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リチャード・パワーズ『オルフェオ』を読む ― prélude [本]

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Richard Powers

リチャード・パワーズの『オルフェオ』(Orfeo, 2014) は読了してからもう一度最初に戻ると、ああここに書いてあったのか、というように推理小説の伏線風な構造が見えてきて、思わず 「してやられた」 感の湧いてくる楽しさがある。

基本になっている現在進行形のストーリーは単純だ。主人公ピーター・エルズは売れない現代音楽の作曲家、教鞭をとっていた大学特任教授の仕事も辞し、「アメリカン・クラフツマン様式の家に暮らす、物静かな年配の芸術家 [ボヘミアン]」 (p.6) である。
彼は日曜 [DIY] 生物学の趣味もあって、設備機材を揃えているが、細菌を培養しているのではないか、バイオテロを行おうとしているのではないかという嫌疑をかけられ、留守中に家宅捜索をされてしまう。難を逃れたエルズは家に帰らずそのまま逃避行の旅に出る。

もう一つのストーリーは、その逃避行の間に挟まれるエルズの幼い頃からのクロニクルであり、その過去の回想の記述の量のほうが多く、小説の根幹となっている。そうしたエルズの歴史には、その時々の実際の社会の話題が、ごく最近の事件 (9・11とか3・11) までも含めて織り込まれ、その中にエルズの生涯という虚構がはめ込まれたかたちになっている。
何よりも現代音楽という、一般的視点から見ればごくマイナーな音楽ジャンルに深くかかわってきたピーター・エルズというパーソナリティの造形が興味深い。それは同時に、おそらくパワーズ自身の音楽に対する拘泥や共感と捉えてもよいだろう。

子どもの頃から、エルズは周囲の人々の興味と相容れない自分を見出す。スポーツも、映画も、テレビ番組もつまらないものに思えてしまう。

 ピーター・エルズは十三歳までに、アメリカという名の8気筒の空気力
 学的熱情と袂を分かつ。もはや自分の趣味が人を当惑させても何とも思
 わない。彼が必要とするのは数学とモーツァルト。あの遠い惑星へ戻る
 ための地図だ。(p.25)

彼は兄・ポールやその友人たちによって〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉などの当時流行していたロックンロールを無理矢理聴かされるが、エルズにとってロックは繰り返しの多い、単純過ぎるコードだけを用いた音楽でしかなく、つまらないと思うばかりなのだ。

高校生の時、エルズはチェロを弾くクララ・レストンと知り合いになる。彼女に自分と同類の 「遠い惑星からやってきた」 においを感じとったのだ。ツェムリンスキーのクラリネット三重奏曲を弾くクララ。
クララはエルズにマーラーの《亡き子をしのぶ歌》を聞かせる。エルズはそれまで、たぶん一般的にはまだ評価の定まっていない、というよりは悪評のあったマーラーを避けてきたが、それがきっかけでマーラーにのめり込む。マーラーがリュッケルトの詩にのめり込んだのと同じように。それは 「エルズに初めて音楽の仕組みを教え」 (p.36) てくれた曲だった。
クララは生意気なマーラー評をエルズに言う。

 この曲は調性の死を告げる弔いの鐘なの。(p.41)

彼女はトールキンの描くエルフのようで、常に先導して新しいものを見つけてくる才覚を持ち、エルズは彼女に影響され翻弄される。クララには他に友人がおらず、エルズとクララとは常に触発される2人だけの閉じた世界を持つことになる。

 愛の古代汎大陸 [パンゲア] のうち、海面上に残されているのはわずかに
 二つの島のみだ。八百年前のコンドゥクトゥスをまるでニュースフラッ
 シュのように聴くクララ・レストンについて彼が覚えているのは、子供
 が書いた五分の歌に収まる程度のことだった。クララ以前はどんな曲も、
 彼を傷つける真の力を持たなかった。クララ以後、彼はあらゆる曲に危
 険を聴き取った。{p.46)

彼はクララに聴かせるために、あるいは彼女を驚かせるために曲を作るようになるが、そうした2人の関係性は、クララがイギリスに留学したことによって突然終わりを告げる。しかし、幼い恋だったのかもしれないが、クララがエルズに音楽に対する興味を開眼させたこと、作曲することの興奮を覚えたことは、終生、エルズにとっての指針となる。
マーラーがアルマ・シンドラーに送った交響曲第5番のアダージェットの楽譜の意味するものに、エルズが自分とクララとの関係性のアナロジーを見出したこともあるのかもしれない。アダージェットはみだらな官能がやがて裏切りとなり死に至る道すじの表象であり、ヴィスコンティがマーラーを擬したアッシェンバッハに、テーマ曲のようにして用いたのも同様の理由による。

