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『URCレコード読本』を読む・1 [本]

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はっぴいえんど 1st (1970)

URCとはアングラ・レコード・クラブの略称であり、日本のロック、フォーク黎明期におけるいわゆるインディーズ・レーベルである。当初は限定1000名の会員制として発足したが、あまりに反響があったので一般発売になったのだという。
最近になって再発盤が出ているのだが、この本にはベスト50曲という記事があるだけで、全アルバムのリストがあるわけでなく、資料本としての使い勝手はあまりよくない。だが何人かの主要ミュージシャンへのインタヴューはとても面白い。つまりインタヴュー集として割り切るしかない。このような時代を経た回想の場合、話は美化されがちになるが、結構ズバリと言ってしまっている部分があったりして、これもこの世代の特徴なのかもしれないと思う。

読み進めて行くと、特にURCのメインのアルバムはフォークだと思われるのだが、そのフォーク自体を私はほとんど知らないので、理解するのがむずかしい。巻末のほうにあるURCの次の世代のインタヴューがあるので、そのあたりの会話から逆照射することによって、その時代をとらえることができるような気がする。
たとえばワールド・スタンダードの鈴木惣一朗とカーネーションの直枝政広のトーク。このへんに鍵があると思って読んでみた。

直枝は中2の頃、岡林信康のベスト盤を聴いたのがURCとの出会いだったということだが、歌い方が柔らかい、もっと激しく歌ってほしいと思ったのだという。だが高校生のとき、友人からはっぴいえんどの1st (通称・ゆでめん) を500円で買って聴き、やられてしまった。しかしそれはもちろんリアルタイムではなく、1975年頃の 「音楽がどんどん洗練されていった時代」 で彼はSongs, Band Wagon, Niagara Moon, キャラメル・ママなどを聴いていて (それらは 「はっぴいえんど後」 の時代であるから)、URCはちょっと上のお兄さん世代の音楽という認識があったのだという。(p.164)
一方の鈴木は、リアルタイムで意識していたのはエレックであり、URCはアングラなイメージがあって、近づいてはいけない音楽と思っていたのだという。その頃、彼が聴いていたのは当時フォークとして最もメジャーであった吉田拓郎や井上陽水で、対して岡林にはウェットな印象があったのだそうだ。
鈴木の指摘は以下のようである。

 あえて、あたり前のことを言うけど、当時の日本のフォークやロックは、
 洋楽をどういうふうに咀嚼するかがテーマだった。その咀嚼率の高さに
 関しては、(鈴木) 慶一さんとか細野 (晴臣) さんが抜群に高いわけ。
 (p.167)

そして、

 エレックも含めて、最初の頃の日本のフォーク、ロックは、まだうまく
 噛み砕けてないんだよね。今は優しい気持ちで聴けるけど (笑) (p.167)

さらに鈴木は、金延幸子についても後聴きであり、そのことがかなり詳細に語られている。

 金延 (幸子) さんの『み空』も、当時聴いてたら影響受けたと思うね。
 再発された時に聴いてショックだった。リアルタイムでは知らなくて、
 初めて聴いたのは80年代。(久保田) 麻琴さんの家に遊びに行った時に
 聴かせてもらった。その時は〈ジョニ・ミッチェルみたいだな〉と思っ
 たんだけど、ずいぶん引っかかってたんです。はっぴいえんどがバック
 にいる感じとか、シャレたレコードだなって。再発された時は、ニック・
 ドレイクとかアシッド・フォークのことも知ってたから、そうかって。
 (p.167)

インタヴューアーの村尾泰郎が《み空》について言及する。

 『み空』は小沢健二がライヴの客入れで使ったことから再評価に繋がっ
 たとも言われています。小沢健二やサニーデイ・サービスなど90年代
 に新しい世代のアーティストが、60〜70年代の日本のフォークやロッ
 クを再発見して…… (p.167)

それに対して鈴木の批評は、

 サニーデイには当初、レトロスペクティヴみたいなものがあったと思う。
 もう一回、はっぴいえんどをやろうっていう。でもそこから20年経って、
 ネバヤン (never young beach) とか聴いてると、細野さんのことが好
 きだと言ってるけど、深く聴いてるわけじゃないのがわかるんだよね。
 けれども、知らずにやってる強み、みたいなものがある。それがダメだ
 と言ってるわけじゃなくて、知らないことは若さの特権だから。僕らの
 ように知りすぎると曲を書くのが怖くなって、それでスランプになって
 いく人もいっぱいいる。(p.168)

「深く聴いてるわけじゃない」 と断定してしまうのがすごいが、逆にその程度にしておいて深く聴かないほうがいい、とも言っているわけで、音楽というものは意外に表層的なところで影響力を持つのかもしれないと思う。それはつまり多分にテクニック的なものであり、精神性にまでは踏み込まないという意味でもある。
直枝は細野晴臣の〈夏なんです〉に関して、松本隆の歌詞がそれまでの歌謡曲の時代とは異なる方法論であるという。

