルスが〈Nardis〉を作曲したということが前提となっている。だが私が気になるのは〈Nardis〉のテーマの3~4小節目の、メロディが屈折しながら下がっていく部分であって、このイカレた屈折の仕方はエヴァンスがよく弾いていた自身のテーマの変なリズム感を想起させるのである。
前に述べたコペンハーゲン・リハーサルでもそのテーマ曲におけるリズムのとりかたをドラマーのアレックス・リールに説明している個所があるが、リールは現地の、いわゆる臨時雇いのドラマーであるから、エヴァンスがこの曲ってこうなんだよ、と説明したのだろうと思える。

さて、wikiのNardisの項の解説に戻ると、1958年にマイルスはレッド・ガーランドのかわりにビル・エヴァンスをピアニストにしたが、それは8カ月しか持たなかった。それは (wikiには書いてないけれど) 黒人グループの中における 「白人差別」 だったという。つまり 「白人なんかにオレたちのジャズなんか、わかりゃしねーよ」 という蔑視である。だがマイルスにはそうした差別意識が無かった。無かったというより、音楽を演奏するのに優秀か優秀でないか、それだけで判断したのである。すぐれたミュージシャンに白人も黒人も有色人も無い。マイルスはそう思っていた。それで肝心の《Kind of Blue》をつくるとき、エヴァンスを呼び戻すのである。マイルスのモードというコンセプトを一番理解していたのは、たぶんエヴァンスだったのに違いなくて、だから自分のコンセプトを補強するためにエヴァンスに頼ったのである。
《Kind of Blue》に収められた5曲の作曲者は3曲がマイルス・デイヴィスだが、〈Blue in Green〉と〈Flamenco Sketches〉はマイルスとビル・エヴァンスの連名になっていることからも、その理論的な重さがわかるのである。2曲目の〈Freddie Freeloader〉だけキャノンボール・アダレイが加わって、ピアニストもウィントン・ケリーなのだが、それはこの曲が〈So What〉が終わった後の 「箸休めの曲」 であることをあらわしている。

ということから考えると〈Nardis〉はマイルスとエヴァンスの共作というふうに考えるのが妥当なところかもしれない。
その〈Nardis〉のビル・エヴァンス・トリオにおける初出は《Explorations》(1961) だと思っていたのだが、現在あるディスクでいうのならばフレッシュサウンド盤の《The Legendary Bill Evans Trio》(1960) のライヴ録音が最初のようである。Jazzdisco.orgによれば1960年4月30日と5月7日、バードランド、NYCとある。
そして〈Nardis〉の最も印象的な演奏のひとつとして《at the Montreux Jazz Festival》(1968) があげられる。ドラムスはジャック・ディジョネットであり、鋭角的でしなやかなテーマの提示からドラム・ソロに繋がれるが、ディジョネットのソロはこの時期としては斬新であるし、ホールトーンの心地よさとともにその日の雰囲気が感じられる秀逸なライヴである。

そしてやっと辿り着いたのがYLEのクーシスト家における演奏だが、記録として残されているのは〈Emily〉〈Alfie〉〈Nardis〉の3曲である。パーソネルはエヴァンス、エディ・ゴメス、マーティ・モレル。録音日は1969年末から1970年のはじめ。1970年という記述のほうが多いが、YouTubeの〈Emily〉の動画にはHelsinki 1969とあり、注釈にも1970 (or 1969) と書かれている。この日の前後を前述のjazzdiscoでクロニクルに追ってみると、

Bill Evans Quartet With Michel Legrand Orchestra
Bill Evans, Fender Rhodes electric piano, Steinway piano; Sam Brown, guitar; Eddie Gomez, bass; Marty Morell, drums; unidentified brass, woodwinds and strings, Michel Legrand, arranger, conductor.
San Francisco, CA, October 14 & 21, November 13, 1969, March 26 & 28, April 23 & 29 & May 1 & 20, 1970

Bill Evans Trio
Bill Evans, piano; Eddie Gomez, bass; Marty Morell, drums.
“Jazzhus Montmartre”, Copenhagen, Denmark, November 24, 1969

