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原雅明『音楽から解き放たれるために』を読む・2 [本]

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Miles Davis (1986) (RollingStone 2019.07.25より)

(原雅明『音楽から解き放たれるために』を読む・1のつづき)

現代音楽の分析のひとつとして、まだ読みかけなのであるが、柿沼敏江の『〈無調〉の誕生』という本がある。現代音楽とフリージャズは結果として出てくる音が同じようなこともあるが、その方法論はかなり異なると思われる。だが、それを考慮しても、この本はアヴァンギャルドな音楽を考える時、示唆に富んだ内容である。
柿沼は西洋伝統音楽 (という表記は小泉文夫的であるが、あえて使うことにする) の基盤には機能和声法、さらに言えばドミナント進行があり、それは古典派からロマン派の時期には堅固な土台であったが、次第にそれは崩れ衰退していったと分析するのである。そして逆にいえばドミナント進行が盤石であったのはたかだか200〜250年くらいで、そんなに永続的な語法ではない、と言い切るのである。
もちろんポピュラー・ミュージックにおいてはドミナント進行はずっと健在であり、それはダンス音楽から敷衍されたエンターテインメント性を確立させるためにほかならない。ドミナント進行のような伝統的方法論は衰退していったとみることもできるが、ドミナント進行への求心性が弱まったのでなく、コード・プログレッションを拡大解釈するようになったと考えることもできる。

この本は無調 (atonal, atonality) という概念についてさまざまな角度からの分析があって大変面白いのだが、その例のひとつとして無調、というより12音技法というくくり方で思い出される典型的な作曲家としてアルノルト・シェーンベルクがいる。そのシェーンベルクの《三つのピアノ曲》op.11-1 (1909) に対しての分析で、この曲は調性がないと言われながら、実は調性的であるとする意見が列記されている。
ウィル・オグドンは 「揺れ動く和音 roving harmony」 「彷徨う和音 vagrant harmony」 という概念を提示し、それによって調性が曖昧になり、調性感が緩められてはいるものの基本的には伝統的な調性による動きだとして、提示部・ト長調→展開部・変ホ長調→再現部・ト長調だとしている。
フーゴー・ライヒテントリットはト長調を主調とした楽曲だと言い、エドウィン・フォン・デア・ヌルは、この時期のシェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーは 「拡大された調性」 を用いているとし、《三つのピアノ曲》はホ長調とホ短調が合体した長短混合の調性であると分析する。
ラインホルト・ブリンクマンは、中心音のホと変ホの間で変動する 「揺れ動く調性」 だと言い、柴田南雄は、冒頭部分がホ音上のフリギアであると言う。
5人とも解釈はすべて違うが、調性的であると見ていることについては共通である (p.54〜55)。

つまり簡単に言ってしまえば、シェーンベルクは12音を均質なものとして扱う方法論を提唱したにもかかわらず、その作品には調性を感じさせる残滓が存在していたというのである。柿沼は次のように指摘している。

 一二音技法ははたして無調の組織化のための手法だと言えるのか、疑問
 が湧いてくる。無調の組織化というよりは、むしろ新しい調性をつくり
 出すための手法だったとさえ思えるのである。これらの音楽のテクスチ
 ュアはまた、調性感が曖昧になった時期に使われていた揺れ動く和音が
 つくり出すテクスチュアにも似ている。(〈無調〉の誕生 p.62)

そして、

 シェーンベルクは、おそらく伝統的な調性とは違うレベルで調性を考え
 ていたのだろう。それは音と音との関係性すべてを包み込むようなひじ
 ょうに広い概念であり、「一二音技法の調性」 という可能性すら包みこむ
 ものであった。(同 p.63)

このような分析の際に出てくるのが汎調性 (パン・トーナリティ) という概念である。無調 (アトーナリティ) に対するもののように認識され、武満徹の作品分析でもよく出てくる言葉であるが、実は対立する概念ではないというのがオーネット・コールマンに対するジョージ・ラッセルの評価であり、原雅昭がそれについて紹介している (尚、ジョージ・ラッセルとはリディアン・クロマティック・コンセプト Lydian Chromatic Concept を提唱したことで知られる人である)。

 「オーネットが作った曲のメロディとコードは、出発点ではすべての調
 性に基づいている。インプロヴァイザーはこのアプローチのおかげで解
 放され、いつまでに特定のコードに戻らなくてはならないという制約が
 取り除かれ、自分の好きなように演奏できるようになる」 (p.135)

