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『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』を読む [本]

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DU BOOKSから出版された『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』を読んでみたのだが、さすがにマニアックなディスクユニオン、私はあまりに何も知らなくて書くことがない。この本はさすがにパスしてしまおうとも思ったのだが、一応 「読みました」 という証しとして、さらっと書いておくことにする。
ニューエイジ・ミュージックとはヒーリングとかアンビエントなどに代表されるような、いわゆる 「癒し系」 な音楽の総称ととらえることもできるが、それはジャンル分けをどこまで細分化するかによっても解釈が異なるし、といって大雑把にとらえるとワールド・ミュージックもイージー・リスニングも皆この中に入ってしまうような曖昧な音楽といってよい。それは日本におけるニューミュージックというジャンルがかなり曖昧なのと同様である。
ただ、wikiには 「ニューエイジ・ミュージック (New-age music) とは、1960年代のヒッピー・カルチャーにルーツを持ち」 とあって、このヒッピー・カルチャーという捉え方は重要なのではないかと思える。つまり癒し系は癒し系なのだが、そのルーツを辿るのならばむしろサイケデリックの変形であるとする意見もあるようだ。

冒頭のまえがきにはこうした音楽に関して 「長きに渡って見過ごされ、あるいは虐げられてさえもいた 「ニューエイジ・ミュージック」 「ヒーリング・ミュージック」 と呼ばれる音楽たち」 と形容されていて、それが今、復権されつつあるというように書かれている (p.II)。その復権度がどのくらいなのかはわからないが、たとえば昨今のアナログレコードの復権というような言い方にそれは似ている。ブックオフのCD棚で一時はゴミ扱いされていたようなニューエイジ・ミュージックが、そうでもないかも、と掘り起こされたという面があるらしいのである。すべて伝聞推定で書いてしまうのは、その実感が私には無いので、でもそれは別としてこうした視点は面白いのかもしれないと思うのである。もっとも、ニューエイジ・ミュージックというジャンルがある程度確立してきたのは1980年代以降ということで、それは日本におけるバブル景気の上昇とリンクしていて、その頃の闇雲なヴァイタリティで、言葉は悪いがミソもクソもどんな音楽でもまとめて出してしまえたという時代背景があったような気もする。今だったらとても通らない企画がどんどん通ってしまったというのがバブル期の積極的で陽気な一面なのだと考えられる。

というのは、この本のリストの最後のほうに 「アニメ・サントラ/イメージ・アルバム」 という項目があって、そこに少女マンガを元にしたイメージ・アルバムが幾つも掲載されているのである (p.184)。〈日出処の天子〉〈ファラオの墓〉〈百億の昼と千億の夜〉〈吉祥天女〉〈夢の碑〉〈イティハーサ〉といった諸作品であるが、これらはシビアに言ってしまえばそのタイトルを冠したジャケット画だけがそのマンガ家の描いた絵、つまり担当であり、中身の音楽についてはほとんどそれとは関係のないミュージシャンが作っているのだろうと思われる。といっても例えば〈吉祥天女〉の曲を書いているのは久石譲で、イメージ・アルバムという名の下に結構自由にやらせてもらいました、というような内容なのではないかと思うのだが、聴いてはいないのでなんともいえない。制作年代は1982年から1988年頃までに限られていて、その最後のほうに〈オネアミスの翼〉がリストアップされている。
つまり日本におけるその時期は喧騒を連想させる時代背景だったのかもしれないが、それと相反する癒しを求めている需要があったのかもしれない。それは1988年にエンヤの《Watermark》、そしてデッド・カン・ダンスの《The Serpent’s Egg》といったアルバムがリリースされていることからもわかる。たぶんそれがその頃の世界的傾向だったのだ。

最初のセクションにある細野晴臣へのインタヴューがニューエイジ・ミュージック理解のためのヒントとなっているように思う。細野晴臣は音楽の多岐なジャンルへのアプローチがあるが、そのアンビエント期とでもいわれているような時があったそうなので、でもその頃の彼の音楽について私は何も知らない。ただ、アニメ映画のサントラとして杉井ギサブロー監督《銀河鉄道の夜》(1985) があり、そのあたりから敷衍して細野のインストゥルメンタル曲へ分け入って行くのもひとつの方法論だと考えられる。

細野晴臣がアンビエント系の音楽に興味を持ったのは横尾忠則とのコラボレーションによる《コチンの月》(1978) あたりからのようだ。YMOの活動期は1978年から1983年、それと並行してこうした音楽にも触手を伸ばしていた。