 「夏なんです」 なんかは日本の夏の風景が見えてくる。日向と日陰の温
 度差みたいな感じ。そういう叙情性を教わりました。それまでの日本の
 歌謡曲って夢を歌ってきた。はっぴいえんどは目の前のことを歌ったん
 だよね。(p.168)

松本の歌詞については『SWITCH』No.6号でも特集されていたが、そのテクニック的な特性から太田裕美の〈木綿のハンカチーフ〉について語られてしまうことがとても多い。しかしそれは職業的作詞家として自立してからの松本の方法論あるいは技術論であり、そのルーツとしての視点ははっぴいえんどの歌詞に感じられる。より素朴でノスタルジックでありながら必ずどこかにひねりのある世界を提示している。

鈴木惣一朗は1985年のはっぴいえんど再結成ライヴに参加したときの、現場のちぐはぐさについても語っているが、それは音楽を介しての関係性が容易に変質することをあらわしている。そのライヴの映像はたしか以前に観たことがあるが、がさがさしていて楽しさがなく、全く感動しないライヴだった。この証言を聞くと、なるほどと納得できるのであるが、コアなファンにはすでに周知のことなのだと思う。

ただこの2人はどちらかといえば洋楽寄りなので、URCの中で主に洋楽をルーツとしたはっぴいえんどに共感するのだろうと思う。
それに対してURCで最もフォーク的であるのが、高石ともや、岡林信康、高田渡、加川良といった人たちであるとするのならば、そのテイストを引き継いだのが三上寛、なぎら健壱などになるのだろう。なぎら健壱の語っていることは、その当時の雰囲気を伝えていてとても面白い。アマチュアだったのがいつの間にかレコードを出せるようになったという経緯が、その頃の音楽状況の未分化さ、たくましさをあらわしている。
なぎらがURCを見つけたときのエピソードはこうである。

 いろいろ聞いているうちに、アングラ・レコード・クラブというのがあ
 ることを知ったわけですよ。詳しく聞いたところによると、1回につき2
 千円払えば、LP1枚とシングル盤2枚が来ると。しかも汚い商売で、逃
 げられないように5回分をまとめて払わなければならない。私は当時、
 高校生だから、5回分なんか払えるわけないんだよね。(p.140)

だが時代とともにフォークはポップス寄りになっていって、つまりアンダーグラウンドではなくなって、やがてニューミュージックへとつながっていくあたりのことを、なぎらは次のように語っている。

 負の部分で、吉田拓郎がキャーッと女の子たちに言われているのを観た
 瞬間に、フォークは終わったなと思いましたね。(p.147)

ミーハーな人気が悪いというよりも、複数の出演者がいるフェスで、お目当ての演奏が終わると帰ってしまうのが嫌だと、なぎらはいう。それはフォークというムーヴメントにおける運命共同体的な思想が崩れていってしまうことへの不快感・喪失感でもあったのだろう。
その後、URCはエレックに吸収されるかたちとなり、なぎらはワーナーに移ったが、エレックの社長たちから酒席に誘われて無理やりエレック (=URC) からアルバムを出すことにされそうになって、あわてて飲み代を返しに行ったという話に笑う。そしてその後、エレックはつぶれてしまったとのことだが、それは音楽が大きなビジネスに変容して行くきっかけだったとも言える。

なぎらはその後のフォーライフに関しても否定的だ。「それがフォークの崩壊の始まり」 だと言い、フォークに存在していた反骨精神や反戦といった思想性が要らなくなってしまったと言う。「ニュー・ミュージックはフォークの延長にあるにせよ、URCが持っていた気骨が完全に潰されていくのはそこですね」 (p.149)

こうしたフォロワーの人たちの証言から遡って本の冒頭を読むと、小倉エージの 「URCレコードの歴史」 という解説があるが、URCは発売禁止されたレコードを自主制作盤で出してしまおう、というのが元々の動機だったようだ。会員を募集して配布するという旨の会員募集の広告画像が掲載されているが、なぎらが言っていたように会費は 「年額10,000円」 とあり、しかも 「50回分割も可」 となっている。その頃の1万円はかなり高額だったのだろうが、でも50回分割って……。


URCレコード読本 (シンコーミュージック)
URCレコード読本




はっぴいえんど/夏なんです
https://www.youtube.com/watch?v=DpnSNRvG6rw

はっぴいえんど/あやか市の動物園
https://www.youtube.com/watch?v=OC5k3zAWpq0

はっぴいえんど/十二月の雨の日
https://www.youtube.com/watch?v=g0ItJou8HVM
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きよたん