Bill Evans Trio
same personnel.
Amsterdam, Netherlands, November 28, 1969

Bill Evans Solo
Bill Evans, piano.
television broadcast, unknown locations, 1969

Bill Evans Trio
Bill Evans, piano; Eddie Gomez, bass; Marty Morell, drums.
“Village Vanguard”, NYC, February 15, 1970

となっている。つまり1969年11月13日まではニューヨーク、11月24日にコペンハーゲン、11月28日アムステルダム、そしてソロのunknownは除外して (リストの作り方として、その年の最後に不明日のセッションを羅列している編集方針だからである)、その次が1970年2月15日のニューヨークだから、ヨーロッパに滞在していた11月末から翌年2月までの間の日ということになるのだが、そんなに長い間ヨーロッパにいたのだろうか、というふうに考えてみた場合、1969年の11月末からせいぜい12月頃までというのが妥当なのではないかと考えると、日付的には1969年なのではないかと思う。ただもちろん記録がないのでなんともいえない。

この日の〈Nardis〉は、それまでの演奏とは違って、いきなりテーマに入らずピアノの前奏がある。このように前奏をつけることはその後、常態化したように思える。テーマはモントリューよりも速く、手慣れていてややラフでぶっきらぼうのようにも思えるが、そうすることがかえってソフィスティケイトなスタイルなのだと言っているかのようでもある。それとモントリューの同曲と較べても、全体的に明らかにアプローチが異なっていてそれは言葉にしにくいのだが、一種の凄みが感じられる。凄みというか、特にこのクーシスト家での録音はエヴァンスが喋っている部分もあるので、その話しぶりのなかに感じられる音楽への自信と同時に、かすかに伴われ始めた退廃のにおいである。
もうひとつ、この演奏で感じられるのはドラムソロにおけるマーティ・モレルの素晴らしさである。ドラムソロの構築としては古いタイプに属するのかもしれないが、上半身がほとんど動かない姿勢のままで繰り出されるそのきめの細かいドラミングは全然衒いも思わせぶりもないのがよい。いままで私はモレルをそれほど良いドラマーだとは思っていなかったのだが、この日の押し切りかたは私のツボにどんどん迫ってくるのである。
ベーシストのエディ・ゴメスを含めてトリオとして出発しようとしたにもかかわらず、ドラマーの選択にはエヴァンスに少し逡巡があった。ソロ作品を録音したりして、ディジョネットからモレルへと変化したのが1968年の秋、セッションでいえば1968年10月23日のトップ・オブ・ザ・ゲイトである。そしてオフィシャルなアルバムで見れば、1970年1月から3月に録音されたジェレミー・スタイグを加えたクァルテットによる《What’s New》である。スタイグの音色的にややイレギュラーなフルートとの共演がエヴァンスになんらかの刺激を与えたように思える。

最晩年の1980年になると〈Nardis〉の前奏はさらに引き伸ばされ、これから何が始まるのかはずっとわからないまま持続される。Molde, Norway in 1980のライヴではテーマに入るのが4’25”であり、そのテーマの提示もさらっと通り過ぎていって情感が押さえられて (もしくは情感をわざと隠して) いるように感じてしまう。
ジョー・ラバーベラのドラムはやや大味のように聞こえるが、この時期になってしまうとそうした細かいことはどうでもよいのである。ビル・エヴァンスは初期の頃の端正で神経質そうなイメージから線の細い繊細さを感じてしまうが、それは表向きの顔であって、ずっとヤク中であり医者嫌い、歯医者嫌いで、その生活は破滅的であった。美しい和音の裏側に暗いパッションがあって、その手触りは意外にざらざらしている。


Bill Evans/At The Montreux Jazz Festival
(ユニバーサル ミュージック)
モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス+1




Bill Evans/The Paris Concert edition two
(ワーナーミュージック)
パリ・コンサート 2<SHM-CD>




Bill Evans Trio/Nardis
At Ilkka Kuusisto’s home, Lauttasaari, Helsinki, Finland
1970 (or 1969)
http://www.youtube.com/watch?v=ObN55DQmFZI

