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筒井康隆『残像に口紅を』 [本]

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筒井康隆の『残像に口紅を』(1989) が売れているらしい。今時、30年以上前の作品がなぜ、と驚いたが、カズレーザーがTV番組で紹介したことが復活人気のもとなのだそうである。又吉直樹とかカズレーザーが 「これ、面白い」 というと売れてしまうというのは多分にミーハーな傾向なのだとは思うのだけれど、でも某新聞の書評欄で、本の帯のキャッチとあとがきだけ読めば書けるよなぁと思えてしまう書評があって、この評者、ホントに読んでから紹介記事書いてるのかって疑ってしまうような内容だった。そんなことはないと信じたいけれど、でもねぇ……。だったら又吉とかカズレーザーのほうが100倍信頼できると思う。

で、書店で『残像に口紅を』の文庫が山積みされていたので読んでみた。もちろん私はちゃんと読むのです。

内容はすでにあちこちで紹介されているとは思うのだが、簡単にいえば五十音のなかの一つの音、たとえば 「あ」 が使えなくなると 「あ」 を含む言葉も使えなくなり、そしてその物体は消えてしまうという、非常にシュールな設定なのだ (実際には単純な五十音だけでなくもう少し細かい設定がある)。
作家のテクニックとして考えれば、たとえば禁止音が 「あ」 だとしたら 「あ」 を使わないで文章を書かなければならない。実際にこの小説ではまず 「あ」 が消えるのだが、つまり〈「あ」 無し縛り〉でストーリーを作らなければならないのである。ひとつやふたつくらいの音ならなんとでもなるのだが、使えない音がだんだん増えて行くと次第に文章を書くことが困難になってくる。言い換えとか別の表現を探して書くわけだが、どんどん苦しまぎれが増えてくる。

読者として、最初のうちは、あれがない、これがない、というのを意識しながら読んでいるのだが、読み進むうちに禁止音が増えてくるとそんなのどうでもよくなってくる。というか逐一検証していられない。たぶん作家の苦しみが読者の喜びであって、へんてこな表現が増えるにつれ、こういうわけのわからない言葉って類語辞典で調べるのかなぁとか、いろいろと別のことを考えてしまう。結局こういうコンセプトは文章上における曲芸なのであって、筒井の友人である山下洋輔も、ピアノの特定の音だけを弾かないでアドリブするという 「縛り」 演奏のことを書いていたような記憶があるが、つまりそれは一種のdisciplineともいえるので、筒井の 「縛り」 と同様である。

筒井はこの小説をワープロを使って書いたとのことだが、1989年頃のワープロ (ワープロと言っているのだからおそらくワープロ専用機) がどの程度の性能だったかは不明だけれど検索機能などもまだ弱いはずだし、執筆にあたってはかなり苦労をされたのではないかと想像できる。
中公文庫の巻末に附属している泉麻子の 「筒井康隆『残像に口紅を』の音分布」 に拠れば、使用禁止文字を使ってしまっている違反箇所がいくつかあるとのことだが、まだPCが発展途上だった時代にそこまでの厳密性を求めるのは無理というものである。

それよりも重要なのは、使用文字が常に制約されているということへの興味ではなくて、そうした制限のかかった中で語られているぎくしゃくとしたストーリーへの興味である。
主人公の佐治勝夫は作家であるが、筒井本人を髣髴とさせる部分もあり、自伝として語られている箇所は、虚構でありながらなんとなく真実を描いているのではないかとも思えてしまう。このへんの微妙さが筒井テイストだ。
使用音がかなり制限されてからのほうがかえって真実が語れるのではないかという一種の逆説的手法で、自伝とか性的描写が語られる。わざとむずかしい言葉を使うのだが、それはそれ以外に逃げ道がないという制限を逆手にとって、わざと困難さを誇張しているようにも見られる。
ただ、さすがに笑える部分はほとんどなくて、あえていえば佐治勝夫には『夜走り少女』というジュヴナイル小説があるという箇所ぐらいだろうか。

筒井康隆に関しては新潮社の全集で、諸作をある程度は読んでいるが、私はそんなに熱心な読者ではない。全集以後の作品はほとんど読んでいなくて、もっとも『虚人たち』は読んだ記憶があるが、『残像に口紅を』もそれに似てアヴァンギャルドな手法で書かれている作品のひとつと位置づけられるだろう。アヴァンギャルドではあるが難解ではない。
自伝的な部分というのが気になってwikiを読んでみたらシュルレアリスムなどの文学的なものへの興味は当然として、演劇にかなり入れ込んでいたという事実を初めて知った。初期の長編『馬の首風雲録』(1967) は、つまりブレヒトの換骨奪胎なのであるが、私はまだブレヒトを知らないうちにこの作品を読んで、筒井の描く演劇的な抒情性を強く感じたことを覚えている。
2つの惑星というパースペクティヴや戦争という設定から連想したのはル=グィンの『所有せざる人々』(1974) であるが、もちろん『馬の首風雲録』のほうが早いから影響というのはありえない。とりあえずSFにおける重要な語彙として二重惑星とか連星というのは《スターウォーズ》でもわかるように魅力的な言葉であることは確かだ。