はっぴいえんど フォーク全盛時代に高校だった
私たちに人気でした。垢抜けた感じで。
今でも全然古くない
加川良 高田渡 大好き 吉田拓郎も良かったけど
結婚しようよはちょっと違った感じがした。
懐かしいな
by きよたん (2020-09-05 07:58) 

末尾ルコ(アルベール)

幼い頃、「フォークに行くか・ロックに行くか」まだ分からない時期があったのですが、ラジオの洋楽番組が決定的インパクトを持ちまして、洋楽ロックどっぷりとなりました。
それ以前は中島みゆきや因幡晃などを、あくまでこれもラジオ中心でしかなかったですが、聴いていて、いまだ難曲か歌えるくらいです。
小学高学年以降は、周囲は特に井上陽水を聴いているのが多かったです。でもなぜかツッパリ的な生徒が聴いておりました。ツッパリ度のさらに強度な生徒たちはキャロルなど聴いておりましたです。
中学時代、体育館でキャロルを聴いていたツッパリ女生徒に「そんなのはロックじゃない!」とばかりにピンク・フロイドやツェッペリンを聴かせようとして失敗した黒歴史も(笑)。
吉田拓郎も人気ありました。しかしわたしの中にはいつしか、日本のフォークは湿っぽい、説明的、敗北主義的などのイメージができてしまいまして、どちらかと言えば軽視する期間が長かったです。
はっぴいえんどは高校時代、ロックだけでなく(クラシック、ジャズ以外の)音楽全般について詳しい年上の友人に薦められて初めて聴きました。その時のことをしっかり覚えているくらい印象は強かったのですが、もう一つ馴染めなかったですね、その時は。愛聴するには至りませんでした。

> お目当ての演奏が終わると帰ってしまうのが嫌だ

なぎら健壱がそんな骨のあることを言ってるんですね。この人、よく分からなかったのですが、とても興味が湧いてきました。
欧米とみだりに比較するつもりはないですが、どうしても日本のフェスって、観客が同じアクション、同じコールし続けるという、「自由」という雰囲気には程遠いなあとどうしても思っちゃいます。

実はフォークについては、坂崎幸之助とももクロ(玉井詩織)がやっている『フォーク村』を愉しむようになってからとても興味を持つようになっていて、今回のお記事もすごく興味深かったです、なにせ知らないことばかりで(笑)。

・・・

ビ・バップやモダンジャスなどのお話、ありがとうございました。
わたしおそらくビ・バップに関してはかなり見当はずれの認識を持ってました。モダンジャズに関しても、実に大雑把なイメージで捉えてました。
今後あらためて自分でもいろいろ調べつつ聴き、愉しんでいく大きな機会を与えていただきました。

> 当時は古いものも新しいものもゴッチャになっていて共存

新たな、そして重要なものが生まれ台頭してきつつありながら、それが何を意味しているか分からないというエキサイティングな状況だったわけですね。
どのようなジャンルにもそうした時期があると思いますが、同時代だと見えない、理解されないことが多いのでしょうし、後の時代でも必ずしも理解されるわけでもないという。
もちろん、「廃れた」と見做されていたものが大きく再評価されることも日常茶飯ですし、lequiche様がいつもおっしゃっているように、「自分の感覚を信じる」という境地を目標にわたしも歩んでいきたいとあらためて思いました。
最近とみに思いますのは、少なくとも真っ当な作品や表現者に対してはしっかりと受け取り、微力ながらもいろいろな形で応援していきたいということです。
もちろん多方面に目配りするのは実質不可能ですが、できる限り「素晴らしいもの」を見逃したくない。
どうでなければ今の日本、メディアによって文化芸術について捻じ曲げられた歴史が当然のように作られていくでしょうから。

> 情動的な部分がありません。芸術的な喜怒哀楽が無いのです。

機能美・・・とは少し違うのでしょうか。
情動的な部分は芸術表現にとって大切なものの一つではありますが、昨今の日本は次元の低い情動が浸透しておりまして、それだけに喜怒哀楽の無い表現により興味があります。

出来不出来というのは誰がどう判断するかなのですが、
客が少ないほど冴え渡る演奏をするミュージシャンとか、
リスナーからの評価に対して不利な性格の人は確かにいますね。

> 確かな目 (いや、耳ですね)

そうした目(耳)を持った人たちが芸術を救い、育てていくのですね。
そう言えば、lequiche様が常日頃やっておられる「いい本を(意識的に)買う」という行為も素晴らしいですね。
つい古本屋や図書館に依存してしまうわたしはできるだけ見習いたい行いの一つです。