クララと別れたエルズはイリノイ大学で学ぶが、そこは著者パワーズが学んだ大学である。彼はイリノイ大学を 「大平原 [プレーリー] のダルムシュタット」 と形容している (実際のドイツのダルムシュタットは第2次大戦後、1947年から現代音楽に関する活発なセミナーが開催された、現代音楽 (の作曲家) にとっての総本山のような場所である/ダルムシュタット夏季現代音楽講習会 Internationale Ferienkurse für Neue Musik, Darmstadt)。

時はジョン・F・ケネディが暗殺された頃、ローリング・ストーンズやビートルズが擡頭してきた時期であった。エルズはエド・サリヴァン・ショーでビートルズを見るが、彼のビートルズ評は 「伝染性の高い七の和音」 (いわゆる7th) の使用が若者をしびれさせる要因なのであり、またビートルズはシュトックハウゼンを盗んでサージェント・ペパーズを作ったという辛辣さである (p.109)。

マーラー以後にエルズがシンパシィを持った作曲家はメシアン、ショスタコーヴィチ、そしてバルトークであった。彼等の名前から感じられる共通項は迫害と不幸の歴史である。
パワーズが音楽史の一断面として挿入したエピソード、オリヴィエ・メシアンがドイツ軍の捕虜収容所で書いた《時の終わりのための四重奏曲》(訳者はこの曲のタイトルを、慣用となっている 「世の終わりのための……」 とせず、fin du tempsをそのまま訳し 「時の終わりのための……」 とした、とある) の生成過程の記述は長く、その時代の黒く重い影を映していて、メシアンへのシンパシィとリスペクトに満ちている。(p.119)
捕虜であるメシアンに曲を書かせようと便宜をはかるドイツ軍の収容所の所長。捕虜をも聴衆に含めた演奏会で、結局その曲の反応は微妙だった。それは1941年1月15日のことだった。

 凍て付く空気の中で最後の音が消え去るとき、何も起こらない。とらわ
 れの聴衆は黙ったまま座っている。そして沈黙の中では、畏怖と怒り、
 当惑と歓喜、その全てが同じに聞こえる。ようやく、拍手が起きる。濃
 緑色のチェコの軍服に木靴という格好の捕虜たちが再びこの世に降り立
 ち、ぎこちないお辞儀をする。(p.129)

1967年の暮れにエルズはマディー (マドリン・コア) と出会う。彼女はエルズの難曲を歌ってくれるソプラノ歌手に応募してきたのだが、サイケデリック・バンドをやっていて、バーズのシングル〈Eight Miles High〉のB面〈Why〉をいつも小さな声でハミングしている。(p.139)

そしてまたエルズはリチャード・ボナーとも出会う。マディーと一緒に出かけたジョン・ケージのイヴェント《ミュージサーカス》の会場の喧噪と混沌の中でひとりで指揮をしている男を発見する。彼がボナーで、エルズより3つ年長の劇場芸術を専攻している男だ。(p.149)
エルズとボナーは意気投合して、ケージについて、音楽そして芸術について語り合う。ボナーはエルズがマディーに歌わせようとしている〈ボルヘス・ソング〉を演劇化しようと提案する。
それがエルズとボナーの生涯にわたるコンビネーションの始まりだった。2人は音楽を伴う舞台芸術/イヴェントを何度も試行錯誤しながら上演し、ケンカして別れ、また元に戻り、次の新たなイヴェントを企画することを繰り返す。

エルズとボナー、そしてマディーによる最初の公演の後、エルズとマディーは結婚する。
2人の間にはやがて娘・セーラが生まれ、エルズと娘は毎日、曲を作る遊びを見つける。だがそうした幸福な日々は次第に崩れてゆく。音楽だけでは生活ができず、エルズは美術館の警備員の仕事を見つけたりするが、そうしたエルズをマディーは醒めた冷たい目で見るようになる。

 妻は彼がそうしている時間をまさに、金のかかる自堕落なガラス玉遊戯
 として見ているのだ。(p.209)

そんなとき、ボナーが突然やってきて、エルズに一緒に映画を作らないかと誘う。時はミニマリズム全盛の頃で、ボナーはエルズにテリー・ライリー、フィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒを聴かせる。
マディーは2人が一緒に映画を作ることに対して良い顔をしない。やがて2人は離婚する。マディーはスクウェアな教育方針をとるニューモーニングという学校の校長と再婚する。その結婚式に使われた音楽がメンデルスゾーンであったことを、エルズは人づてに知る。(p.236)