Bill Evans/Nardis
in a concert from Molde, Norway in 1980
https://www.youtube.com/watch?v=qF4dI9LvLDY

Bill Evans/Nardis
Recorded Live at Montreux Jazz Festival “Casino de Montreux”,
Switzerland Jun.15, 1968
https://www.youtube.com/watch?v=8Jyo8dq5tvA
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コメント 2

末尾ルコ(アルベール)

いや、凄いですね。このご探求ぶり。
今回はビル・エヴァンス「Nardis」についてですが、このご探求ぶりはいなる分野においても大切な姿勢に感じられ、大いに刺激になります。
リンクしてくださっている動画、すべて視聴しましたが、こうしてお記事を拝読させていただいてからだと、実に興味深く、愉しさが倍増どころではありません。
わたしのジャズ教養(←渋谷陽一風言い回し 笑)ではまるで気づかなかったであろう要素に気づかせていただきながら、(ああ、なるほど)と愉しませていただきました。

>ヘルシンキにある自宅で行われたセッション

これは映像としても実におもしろいですね。「自宅」だから狭いですし(笑)、(え?こんな狭い場所で演奏を?)という異形性が際立っております。
ヘルシンキという辺境感もいいですね。
北欧、大好きです。行ったことありませんが(笑)、雰囲気が。

それにしてもビル・エヴァンスの映像をあらためていろいろ見ると、これほどまで俯き加減で演奏する人だったんですね。
マニアックな雰囲気が醸し出ていて、とても印象的です。
そう言えばわたし、エヴァンスはもっぱら聴くばかりで、あまり映像は観たことなかったのでした。

「Nardis」という曲の歴史を探求するご論考、とてもスリリングです。
作曲したのはマイルス・デイヴィスかビル・エヴァンスか。
さらにキャノンボール・アダレイとの関係性が、音楽だけでなく、人間同士の感情の機微も浮き彫りにしてくれます。
そして何と言っても、マイルスとエヴァンスの関係性ですね。
ジャズにさほど明るくないわたしでも、これがジャズの歴史の中でいかに大きな関係性であったかは分かります。
いわば伝説上の巨人同士のやり取り。
この場合の「伝説」とは現代日本で空疎に濫用される「レジェンド」という言葉とは何の関係もなく、本当の意味での「伝説」です。
とは言え、わたしはジャズの同じ曲を別テイクで聴くという経験はさほどなく、今回3種の動画を視聴し、その違いは分かりはしても、「こちらがこう」などと言及できるほどのリスナーではなく、lequiche様の文章をただだだ拝読し、(なるほど、このような鑑賞法ができるのか)と、また一つ大切なことを教えていただいた嬉しさで一杯です。

・・・

バッハが1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日) - 1750年7月28日

亡くなってから約270年が経つわけですが、現在も音楽の世界に聳え立っている事実が凄いですね。
そしてこの状況は未来永劫不動であるどころか、バッハの特別さはますます増していきそうな気がします。
まあ、クラシック音楽素人のわたしがこのようなことを書いても説得力はありませんが、それにしてもバッハの時代超越ぶりは凄いと感じます。
「古い」とか「新しい」とかいう言葉が陳腐に感じられるのですよね。
どんな時代であっても、ただただ凄くて美しいのがバッハである。

.>バッハはバロック期における典型だと思うのです。

わたしはバッハがバロック期の典型であるとすぐに理解できるほどクラシックを知りませんが、確かにあの時代、あの場所以外では生まれ得ない音楽だという感じは何となくですが(笑)分かります。
なのに例えば1000年後に人類が生き延びておれば、きっとバッハはまったく古さを感じさせない、「音楽そのもの」として存在しているのだろうなと、そんな感じを持ちます。

>これはコンピュータに膨大なデータを入れ込んで、それで判断させるのとは全く別のルートとしてのメソッドです。

わたし、そういうことに断然興味があります。
コンピュータで現にできることを人間が争ってもやや虚しい。
しかし未来永劫コンピュータでは不可能な人間的能力が厳として存在するのではないか。
今後人間が磨きをかけていくべきはそうした能力ではないかということですね。
しかし世界の大勢は、コンピュータの支配下に置かれたがっている人たちが大部分ですよね(笑)。     RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-04-14 17:27) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