 そもそも80年代というまだロックの時代に、最初は横尾さんからブライ
 アン・イーノのオブスキュア・レーベルを紹介されて、そこのシリーズ
 を全部聞いて、ギャヴァン・ブライアーズが好きだったりとか、ハロル
 ド・バッドがよかったりとか。もちろんイーノの 「アンビエント」 シリ
 ーズも聴いて、これは帰って部屋で聴くものだと思って。スタジオでは
 テクノをやり続け、うちへ帰ってきてからそれをずっと流していた。ま
 ぁ癒されたっていうかな。(p.VI)

アンビエントな音楽は《花に水》(1984) を経て《コインシデンタル・ミュージック》(1985)、《エンドレス・トーキング》(1985) といった作品に結実してゆく。これらはYMO後であるが、ポップさと静謐さといった振れ幅が面白い。
しかしこのインタヴューは今年、2020年はじめに行われたため、コロナ禍に関する発言があるのだがそこに細野の鋭い指摘を感じる。

 今は物凄い変化が激しい時期で、特にコロナウイルスのせいでグローパ
 リズムが崩壊しつつある。数年前まではそういうグローバルな音楽を聴
 いていいなって思っていたけれど、自分がそっちに行くかどうかはすご
 く迷っていた。(p.IX)

そして現在の音楽シーンへの言及。これが手厳しい。

 今は音楽の良し悪しなんか問われないですよ。音のよさとそれを並べて
 くデザインだけっていうか、あとは声の力っていうかな。それだけでで
 きているんで。これから先そういうシステムはどこへ向かっていくんだ
 ろうってね。ところが今、すごい風が吹いているわけだ。今その真った
 だ中だから先がどうなるかわからないけれど何かが変わっていく最中な
 んだろうって思うね。(同)

「音を並べるデザイン」 という表現が辛辣だ。音楽制作の基本構造がマスプロダクション化されつつあり、それはかつて産業ロックなどと揶揄されていたはずの方法論の繰り返しに過ぎず、音楽自体を存立させている初期情動がなくてもシステマティックに生産されてしまう危険性があるという意味にもとれる。この 「すごい風」 がどのように影響を与えるのかはわからないと言いつつ、その変化が必ずしも良い方向に行くとは思えないというペシミスティックな予感をも内包している。
グローバリゼーションなどという言葉は西欧中心主義的意識を覆い隠すための隠れ蓑であり、私は以前からそれが欺瞞のポーズであることを指摘していたが、このように発言力のある人からそう言ってもらえると溜飲が下がる思いである。
そしてこのインタヴューの後、状況はさらに悪化し、今年のコンサート等の企てはボロボロになってしまったわけだが、さらにこの先がどうなるかはわからないというのが細野が言うように正直なところだろう。ただ、イヴェントとかコンサートというものを経済的にとらえてみた場合、その音楽性よりもグッズの売り上げに左右されるような本末転倒な意識があるということも聞いたことがあるが、音楽とは何かということをこの際あらためて確認してみる必要がある。

尾島由郎とスペンサー・ドランとの対談の中で、ドランはニューエイジ・ミュージックに関する非常に示唆に富んだ発言をしている。ニューエイジ・ミュージックは音楽がアートではないという前提のもとにあって、それはパーソナルなムードを統制する道具、あるいは感情をマネージメントする効用ツールとして作用している。そしてSportifyなどのサブスクリプション・サーヴィスにおいてはそれぞれの音楽の意図やコンテクストは不要であり、音楽はプレイリストという実用性だけで消費されてしまう。これはアートとしての鑑賞としては真逆であり、こうしたネガティヴな側面によって実際のサウンドは見過ごされてきた面があるというのである。(p.XIII)
これに対して尾島は、ニューエイジ・ミュージックがウィンダム・ヒルに代表される癒しの音楽、つまり心理的・経済的に傷を負った心に、安らぎや元気を与える音楽としてマーケティングされ、音楽にそれほど明るくない人たちをそのマーケットの対象として広がっていたと分析する。その結果として、芸術的に高いものではないという見方が生まれたのだとするのである。
ドランはシュトックハウゼンのグローバル・ヴィレッジへの批判を述べ、作曲家コーネリアス・カーデューはこうした方向性はヨーロッパ主義的な考え方であり、シュトックハウゼンについても 「シュトックハウゼンのようなセールスマンたち……」 と言っていたことを指摘している。ここに出現しているのもグローバリゼーションという 「巨大な存在の脅威」 である。(p.XVI)
ドランは2017年の彼の作品《Lex》について、ニューエイジ的な思想性やサイケデリック的なビジュアルの側面もあるが、直接それらとは関係がないと断言する。そして、

 『Lex』のコンセプトは文学上のスペキュレイティブ・フィクションに
 近くて、理論的な近未来の世界を使って、今現在の私たちの現実世界の
 陥穽を考察して、同時にそこからポスト・ヒューマン的な状況を描くこ
 とにありました。(同)