エルズの12時間もかかる長大な曲は不評に終わり、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの〈毛皮のヴィーナス〉のかかる祝賀会でボナーはエルズをこきおろし、2人はケンカ別れをする。
離婚し、音楽の仕事も無くなったエルズは、ケーキ屋や配管工として働く。4年間働いた後、配管工の上司から勧められて、エルズはニューハンプシャーのホワイト山脈にある小屋を借りることになる。まるでマーラーのようにして、エルズはその小屋で隠遁したようにして作曲をし、10年間を過ごす。(p.242)

ある日、兄からの報せにより、エルズは母が交通事故で死んだことを知る。ロンドンに出かけたエルズは母の遺産がある程度残されていることを聞く。
そのロンドンでエルズは偶然見つけたポスターに導かれ、クララのコンサートに行く。それは無名なバロック期の作曲家をとり上げたプログラムで、2人はコンサート後に再会するが、2人の音楽への興味は3世紀隔たっていることを知る。(p.259)
クララはエルズを誘惑しようとするが、夫が帰ってきたらしいのに気づいて、エルズは彼女の家から去る。その後、再びクララと会うことはなかった。

このクララとの再会と別離の回想の後に、現在のエルズの逃避行の話が続く部分は小説のなかでシンボリックな意味を占めている。エルズは 「プレーリーの中の小さなダルムシュタット」 であるイリノイ大学の、かつての喫茶店に入る。店内は若者たちでいっぱいだ。その中にかつて若者だった、今は逃亡者であるエルズが紛れ込む。
店内に環境音楽が響く。それはソプラノによる歌だ。

 何て小さな思考が人生の全体を満たすのか。
 何て小さな思考が。(p.269)

この曲は何? と会話する恋人たち。わからない2人にエルズが教える。固有名詞だけで。

 ライヒ。ウィトゲンシュタイン。プロヴァーブ。(p.269)

エルズはライヒを聴きながら、その曲を振り返りながら、解析をする。
〈プロヴァーブ〉はウィトゲンシュタインの言葉を歌詞とする1995年の作品であるが、ライヒの音はペロタンの模倣であり、パロディでありながら、古風なノートルダム楽派の和声が現代の音楽によみがえっていることへの感慨とノスタルジアをエルズは感じる。
それは若い頃、エルズにマーラーを教えてくれたクララが、その頃から古風なコンドゥクトゥスを聴き、古風な音楽にとりつかれ、結局バロック・アンサンブルで演奏して生活していたことに重なる回想となったのだ。

再びエルズの過去の記憶。
やがて、天安門事件があり、ベルリンの壁が崩壊した頃、現代音楽界の中である程度の地位を得ていたエルズのもとにボナーがやって来る。
またボナーとの共同作業が始まる。今度はNYシティオペラで、1534年のミュンスターの包囲に題材を得た作品を提案する。
その記憶に、現在のエルズの逃避行への過程が重なり、さらにショスタコーヴィチの大粛清の歴史が記述される。アマチュア音楽批評家スターリン (とパワーズは書く) の恐怖は、現実のハイウェイを走るエルズのパトカーへの恐怖に通じる。
エルズは考える。

 プラトンから平壌 [ピョンヤン] まで、音楽を規制しようという動きは尽
 きることがない。音楽が無限の脅威をはらんでいるかのように、和声の
 可能性はいつも規制される。(p.310)

ボナーとの共同作業によるオペラの生成過程を記述するパワーズのこのあたりの筆致は素晴らしい。(p.303)
ミュンスターの包囲は、直前に類似の事件が起こり、センセーショナルな話題となり、公演もヒットしたが、エルズは続演を拒否することになる。(p.315)
いつものようにボナーとケンカ別れをし、エルズは小さな大学に勤め、地味な音楽の授業を継続する生活をする。

エルズの記憶の回想は次第に今に近いものに移ってくる。9・11の頃、エルズ60歳の頃の音楽の教え子ジェンとの会話。
彼女の編み出した技法は15世紀のフォーブルドンもどきであった。古いものが新しく甦るということでは、クララのときのコンドゥクトゥスを思い出させる。
かわりにジェンからエルズへと報される 「時の終わりのための音楽」 は、レディオ・ヘッドやビョークやデリンジャー・エスケイプ・プランであり、エルズはそれらの音に、時を経て、メシアンやベリオが大衆向けに生まれかわったような印象を抱く。
エルズはジェンにピアノの鍵盤の1音を叩かせ、1つの音は1つの音でなく、無限の音が包含されていることを悟らせる (p.356)。それはエルズが若い頃、キャロル・コパッチから指導されたこと (p.89) の伝授である。