たとえばタイトルにしても『虚人たち』でも『あるいは酒でいっぱいの海』でも『朝のガスパール』でもすべて元ネタのあるパロディであるが、パロディとはあらかじめ元ネタを知っているからウケるという構造なのであって、説明されてわかったとしてもパロディとしての面白さはない。だからといって、では 「あるいは酒でいっぱいの海」 というネーミングが面白いのかというとそんなに面白くはなくて、つまり元ネタを凌駕していないその微妙なつまらなさというか、ハズれた感覚が筒井康隆テイストなのだとも言える。

といっていながら、この小説のタイトル『残像に口紅を』は秀逸でかなり心に残る。センチメンタルを拒否する作風でありながら、そこから滲み出すやや古風な抒情が垣間見えるとき、筒井康隆って馬の首の頃からの硬質なセンチメンタルをずっと持続している作家なのだ、とあらためて思うのだ。


筒井康隆/残像に口紅を 復刻版 (中央公論新社)
残像に口紅を 復刻版 (単行本)




筒井康隆/残像に口紅を (文庫/中央公論新社)
残像に口紅を (中公文庫)

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コメント 2

末尾ルコ(アルベール)

>本の帯のキャッチとあとがきだけ読めば書けるよなぁ

そんな書評があるんですか。ネットの映画や俳優たちに関する記事は明らかに「無知」なのが多くありますが、新聞はもう少し信頼性が高いのかなと思ってましたが、必ずしもそうではなくなってきているのですね。

筒井康隆は高校の頃に多くの著作を読んでまして、その後はあまり読んでないんです。部屋にはずっと前に買って未読の小説がいくつかあって、(読もうかな、どうしようかな)という状態でしたが、今回のお記事で読むことを後押ししていただけそうな気もしています。
ただ『残像に口紅を』に関しては、未読なだけでなく、タイトルも知りませんでした。なかなかに実験的な要素の強い作品なのですね。
筒井康隆については言うまでもなく、人気と才能が炸裂する作家というイメージで、様々な方法を、しかも商業ベースを保ちながら試みている凄い人という印象。たとえば「バブリング創世記」など、筒井康隆以外が書いても商業誌には掲載されないだろうなと、当時から凄いものだなと感心しておりました。
高校時代、他にも特に日本のSF作家はよく読んでいた時期でした。

・・・

>マイナーだけれどよいバンド

そういうバンドがロック、ポップスの世界を広げて来たのですね。山下達郎がとても詳しそうですね。そうした特にポピュラーミュージックの世界の圧倒的知識と理解の上に彼の音楽が存在すると思うと、またひとしお(しっかり聴かなくちゃ)という気持ちになります。

ウィリアム・アイリッシュはミステリランキング上位の常連でしたね。さすがに最近はやや「過去の名作」的になってきましたが。アガサ・クリスティがいまだ多くのランキングで高い評価を受けているのはやはり凄いです。
アイリッシュは、『幻の女』、『黒衣の花嫁』、『黒いカーテン』など読んでますが、『夜は千の目をもつ (Night Has a Thousand Eyes)』という作品も確かにありますね。
あらすじを読むと、ホラーテイストのサスペンスっぽい印象です。それにしても問う作品の映画化にあの素晴らしいナンバーが作られたとはおもしろいです。

>「アデュー、オリンピック」 はダントツで閲覧数が多かったので

心ある人たちも多くいらっしゃるということですね。最近でもオリンピックのスキャンダルは様々報道されてますが、まさに「やったもん勝ち」の世界で、既に行われた五輪自体をあらためてメディアが批判する様子は、なにせメジャーメディアのほとんどが後援してましたからほぼ皆無です。
あとわたし、「アスリートには罪がない」的なスポーツ選手美化がもうどうしようもなくダメになりました。       RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2022-09-04 08:26) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

書評については私がそう感じただけで違うかもしれません。
しかしそのように思わせてしまうような
中身をともなわない空疎な書評なのだとしたら
やはりそれはそれで問題なのだと思います。
ひとつでよいですから、本の内容にかかわるヒントが欲しいです。

筒井康隆はスラプスティックな書法で異彩を放っていましたが
次第にそれだけでは飽きたらず、テクニックで書いていた
という時代もあるように思います。
『虚人たち』も『残像に口紅を』も筒井康隆だから
出版できる内容なので、普通は無理でしょうね。
つまり 「どうだ、こんなこともできるんだぞ。すごいだろう」
というのが『残像に口紅を』を書いた動機なのです。
でもそれでいて、どの作品にも筒井テイストが感じられます。
つまり一瞬、声を聴いただけで忌野清志郎とわかるように
筒井康隆にもすぐにわかる文章の香りがあります。
そしてそれは初期の頃からずっと持続していて
そんなに変わらないのだということを改めて知りました。

山下達郎はポピュラーミュージックに関して
たしかに該博な知識を持っていますし
非常に大量のメディアも所有しているとのことですが、
それをいかにして有効に利用しているかという点において
今の地位があるのだと思います。

ウィリアム・アイリッシュに関しては私はよく知りません。
ルコさんは大変よくご存知なのですね。
映画に関しても同様によくわからないのですが
小説や映画の裾野の広さに驚くばかりです。
スタンダードという音楽の捉え方は20世紀のもので
あらたなスタンダードナンバーが出現する可能性は
低くなりつつあります。

澱ンピックの役目はすでに終わったようです。
それよりどんどん腐敗して行くこの国はどうなるのでしょうか。
冷静に考えると暗い未来きり思い浮かびません。
by lequiche (2022-09-05 04:56)