そして、

 オーネットの試みたことは、調性の足枷を外すことではなく、むしろ
 「すべての調性に基づいている」 =汎調性の音楽の可能性を拡大したこ
 とにある。もちろん、それはまた限りなく無調性の世界へと導かれてい
 く可能性も秘めていた。しかし、オーネットは、まったくの無調性の、
 アナーキズムへと走るフリージャズには決して行き着かなかった。そこ
 にオーネットの音楽にある、ひとつの根拠を見いだすことができる。
 (p.135)

単なる言葉の 「あや」 なのかもしれないが、アトーナルとは無色であり禁欲的なものであるという印象なのに対し、パントーナルは何でもありな色彩豊かな世界というようにイメージしてしまう。

 コードでいっぱいに満たされた音楽に対して、オーネットが試みたこと
 は、リズム・パターンを全面に押し出すことだった。リード楽器よりも、
 ドラムやベースを自由に演奏させた。その上で、基本的にワン・ノート
 でも構わないと言わんばかりに、着地点を定めようとしない、とらえど
 ころのないソロ・ワークが乗ってくる。(p.136)

という形容は、マイルスが自分の究極のクインテットで組み上げられた音楽を 「厚ぼったくなってしまった」 (p.120) と感じてしまったことに通じる。
だがその結果として 「フリージャズを嫌っていたマイルスが、70年代には、自ら混沌としたエレクトロニクスの世界に入り込み」 (p.117) リスナーを困惑させてしまった。対して 「フリージャズの先駆者たるオーネットは (中略) シャープで技巧的な響きを増していった」 (p.136) ことにより、ジャズ・ファンに受け入れられたのだ、と原雅昭は言う。2人のアプローチに対する 「ちぐはぐさ」 とでもいうべき見方が面白い。

「とらえどころのないソロ・ワーク」 という言い方はオーネット・コールマンのインプロヴァイズのイメージを的確にとらえているが、しかしマイルスはオーネットと違って、決してとらえどころのない吹き方はしなかった。その点がオーネットとマイルスの決定的な違いである。しかしながらエレクトリック期におけるマイルスのそうしたアプローチがその時点でどの程度リスナーに理解されていたのだろうかという疑問が残る。もっともこれはあくまで現時点から振り返った過去に対する批評であり結果論でしかないのだが、マイルスはそうしたエレクトリック化を推し進めておきながら、その自己の音楽としての総体にペシミスティックな印象を持っていたのではないか、と私は感じてしまうのである。

マイルスとオーネットが感じていたいわば危機感は同じ種類のものだったのかもしれないが、マイルスがエレクトリック化の果てに、アガルタ、パンゲアで燃え尽きてしまったように見えるのに対し、オーネットはある時期沈黙し、そして 「ヴァイオリンを手に復活する」 (p.140) のだが (これはクロイドンをさしていると思われる)、泡沫のように出現し消えていった一部のフリーに対して、オーネットは 「より構造的なアプローチをしてみせた」 (p.140) というのである。
だがマイルスは混沌のエレクトリックの果てに単純に燃え尽きてしまっただけなのであろうか。当時のライヴが明らかにされるにつれて感じるのは、特に初期のエレクトリック期において、ピアニスト (キーボーディスト) のアプローチが妙に古くさいことである。古くさいというより、伝統的なジャズのメソッドにおける一種のステロタイプな構造性に依存していて、それはまだ旧来のジャズのオーソドクスな方法論から彼らが抜け出せていなかったのではないかと思われる印象がある。
それに対してマイルスの音は、時が経てば経つほど、混沌とは程遠くて明晰である。その象徴として考えられるのが《In a Silent Way》であり、発表時に顰蹙をかっていたはずなのにそれが変化してきたというのは、つまりマイルスのコンセプトに対してリスナーがやっと追いついてきたということではないだろうか。混沌と感じてしまったのは当時のリスナーに理解力がなかったに過ぎないのだが、それは時代的に仕方のないことであったのである。

エレクトリック・マイルスは当時のエキセントリックなファッション性をとり入れて、いかにも最新の音楽をやっているように画策した面はある。派手で俗悪ともいえる衣裳。ハイヒールの靴。デコラティヴな楽器 (実はこうした仕掛けは後にプリンスが実行したことと同じだ)。だが、音だけを聴くと、コーラスという概念や厳密なコード・プログレッションがとり払われているだけで、音楽の本質はジャズである。決してロックやR&Bではない。マイルスは、「俺はロックをやる」 と言ったりしたがそれは韜晦であり、表面的にロックに似せていながらロックではない。しかしハービー・ハンコックの《Head Hunters》(1973) は、ほとんどジャズではない。つまり彼はジャズ畑の正統的ピアニストに見えて、とても器用だったと考えることができる。まさにカメレオンなのである。