さらにエルズは2年間バッハだけを聴き、次にモーツァルトに移行しようとしたら、まるで白内障で視覚が変わるように、音楽を聴いても、聴覚の何かがかわってしまったような状態となる。
音楽もまた歴史であり、歴史の堆積はそれを学ぼうとする者にとって、後になればなるほどその重層さに茫然とするばかりになるはずだ。

 ますます多くの人がますます多くの曲を作るにつれ、ほとんどの曲は誰
 にも聴かれることなく消えていくことになる。しかしそれもまた美しい
 事実だ。というのも、そうなればほとんど全ての曲が誰かにとって埋も
 れた宝となりうるからだ。(p.362)

学校で教えることからもリタイアさせられ、人生から退役したような立場となった2009年秋、犬と散歩していたエルズは、オークの葉の葉脈に刻まれたリズムを発見する。自然の摂理の中に存在している音楽を彼は理解する。

 世界が抱えているほとんどすべての曲は永遠に、ほとんど誰にも聴いて
 もらえない。(p.364)

 人間は地獄と取り引きをするために音楽を使う。失われた和音を捜そう
 とする人間はわが身を売り渡す。人間は偶然の音楽の中に自らの運命を
 聴く。(p.364)

そしてエルズの幼い頃からのクロニクルはついに終わりを迎え、現実の逃避行に収斂する。
エルズはボナーのいる病院に辿り着く。それは仲違いを何度も繰り返した友との17年振りの再会だった。ボナーはアルツハイマーが進行していて、自分のメモの意味がわからなくなる、などという。リチャードではなくて、まるでアルジャーノンのチャーリーのようだ。年齢を隠すために白粉を塗っているというのは、まるで《ベニスに死す》のようだ。

ボナーはエルズに何をやろうとしていたのかを問う。エルズは、音楽ファイルを生きた細胞に入れようとしていたのだと答える。(p.379)
ボナーは、エルズのその作品を最後までやり遂げるべきだと進言する。

 誰にもその音楽を耳にすることはないと、私は思っていた。あれは無人
 の客席に向けて書いた曲だった。(p.385)

 私が作りたかったのは、私たちがいなくなったずっと後にここがどんな
 場所だったかを伝えるような曲だ。(p.386)

小説の最後の部分はわざと省略しておくが、人称代名詞が突然 「あなた」 になるところ (p.397) は、ミシェル・ビュトールの『心変わり』を想起させる。音楽的な昂揚感のある言葉の連なりはロレンス・ダレル風であるかもしれない。

解説に引用されている『黄金虫変奏曲』(このタイトル The Gold Bug Variations はゴルトベルクのパロディである) の中の翻訳についての記述は、この『オルフェオ』にも共通に感じられるパワーズの視点と考えてよい。以下、少し長いが引用する。

 世界は翻訳でしかない、翻訳以外の何物でもない。だが、逆説的なこと
 に、言い表わしがたいことに、それはまさにほかでもない、ここという
 場所の翻訳なのだ。(p.426)

 翻訳とは、移植したいという渇望とは、シェークスピアをバンドゥー語
 に持ち込むことが肝要なのではない。肝要なのは、バンドゥー語をシェ
 ークスピアに持ち込むことなのだ。土着のセンテンス以外に、その言語
 に何が言えそうか、それを示すこと。めざすのは、起点を引き延ばすこ
 とではなく、目標を拡げること。かつて可能だった以上のものを抱擁す
 ることだ。有効な解読を行なったのち、「正しい」 解決を思いついたのち
 ―― たとえそれがどれだけ一時的で、試験的で、入れ替え可能な、局部
 的なものであれ ―― 二つの拡張された、高められた言語 (シェークスピ
 アもまた、アナロジーがアフリカの平原に適応することによって永久に
 変わる) が三角測量の六分儀を形成し、それが廃墟の塔の高みをふたた
 び指し示し、限定された言語を、言わなくても知が通る場へと導いてい
 くのだ。(p.426)

(つづく→2015年10月23日ブログへ)


リチャード・パワーズ/オルフェオ (新潮社)
オルフェオ




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シルフ

私もそろそろ今のブログスタイルを変えないとなぁ。ココにくると痛切に感じます。どうも求めているものからブレてる気がして。
by シルフ (2015-10-09 16:58) 

majyo

スゴイですね~、読まれたものをこれだけ深く
解説できるなんて
もう一度、時間のある時にゆっくり読み直します
by majyo (2015-10-09 17:17) 

lequiche

>> シルフ様

えぇ? そうなんですか?
シルフさんのノリ、いつも楽しみにしているんですけど。
唯一、最近はコメできないのが不満です。(^o^)

