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もう森の歌は聞かない — ヴィクトリア・ムローヴァ [音楽]

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今週もまた、この前の日曜の夜のNHK-2のクラシック音楽館の話題になってしまった。他に書きたいことがあるのだけれど、まだまとめきれないので。

ヴィクトリア・ムローヴァ Viktoria Mullova のヴァイオリンによるショスタコーヴィチのコンチェルト第1番 a-moll op.77 を聴く。オーケストラはピーター・ウンジャン指揮のN響。2013年4月13日のNHKホールでの収録である。

1948年、完成されていたにもかかわらずこの曲をなかなか発表できなかったショスタコーヴィチと当時のソヴィエトの状況はすでに有名であり、開演前にもそのようなことを含む解説が字幕で流された。つまり簡単にいえば、難解で高踏的な芸術は共産主義に反するとして排斥され、そうした作品を作ることが罪とされた国だったのである。スターリニズムの跋扈する長い冬の時代だった。
音楽とは非常に抽象的な芸術であり、それにリアリズム云々を求めたりするのは無理だと思うのだが、その無理がまかり通る時代だったのである。

話が少しずれてしまうが、例の 「北の将軍様」 を賛美する音楽というのがあってその音楽にハマッてしまったということをSNSに書いている人がいて、それは私がちょっと知っている人なのであるが、おそらくそれはギャグで書いているのだと思いたいのだけれど、ギャグだとしても質の良くないギャグであって、しかも半分本気のような感じも受けるので、万一そうなのだとしたらその人の音楽的感性を疑うしかない。
芸術への迫害ということで思い出したのだが、私は小学校1年生の時、自分自身で描いた絵を、親に手伝ってもらったのだろうと教師から疑われたことがあり、それは中間色を多用した色彩だったのだが、そうした色を小学1年生が使うわけはないとその教師は思いこんでいたらしいのである。その後私はその教師用に、わざと原色だけを使った、子どもらしいととられるようにレヴェルを落とした絵を描いていたという屈辱の記憶がある。絵だけでなく作文も 「〜して、おもしろかったです」 というような無邪気を装った低俗な文章を書かざるをえなかった。そういうのが 「子どもらしい」 と信じ込んで指導する教師だったのである。

ムローヴァの話に戻るが、彼女は赤のワンピースに黒のパンツ、カジュアルなサンダルという、わざとドレスダウンしたような格好で登場してきた。そこに彼女の音楽や生活に対するスタンスが見える。彼女は同時期にデビューしたアンネ=ゾフィー・ムターと較べるとクラシック音楽の王道からやや外れた道を歩いてきたようにも見えて、奔放なアルゲリッチを連想してしまう部分もあるのだけれど、アルゲリッチは何を弾いてもアルゲリッチだが、ムローヴァの場合はコンポーザー第一主義的な真摯な感じを受けるのがアルゲリッチと異なるところだ。

ショスタコーヴィチの1番は、静かに始まる第1楽章が地味な印象で、しかも暗く、これだと確かに当時のソヴィエトのエライ人 (但し、頭の悪い) からはブルジョア的だとか退嬰的だと指摘されてもしかたがないのかもしれない。そうした体制の迫害から逃れるためにショスタコーヴィチは、迎合的なクォリティの低い曲も作らざるを得なかったのだといわれる。その屈辱は、まるでレヴェルが違うけれど、私の小学1年生の時の記憶と同じだ、というシンパシィをもって理解できる。

第1楽章、ノクチュルヌ——その暗さは憂鬱に満ちている。暗くて難解なのかもしれないけれど、無駄な音がひとつもなくて暗い輝きを持っていておそろしくひきこまれる。ムローヴァの音はショスタコーヴィチの声。アンニュイだけれどセンチメンタルではなくて、もっと切迫した悲哀が聞こえる。いや、悲哀というようなべたべたとした言葉とは違ってもっと凜とした強いなにかだ。
ただ、ムローヴァの演奏している姿には、ボウイングに一種のクセというか、ちょっと私には馴染めないタイプのボウイングで、若い頃の動画を見てみるとまるで異なる身体の動きなのだが、でもそこに彼女のヴァイオリニストとしての歴史が刻まれているような気もする。

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第2楽章 scherzo 冒頭

一転して第2楽章は速いリズムのスケルツォで、ソロ・ヴァイオリンにからんでくるバス・クラリネットが鮮明に浮き出て悪魔の呪文を唱えている。バスクラの音は、私の勝手な感じかただと思うけれど、一番黄泉のドメーヌに近い。
だんだんと楽器が増えていってトゥッティとなり、[42] からこの曲の特徴的なテーマが聞こえてくるが、このメロディはマーチのように明るく感じられるようでも実はそうではなくて、白昼夢のような気怠くて虚飾に満ちた音で、そのカラ元気さの違和感にイライラさせられるが、これもショスタコーヴィチの仕掛けた罠なのだ。

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直前で転調してこの特徴的なテーマとなる

第3楽章〜第4楽章となるにつれて、ショスタコーヴィチの皮肉な視点は次第に薄れつつあることがわかってくる。第3楽章後半のカデンツァからアタッカで第4楽章に入っていくあたりはごく普通のコンチェルトになっていて、しかも音は整然としていて淀みがなく美しい。
第3楽章カデンツァの途中で、ほんの一瞬、第2楽章の諧謔的テーマが甦るが、でもそれはもう過ぎたことなのだ、と溶解していったように私には感じられた。

繰り返して書くが、ムローヴァの演奏はショスタコーヴィチの声であり、それは彼女自身がソヴィエトから西側に亡命した経験にオーヴァーラップするように思える。禁欲的ではないのだけれどわかりにくいと感じることのあるショスタコーヴィチの作品の中で、彼の皮肉で韜晦とも思える視点が消えたとき、曲は最も暗くて強い光を放つようだ。

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ムローヴァとピーター・ウンジャン

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1980 Sibelius Violin Competition, Helsinki のムローヴァ


Viktoria Mullova/Shostakovich: Violin Concerto No.1
(Decca/Universal Music Classic)
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番




Shostakovich Violin Concerto No.1
http://www.youtube.com/watch?v=oiMytWov6oY

Sibelius Violin Concerto
http://www.youtube.com/watch?v=EdQdRGc0nhY
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