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果てしないフィールドには佇むしかない [雑記]

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1週間前のことだが、東京外国語大学で開催された山口昌男追悼シンポジウムというのに行ってきた。
山口昌男は今年の3月に亡くなった高名な文化人類学者だが、私は山口昌男のことなどほとんど何も知らないし、知ったかぶりを書いても笑われるだけなので、彼の業績とは直接関係のない、パネラーの先生方が披瀝されたエピソードのうちの覚えていることだけをメモ書きしてみることにする。おバカなブログでゴメンナサイ。

基調講演の青木保氏は国立新美術館の館長さんだが、まず今話題の 「貴婦人と一角獣展」 のことから。貴婦人とユニコーンという2つの言葉がすぐに暗喩になって、よからぬことを考えてしまうのはその人のイマジネーションの回路に問題があるので (私もそうだが)、この有名なタピスリーは、絵画でなくタピスリーであるのがミソであって是非見に行きたいと思っている。
このタピスリーも先週のフランス・デーの一環に連動していたのだろうが、その文化大臣が美術館にやってくるのを待っていたら、ごく普段着でタクシーで乗りつけてきたのでびっくりだったとのこと。文化の違いというのもあるけれど、警備の人は困りますよね。

青木氏の山口評は、山口昌男自身がトリックスターではあったけれど、でもアウトサイダーではないということで、そしてまた教育者としての山口は、知識は直接的な伝授によって、つまり 「口伝」 によってもたらされるとのことなのである。まさにブラッドベリの『華氏451』の世界。

そのことで思い出したのだが、もう数ヶ月前になるのだけれど、渋谷で友人と会ったとき、その前に久しぶりにタワーレコードに入って、「やっぱりネットで買うより現物のCDを見て買うほうがいい」 と感激した話をしたら、その友人が言うのには、本とかCDとか、ネットでそうした商品を買うのは一見便利なのだけれどそれは 「情報が痩せる」 からダメなのだ、と。
「情報が痩せる」 というのは良い表現で、だからdirectであることとそうでないこととはあくまで違うという認識が必要なのだと感じてしまった。
ネットショップで買うことは、だからアウラが無いのだと思う (by ベンヤミン)。

メキシコに滞在していて、そこにやって来た山口昌男との親交を深めたというのは落合一泰氏で、氏はメキシコ研究者だと自己紹介したが、メキシコに滞在していたとき山口昌男と親交を持ったのだそうだ。そこで一緒に調査 (つまりフィールドワークですね) をしたのだというが、必ずしも好意的な相手ばかりではなく、緊張関係のある調査とか、さらっと話しているがなかなか奥が深そうである。
オクタヴィオ・パスとごはんを食べた話では、エビが跳ねているのを見て、パスが 「ダンス・オブ・シュリンプ」 と言ったとか (本当は死の舞踏かもしれないのに)、でも後でパスの著作リストを調べてみたら、いままで知らないでいた読むべき本/読みたい本の羅列でパスおそるべし。
それよりも、一番笑ったのはメキシコで日本の映画《心中天網島》を見たのだが、なぜかそれがカラテ映画という宣伝になっていて、期待してやってきた観客から大ブーイングが起こったのだそうだ。

メキシコからニューヨークに移ったところで、再び山口昌男と今度はニューヨークで会って、グリニッジ・ビレッジの書店で本を買うときの話もあって、それは本棚の左上から右下までと斜めの線で示して全部買い占めてしまうというとんでもない買い方なので、この話は他の講演者もされていたのでどうもホントらしい。もっともただ買うだけなら誰でもできるのかもしれないが。
あと、ファスビンダーを薦めてくれた話もあって、本だけでなく全てに目配りのある人だったようだ。