でもブログのアプローチはいろいろありますので、
新装開店というのもいいですね〜。
by lequiche (2015-10-10 05:00) 

lequiche

>> majyo 様

いえいえ、今回のは単にあらすじを追ってるだけです。
この後、つづきでもう少し内容的なものに入ろうと思ってますが、
ちょっと長過ぎるのかもしれません。

ただ読んでいるうちに、気になることがどんどん出てきて、
そっちに気を取られてしまうことはありますね。
その結果、とっちらかってしまうのが常ですが。(^^;)
by lequiche (2015-10-10 05:00) 

昆野誠吾

お祝いコメントを頂戴し
ありがとうございました!
ワンパク2名になると思うと体力つけなきゃって(笑
そろそろ通常ペースに戻す予定なので
宜しくお願いします♪
by 昆野誠吾 (2015-10-12 17:52) 

lequiche

>> desidesi 様

いえいえ、文章力の無さに恥じ入るばかりです。
どこが大事なのかというのを選択する能力が弱いんですね〜。
だからだらだら長くなっちゃうんだと思います。

でも要約と言っても、結末部分は略してるというか、
つまり推理小説でいえば犯人は誰か? の部分には触れていません。
古い作品だったらいいかもしれませんが、
最近の作品をネタバレさせてしまうのはどうかと思いますので。

続きは、ややマニアックな内容になるんじゃないかな
という予感がしますので、こんな私の駄文よりも
実作品をお読みになったほうがよいです。

冒頭、とっつきにくいかなという予感を抱きますが、
読みやすくて、よく構成されている作品だと思います。
パワーズは初めて読んだので、
ホントなら3作くらい読まないと何とも言えない部分がありますが、
これなら1作だけでも十分に語れるなぁと思いました。
とりあえず今年読んだ本のなかでは最高傑作です。
by lequiche (2015-10-13 02:41) 

lequiche

>> 昆野誠吾様

いえいえ、皆さんコメントされていましたが
良い記念になると思います。

あははは。そうですね、体力は大事です。
でも、なによりも成長への期待のほうが大きいし楽しみですね。
通常モードへの復帰、お待ちしております。(^^)
by lequiche (2015-10-13 02:42) 

gorge

lequicheさま
登場する固有名詞だけでも、これは読みたくなってくるなー。ご紹介ありがとうございます。
現在、今年じゅうには片付けないと、と思っている本でいっぱいなので、来年になってしまいそうですが。
by gorge (2015-10-16 15:19) 

lequiche

>> gorge 様

そう言っていただけるとうれしいです。
ライヒのプロヴァーブというのは知りませんでしたが、
この大学のバーみたいな場所でライヒが聞こえてくる個所は
そのざわめきが聞こえるようで、懐かしさのようなものを感じます。

この後のブログで私はクリュイタンスについて書きましたが、
クリュイタンスとフランソワのラヴェルの左手のためのコンチェルトは
パウル・ウィトゲンシュタインのために書かれた曲ですから、
そのようにして思考というか、連想が繋がってゆくことを感じます。

パワーズの小説の主人公のピーターというファースト・ネームから、
私はピーター・ゼルキンを連想しますが、
パワーズの訳書の巻末には曲名リストが付いていて、
メシアンの fin du temps の推薦盤はもちろんタッシになっています。
by lequiche (2015-10-18 23:21) 

gorge

ははあ。うまいこといいますね。フルクサスとかライヒってカレッジ文化なんですね。<適当

>音楽的な昂揚感のある言葉の連なりはロレンス・ダレル風であるかもしれない。

これは読まなくては。
by gorge (2015-10-20 19:28) 

lequiche

>> gorge 様

ああ、なるほど。確かにそういう面はあるかもしれません。
大学のシーンは、パワーズの実体験から描かれていると思われますので、
自分が実際に在学していて、また何十年も経ってからそこに行っても、
それなりの雰囲気がまだ残っているということなのがよくわかります。

以前、ナム・ジュン・パイクについてもちらっと書きましたが、
パイクのちょっと山師的な感じが、この小説のボナーを思い出させます。

ダレルは単に思いつきですが、
そのパッショネイトさは性的だらしなさ (笑) と関係あるんでしょうか?
『黒い本』からはそうした視野狭窄のような熱情が読み取れると思います。
by lequiche (2015-10-21 13:22) 

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