と語っている。

ニューエイジのそもそもの歴史は18世紀末のアメリカ独立戦争の頃に、フリーメイソンや薔薇十字団といったいわゆる秘密結社内で囁かれていた言葉であって、それが神智学協会につながっていくというような歴史的な変遷を説明してくれる持田保の解説は素晴らしいが、それがずっと時代を経るごとに風化して、日本に入ってくる頃にはそうした神秘学・宗教学的な装いがすべて抜け落ちてしまっていることは、外国からの文化の受容の際における日本の得意技であるように思う。
そしてニューエイジに関する持田の定義は次のようである。

 ニューエイジの思想が霊性進化論やグノーシス思想より発生したもので
 ある事実を踏まえた上で、ニューエイジ・ミュージックというものを考
 えると 「秘教的な叡智や霊性へのアクセスのための音楽」 と定義される。
 この意味においてニューエイジ・ミュージックとは (ブライアン・イー
 ノが述べているように) アンビエント・ミュージックとは区別されるべ
 きであり、むしろサイケデリック・ミュージックに近しいといえよう。
 (p.XIII)

とこのへんまで書いてきて息が切れてしまった。興味のあるかたは本をご購入ください。
全体がマニアックではあるが非常に緻密に内容をとらえており、リストとしての役目も抜群。その解説文のフォントサイズは非常に小さくて、本の厚さのわりには内容が詰まっていて濃い。そして印刷も非常に美しい。
個人的には今まであまりよく知らなかった細野晴臣のアンビエントな作品に対する興味が湧いてきたというのが収穫である。

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Visible Cloaks/Lex


ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド (DU BOOKS)
ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド (環境音楽、アンビエント、バレアリック、テン年代のアンダーグラウンド、ニューエイジ音楽のルーツまで、今聴きたい音盤600選)




KANKYO ONGAKU (LIGHT)
KANKYO ONGAKU: JAPANES




細野晴臣/MEDICINE COMPILATION (SMD)
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Iasos/Excerpts from INTER-DIMENSIONAL MUSIC
https://www.youtube.com/watch?v=Pk3PcedxMrE

細野晴臣/Endless Talking
https://www.youtube.com/watch?v=R42lGlBqrCA

Visible Cloaks/Lex
https://www.youtube.com/watch?v=8uhA_LmXaOM
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末尾ルコ(アルベール)

かつて「癒しブーム」という奇態な雰囲気が日本にありまして、メディアを中心に誰もが「癒し、癒し」と言ってたわけですが、そうなるとわたしはその中の一人にはなりたくなくて、敢えて「癒し」という言葉や「癒される~」というフレーズなどは使わないようにしていました。
とは言えわたし自身、「何かに癒される」という状態は当然あるのでして、ブライアン・イーノのアンビエントシリーズを知り、聴き始めていたのは10代の頃だったかと思いますが、あの水のような音の世界に癒されたのは間違いありません。
しかしイーノのアンビエントに関しては、「癒された」という以前に、(こんな音楽のスタイルもあり得るんだ)というエキサイトメントの方が先にあったです。
そうですね、書きながら思いついたのですが、わたしの場合はエキサイトメントを含有している表現に癒される、そんな傾向があるようです。
坂本龍一やパブリック・イメージ・リミテッドの作る静かな曲にも癒された時期がありますが、それらも間違いなくエキサイトメントが含まれていました。

「ニューエイジミュージック」という言葉は確かに以前よく目にしていた記憶があります。でも当時はそのジャンルらしきものにさほど興味は持ってなかったです。

> 今は音楽の良し悪しなんか問われないですよ。

これは世界的な傾向でしょうか。特に日本ではこの傾向が強い感があります。
音楽にしろ、他のジャンルにしろ、「良し悪し」を吟味する人たちは一定数いるとは思いますが、何しろメディアが酷くなっている印象です。とりわけネットでは、音楽を始め文化芸術のジャンル、特に「芸能」の範疇に入れられがちな分野に関するとてつもなく酷い文章が罷り通っていて、そうした文章を真に受ける人たちも多く存在していて、どんどん劣化が進んでいるのではと思ってます。メディアの文章を見ていると、「商売のために仕方なくくだらないものを書く」だけでなく、「本当に分かってないのだろうな」という内容が増えている感があります。

グノーシス主義やそこから派生したフランスのカタリ派に対しては常に大きな教務を持ち続けています。そしてブラバツキー本人の著作にはあまり触れたことはないのですが、神智学から派生したシュタイナーの人智学関連の著作は多く読みました。
グノーシスやシュタイナーの思想を「100%信じている」とか(何に対しても狂信は大嫌いですし)、そういうことではもちろんありませんが、その中のエッセンスの部分には強く共感しています。