いえいえ、あくまでブログ記事ですから
きちんと検証していませんし、ごくユルい内容です。
考えている途中のメモ書きのようなものです。

一番不確かなのはイルッカ・クーシストという作曲家が
どのような人が知らないことです。
オペラというジャンルがクセモノだというのが最近わかってきて、
つまりオペラとは何かとか、どのへんからミュージカルになるのか、
その境界線はどのへんなのか、とか。
オペラというとクラシックっぽいですが
ミュージカルというとポピュラー音楽っぽい。
でもこれらは地続きです。
たとえば以前に書いた記事のトマス・M・ディッシュの小説に
ギルバート&サリヴァンの《軍艦ピナフォア》が出てくるんですが、
こうしたいわゆる通俗オペラみたいなものを
どのように解釈すればよいのかがまだわからないのです。
視点が変わりますがリチャード・パワーズで知った
スウェーリンクあたりの音楽をどう見るべきかというのも
あまりに知識がないので同様に判断ができないのです。
さらにそこから今もっと深みにハマッてしまっているのですが。(-_-)
バッハ以前のイタリア、フランスは怖いです。
もう、きりがないというか。(笑)

北欧で最も辺境といったらたぶんアイスランドですが、
アイスランドといえばビョークです。
私がよく聴くECMレコーズは会社としてはドイツですけれど、
北欧系のミュージシャンの演奏のリリースも多いのですが、
オスロとか、北欧での録音はなんとなく雰囲気が違いますね。

ビル・エヴァンスの動画は以前はほとんどありませんでした。
動いている姿を多く見ることができるようになったのは最近です。
鍵盤に接近して弾いているスチル画像は昔からありましたが、
ずっとその状態で弾いているとは。
こんな姿勢でピアノを弾いたらピアノの先生に叱られます。(笑)

マイルスは表面的にはエヴァンスを
結構おちょくってたりしたみたいです。
でも絶大な信頼があるからそういうことができた。
彼は常に選択眼が優れていて、チック・コリアも
キース・ジャレットもまだそんなに有名でないのに
自分のグループに引っ張り込んでいます。
こいつはすごい、と確信したからでしょう。
一方で、キャノンボールみたいな人は、マイルスが
どういうことをやろうとしているか、たぶん分からなかった。
でもそれは仕方がないんです。
トミー・フラナガンも
コルトレーンが複雑なコードチェンジを始めたときに
それについていけなくて落ち込んだらしいです。

晩年のエヴァンスは演奏がラフ過ぎて嫌いという人も多くいて、
確かにそういう部分もありますが身体が動かなかったのですから
仕方がないといえば仕方がないです。
それは晩年のジミ・ヘンドリックスにもいえますが、
でもエヴァンスやジミくらいの人になると
その演奏の全ては聴く価値があると私は思います。

バッハが若い頃は、まだ音楽の中心というのはイタリアで
どちらかというとドイツは (そもそもまだドイツはなかったですし)、
まだ北国で辺境だったのです。
それがバッハの時代に重要な音楽拠点へと変わっていきました。
ですからバッハ以降というのは整然とした歴史が見えるのですが、
それ以前は混沌としていて泥沼のようです。
でも先に述べましたがこのへんに魅力があるのです、
ということを最近知りつつあるのです。これは罠かもしれません。

AIに対する騒ぎ方とか、新しい技術が次々に出てくるのとか、
そういうSF的な思考方法がどの人もどの国も好きですよね。
《I, Robot》にしても、アジモフは批判的な目で原作を書いたのに
それがいつのまにか変質してしまっているような気がします。
経済効果を得るためにはそうした視点のほうが有利だからでしょう。
そのうち、人間は生まれてから死ぬまで介護されっぱなし、
まさに何もしないで済むような桃源郷、というような
「素晴らしき新世界」 が来るのかもしれません。
by lequiche (2019-04-15 01:32) 

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