> すべてが無から始まるインプロヴィゼーション

そういうのはある種の「神話」としてお話が広まっている場合もあるでしょうね。
文学で言えば、ランボーやマラルメの「完璧」はどれほど完璧なのかとか。
かつて村上龍はランボーの詩について、「まったく異なる星から来た生命体でもその完璧な言葉の配置の美しさを理解できる」と評しておりましたが、これは大仰な評価なのか、それともそんな奇跡が可能だったからこそのランボーなのか。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-09-05 15:51) 

lequiche

>> きよたん様

そうなんですか。
はっぴいえんどの垢抜けた感じというのは
その頃から特異だったんですね。
高田渡は私はタモリ倶楽部に出ているのを見た程度で
その歌って知らないんです。
これから聴いてみたいと思います。
by lequiche (2020-09-07 01:44) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

中島みゆきや因幡晃。なるほど。
中島みゆきは少しわかりますが、因幡晃は知らないです。
といっても中島みゆきの曲は
地上の星と悪女っきり知りませんが。(笑)
キャロルが好きな子にフロイドやツェッペリンは
無理過ぎますよね。ザ・クラッシュくらいでしょうか。
たいして違わないかもしれないですが。

フォークというのは私はよく知らなかったんです。
わからないというよりそもそも聴いていなかったというか。
神田川とかなごり雪みたいな曲はジャンル的に
歌謡曲としてとらえていたという面もあります。
後から知識として聴いたことはありますが。

はっぴいえんどは、冒頭のかくれんぼという曲が
ちょっとダルいなという印象があって、
真面目に何度も聴いたのはかなり後になってからです。
それで、ああすごいな、と遅まきながらわかりました。

なぎら健壱は飄々としたキャラですが
芯のある人だと思います。見た目のユルさは韜晦です。
といっても、なぎら健壱もタモリ倶楽部で知ったのですが。

お目当てが終わると帰ってしまうというのは、
山下洋輔が同様のことを書いていました。
ジャズフェスでオスカー・ピーターソンが終わると
皆帰ってしまって、残り少ない観客で
最後に出てきたセシル・テイラーを聴いたということでした。
そういうのはどこにでもあるみたいです。
でもたとえば雑誌を読むときだって好きな部分しか読まない
というのが普通なのですから、仕方がないかなとも思います。

これは音楽に限らずそうですが、
どんな時代にも同じ時点では種々のものが並存していて、
後年になってみると異様な状態に映るのかもしれませんが、
そのときはそんなに変だとは誰も思わないのではないか
というふうに感じます。
そして簡単に劣化してしまうものと劣化しにくいものがあって、
それもそのときはわかりにくいのです。
この前、YouTubeで10年前のベストヒットを観ていたのですが、
ああ知っているという曲ばかりではなくて、
こんな曲あったの? というのが必ずあります。
それは劣化してしまった曲ですね。
別のたとえでいうと合成皮革と天然皮革がそうです。
最近の技術向上はめざましくて本革同様の合皮はあります。
でも年月が経っていくとだんだんと違いが出てきます。
合成皮革は経年変化で化学反応を起こして劣化します。
それと同じで、時間が経たないとわかりにくいのです。

パーカーのインプロヴィゼーションは機能美というのとは
少し違うと思います。
ビ・バップは音楽理論的に見れば理論の拡張であって、
イレギュラーを多く作っていくことです。
イレギュラーがない状態であればそれは整然としていますが
つまらないからです。
これはバロック音楽についてもいえますが、
がんじからめの対位法という規則の中で
いかに破調を作っていくかということだと私は思います。
バロック以前のルネッサンス期の単純素朴と較べると
バロックは非常にいびつです。
それゆえバロック (歪んだ真珠) というのですが。
ビ・バップとバロックは音楽としては最も抽象的です。
すごく平たくいうと 「愛とか恋とか言わない」 のです。
ここが形容矛盾のように見えるかもしれないのですが、
なにも具体性がないために、情動的でないために、
喜怒哀楽が表面に出てこないために、
結果として機能美なのか、というとそれは違うのです。
抽象性の中に何を感じ取れるか、です。
これは抽象画の鑑賞のしかたに似ています。

これは私の勝手な自己満足なのですが、
私が記事でとりあげている本やCDはほとんど全て
自分で買って確かめてから書いています。
もらったり借りたりしたものではダメだと思うのです。
もちろん、かなりの量の失敗もありますが、
それは仕方がないです。

ランボーやマラルメがどの程度完璧なのかというのは
それに見合う言語感覚がないのでわかりません。
単純にフランス語について知らないこともありますが、
詩語は、より特殊なのでわからないということです。
ただ、たとえば音韻的に美しいかどうかを
感じとることはできます。
ブルトンのシュルレアリスム宣言の冒頭は
フランス語のその音だけで見ると美しいです。
日本語には移しきれません。
by lequiche (2020-09-07 01:44) 

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