栗本英世氏はエヴァンズ=プリチャードの話から始めて、山口の『黒い大陸の影響と悲惨』の植民地とキリスト教の問題について、つまり堕落した欧米民族より植民地の人々のほうがずっと敬虔な信仰があるというようなシリアスな話題だと思っていたら、ナイロビの詐欺師というエピソードで笑ってしまう。
ナイロビの詐欺師は 「東京のプロフェッサー・ヤマグチを知っているか?」 という言葉で巧みに取り入ってカンパをせしめるのだという。これぞまさにストリートのトリックスターとのことで、このオチに持っていくための話だったのかも。さらにアディスアベバではクリモトの名を騙る詐欺師がいたそうで……。
人類学は乱世の文化であるという言葉が印象に残った。

船曳建夫氏は、文楽の大道具でバイトをしていた頃に山口昌男との出会いがあったという。山口のファースト・インプレッションは、文楽を鑑賞した後、案の定つまらない分析をした人類学者で、通り一遍の分析だったとこきおろすところがかえって愛情が籠もっていて楽しい。
だがその後の、都会者/田舎者、屈託のある/なしという分類がなかなか面白かった。
つまり明治維新の頃の、例えば内村鑑三や新渡戸稲造は、英語しか使えないような学校で育ったが、それは植民地的環境であり 「外国に対しての屈託がない」 人種で (精神的に屈折していない、劣等感がないということだろう)、でも夏目漱石などは外国には行ったのだけれど 「屈託がある」 のだそうだ。柳田國男や永井荷風になるとさらに 「屈託」 は深まって全く (外国への) 高揚感がない。外国は遠くて、外国に行けば自分が日本人であることを思い知らされることになる、とのこと。

この論理を第二次大戦後に敷衍すると、「屈託がなくて」 外国に学ぶ精神だったのが丸山眞男や丹下謙三であり、「屈託がある」 のが吉本隆明や江藤淳なのだそうだ。山口昌男はもちろん屈託ナシ派のほうで、山口の吉本隆明への批判はまさにそのへんが根底にあるのだということになる。
一方で山口は北海道の田舎者、吉本は都会者という対比もあって、でもだからといって田舎で育てば屈託がないのかというとそれは違うような気がするが、育った環境というのは意外にあとあとまで残るものなのかもしれない。
船曳氏のペーパーにはこうした人々の名前がリストになって羅列されているのだが、その最終行の 「(遅れてきたがゆえに、屈託も高揚感もそこそこの継承者) 団塊の世代」 とあるのはギャグですよね。

講演の最後は今福龍太氏で、おそらく最も山口昌男に近いと思われる人で、興味のある内容だった。
山口昌男を表現するとき、フィールドワークと言わずフィールドという、それはフィールドワークという意味でのフィールドを超えたものであり、またフィールドという概念は、比喩的にも、また野外という即物的な意味としてのフィールドでもあり、そのフィールドをどこまで拡大できるかということ、そこにフィールドという言葉の重層性があるとのことである。
そうした視点に立っての山口評は、エクリチュールの過剰、本質的には単独行のフィールドワーカーというような形容がされた。
また山口昌男はその時その時における偶然性に依拠している無方向性があってそれは彼のsenseであり、またそうした風景をそもそも内面にそなえている (inner landscape) ともいう。

また山口は晩年、ブルース・チャトウィンに惹かれていたそうで、Timbuktuやユートピアニズムについてもざっと語られたが時間がなさ過ぎたのが残念であった。確かにamazonのシロート批評で言われているような内輪話の類であるのかもしれないが、碩学が辿りついた終着点が何だったのかを私のような凡人は知りたいものなのである。
ヘルメス、オルフェウス、オデュッセウスを全体したものというのは山口への賛辞でもあるだろうが、アフリカより西欧が優位とは限らない、というのはまさにレヴィ=ストロースの『野生の思考』に通じる。

(画像はBOOKasahi.comより)


山口昌男コレクション (ちくま学芸文庫)
山口昌男コレクション (ちくま学芸文庫)




ユリイカ 2013年6月号 (青土社)
ユリイカ 2013年6月号 特集=山口昌男 道化・王権・敗者

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