2009年に書かれたこの本の時点において、全体的に感じられるのはCDというメディアの終焉というトーンである。その危惧はあまりに性急に過ぎたのか、それともそれから11年かけて事態はさらに進んでしまったのか、私には判断することができない。ひとつだけ言えることは、ヴァーチャルなものは所詮ヴァーチャルに過ぎないということである。無観客のネット・ライヴなどというものはPVの変形に過ぎない。したがって音楽の歴史の中に残らない泡沫としての立場を選びたいのならば、むしろ進んでそうしたヴァーチャルを選ぶべきである。


原 雅明/音楽から解き放たれるために (フィルムアート社)
音楽から解き放たれるために
 ──21世紀のサウンド・リサイクル




柿沼敏江/〈無調〉の誕生: ドミナントなき時代の音楽のゆくえ
(音楽之友社)
〈無調〉の誕生: ドミナントなき時代の音楽のゆくえ




Miles Davis Septet/Live in Tokyo 1973 (Hi Hat)
Live In Tokyo 1973




Miles Davis/Agharta (SMJ)
アガルタ




Maurizio Pollini/Schoenberg: The Piano Music (ポリドール)
シェーンベルク: ピアノ作品集




Maurizio Pollini/Schönberg: Drei Klavierstücke, Op. 11
https://www.youtube.com/watch?v=VeTFxbsVGrI

George Russell/The Stratus Seekers
https://www.youtube.com/watch?v=CB1ngOlvx7Q

Ornette Coleman/At the Golden Circle vol.1
https://www.youtube.com/watch?v=AkwrpJxJQ5s

Ornette Coleman/Broad Way Blues
https://www.youtube.com/watch?v=ue0XTgUx24o

Miles Davis/Agharta
https://www.youtube.com/watch?v=cWFu_Pj4Kxw

Herbie Hancock/Head Hunters
https://www.youtube.com/watch?v=3m3qOD-hhrQ

Herbie Hancock/Head hunters 1974 live
https://www.youtube.com/watch?v=GAlejqkd-gg
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末尾ルコ(アルベール)

現代音楽はクラシック音楽と地続きというイメージがありますが、確かに音はフリージャズと共通点が見られるものもありますね。
それとジャズはクラシック音楽とは違った意味で極めて高い演奏技術を必要とする音楽だというイメージもありますが、草創期の技術はどうだったのかも興味あります。
もちろん徐々に発達してきたのでしょうけれど。

かつて『週刊ゴング』というプロレス誌に、ジャズ評論家か何かよく分からない人がプロレスのコラムを書いていたんですが、よほどロックが嫌いなのか、しょっちゅうロックをディスるんです。例えば、「ストーンズのアルバムにすご腕のジャズプレイヤーが何人も参加していて、そこがロックの足腰の弱さなのだ」的なことを書いたり、「ジミヘンは凄いけれど、あそこまで行くとジャズだ」的なことを書いたり、ロックというジャンルに凄いものが存在することは絶対認めない頑なさがありました。
今となっては(なんだ、この人・・・)と笑えるけれど、当時はジャズについて知らなかったこともあり、(ひょっとしてそうなのか?)なんて不安になっておりましたよ(笑)。

今回お書きの音楽理論的な内容に現在のわたしは感想を述べるほどの音楽知識はもちろんありませんが、散りばめてくださっている数々の言葉を頼りに、自分なりに調べてみたいと思います。それぞれが言葉としても美しく、魔術のような響きを持っておりますね・・・と知らない者ならではの大雑把な印象を述べたりしておりますが(笑)、「揺れ動く和音 roving harmony」 「彷徨う和音 vagrant harmony」とか、素敵な言葉であり概念ですね。

ただ、エレクトリックを中心としたマイルスとオーネットの比較はある程度理解できる気がします。と言っても、マイルスやコルトレーンについては彼らの生涯も含めてある程度以上は知っておりますが、オーネットについてはいろいろ聴いてはいても、私の中では曖昧模糊とした存在であり続けているのですが(積極的に調べたことがない、ということが一番大きいのですが 笑)、彼についてもややその実像が朧気ながら感じさせていただけている気がしております。