わたしは坂本龍一のソロ活動はかなりフォローしていますが、案外細野晴臣は聴いてませんでした。今後いろいろ聴いてみますね。

・・・

一昨日フランコ・ゼッフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』を久々に観たのですが、作品中仮面舞踏会のシーンで歌手が歌唱するんです。歌はニーノ・ロータの作った有名なテーマ曲で当時のものではなかったのですが、(ああ、かつてはこんな風に歌を愉しんでいたのか)という雰囲気は伝わってきました。その中で「歌詞」というものがどのように発展して来たのか。「反体制」的な言葉は昔から歌われて来たのだろうか・・・などと想いを馳せました。ただ現代は歌の世界に巨大ビジネスが関わってますので、そうしたビジネス以前の「歌」により興味ができています。

この前深夜(早朝? 笑)に2~3時間ほどチャーリー・パーカーをつけっ放しで仕事などをしました。ビ・バップを体に染み込ませようという心掛け(笑)からの行いです。
まあそのくらいでわたしが感得できるわけもないですが、ビ・バップ以前からジャズを聴いていた人たちにとっては衝撃だったのでしょうね。その点は現在から遡って聴くのとは大きく違うのだろうと思いました。
そしてGeorge Wallington/In Salahも聴かせていただきました。
ほんの少しだけ、ビ・バップとハード・バップの差異に触れることができた気がしております。
今後も精進を心掛けます(笑)。       RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-09-14 04:18) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

最初に聴いたイーノは《Thursday Afternoon》(1985) でした。
といってもリアルタイムで聴いたわけではなく、
かなり後になってからでしたし、
正直に言ってしまうとあまりピンと来なかったです。
85年だと細野晴臣は《エンドレス・トーキング》で
坂本龍一は《エスペラント》ですが、
今の時点で同時代の作品を比較してみると
あらためてそういうことなのか、というふうに感じます。

「癒し」 という言葉から連想するのは、
アロマとか足湯とかそんなイメージばかりで
私の場合、音楽とは結びつきません。
環境音楽というのは平たくいえばBGMであって
歯科の治療室で薄くかかっている音楽みたいなものを連想します。
この本はテーマのとりあげかたとしては面白いのですが、
実際にはごくイージーに作られたものだって
混じっているのだと思います。
シンセサイザーなどの機器が発達するにつれて、
シロートでもそれっぽい音を作ろうと思えばできてしまうし、
アルペジエイターを使えば自分がすごく上手く弾けるような
錯覚に陥ってしまうかもしれないです。
つまり一種のオートマティスムの変形と考えてもよいので、
極端にいえばシンセ1台あればアンビエントは誰でも作れる
と言ってしまっても過言ではありません。
そうした中からイージーに作られたものかそうでないかを
判断するのはむずかしいです。
こうした状況は音楽の無名化という方向性にも加担していて、
では果たして音楽とは無名のほうが良いのか、
それとも署名があるべきなのかという問題に通じます。

細野晴臣の《銀河鉄道の夜》はいつの間にか
CD2枚組になっているので書い直したのですが、
単にアニメのサントラというだけではなくて
それ以上の内容を持っているように感じます。
彼のベースとする音楽の範囲はかなり広いので
つかみどころがないという印象も受けます。

メディアの批評レヴェルが衰えているのは、
やはり商業的意欲が優先していることが多いですが、
インターネットが普及して誰でも発言できるシステムが
こうしたブログも含めてあまた存在しますから
結果として全体のレヴェルは落ちてしまいます。
アマゾンとか読書メーターのシロート批評は
参考にはなりますがそれ以上のものではないことを
知るべきなのですが。

フランコ・ゼフィレッリは、
まずヴィスコンティの映画美術で知られますが、
ミラノ・スカラ座の演出は素晴らしかったと思います。
彼自身の映画作品でもその美意識は一貫していますね。

パーカーのイディオムを一番吸収したのは
ソニー・スティットですが、彼のソロのほうが流麗で
パーカーはやや泥臭く感じてしまいます。
矢野沙織のほうがパーカーよりスピードが速かったりします。
でもそれは元があるゆえのパラフレーズなのです。
パーカーが誰に影響を受けたのか、といろいろ名前があがりますが、
それは単純に演奏方法のテクニックを伝授されただけで
音楽自体の元のようなものは存在しません。
パーカーと、そしてタンゴのアストル・ピアソラは
彼ら自身によって編み出された音楽なので、その元が無いのです。
と思うのですが、これはあくまで私の意見です。

ハードバップはバップの発展形で
より聴きやすく、よりエンターテインメントになっている
という解釈が妥当だと思います。
スタイリッシュな外観を持っていますが、
完全にモダン・ジャズにまで達していないため
その分、まだプリミティヴです。
プリミティヴという言葉は適切でないかもしれませんが。
ですから懐かしさのような感覚が存在するのでしょうね。
by lequiche (2020-09-17 05:51) 

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