> エキセントリックなファッション性

こういうのはジャズの人はあまりやらないですよね。その点でもマイルスは、音楽そのものはジャズにしても、ロックの大衆への訴求性を大いに意識していたのでしょうね。
意識し過ぎてはいけないけれど、まったく無頓着なのもどうかという気もしますし。ジャズを観ていて、もっとファッション性に気をつければと思うこともしばしばあります。

> 音楽の歴史の中に残らない泡沫としての立場を選びたいのならば、むしろ進んでそうしたヴァーチャルを選ぶべきである。

これは凄いお言葉ですね。音楽に限らず、このフレーズを浴びせたい対象は昨今多いです。

・・・

> プレスティッジの4部作だったりするのかもしれないです。

へえ~。ぜひ聴いてみたいと思います。
チェックしてみると、『バグス・グルーブ』などいくつかは聴いておりますが、多くは未聴です。
音楽に限らず、作品を鑑賞する際の、客観的・俯瞰的鑑賞法と偏愛的・個人史的鑑賞法・・・と取り敢えず呼んでみますが、このバランスに今とても興味を持っています。
どちらの鑑賞法も持ち、深めていきたいなあと。  RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-11-14 18:24) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

現代音楽について触れてみたのは
その当時のオーネット・コールマンが弦楽四重奏など
クラシック寄りのアプローチを見せたことが念頭にあります。
でもオーネットがクラシック音楽に対して
何らかのコンプレックスを持っていたかというと
そういうふうには聞こえません。
表現手段のひとつとしての方法と考えていたようです。
つまり彼の思考にはジャズよりクラシックが上とか、
ロックよりジャズが上とかいうようなヒエラルキーは
存在しないのです。

ジャズ理論はむずかしいように見えますが、
理論というのはつまり文法であって、
文法とは語法より後にできたものです。
同様にジャズもまず 「音ありき」 であって、
理論は後付けです。
文法でがんじからめにするのは真実を知らない人です。

ジャズ+プロレスの人はちょっと検索してみましたが、
たぶん小野好恵さんではないでしょうか。
ユリイカの編集をやっていた人ですが他界されています。
とりあえずジミヘンはジャズではないので、
単にウケ狙いで書いたのだと思いますが。

揺れ動く和音、彷徨う和音といった言葉は
単にその評論家が作った言葉に過ぎず汎用語ではありません。
概念としては面白いですが、一般的ではないです。
対してジョージ・ラッセルが提唱した
LCC (リディアン・クロマティック・コンセプト) は
トンデモ理論っぽいところもありますが、
ある程度の認知度があります。
オーネット・コールマンも自分の音楽を
ハーモロディックという名称で理論化しようとしていましたが、
実際にはよくわからず、一般的な理論とは言えないようです。

ただこれは私の漠然とした推測なのですが、
サックスという楽器は旋律のみを奏でる楽器で、
チャーリー・パーカー、オーネット・コールマン、
エリック・ドルフィーといった人たちは
それぞれ独特のパーソナルな旋律構造を持っていました。
それが具体的にどのようにして生成されたのかは
よくわからないのです。
これはサックス奏者独自の特質のように私は感じています。
トランペット奏者にはそれを感じないのです。

ファッションというのはその時代をあらわしますし、
同時にその思想性、その人の嗜好をあらわします。
ですから音楽のライヴも舞台芸術と考えるのならば
ある程度の外見 (かたち) は必要だと思います。
普段着のままで演奏するというのもありですが、
たとえばシロートバンドで会社帰りのスーツのままで
演奏するとかいうのはちょっとどうかな、
と思うのです。
それがそれなりの音楽だというのなら仕方がないですが。
衣裳も含めての音楽表現だと思うのです。

最後のフレーズは持って回ったいいかたで
ちょっと嫌味かもしれません。
ちょっと嫌味なので、わざとわかりにくい言い方で
書いてみたのです。(笑)

プレスティッジの4部作というのは1956年の、
俗にマラソン・セッションといわれるアルバム群で
Cookin’、Relaxin’、Steamin’、Workin’の4枚です。
レコード会社を移籍するにあたり、あと4枚作るという
プレスティッジ・レコードとの契約がまだ残っていて
それならさっさとやってしまえ、ということで
ごく短期間に演奏して、はいさようなら、したのです。
ところがこの4枚はそんなやっつけ仕事にもかかわらず
全部名盤なのです。
オーソドクスなジャズの基本です。
もっともこの後、CBSに移籍してからの
’Round About Midnightから始まるアルバム群も
ことごとく名盤なので、この時期が滅茶滅茶すごかった
と言ってしまえばその通りなのです。
by lequiche (2020-11-17 01:52) 

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