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透明なとげ、聡明なとかげ — 那珂太郎 [本]

那珂太郎.jpg
那珂太郎 (asahi.comより)

前回のブログで翻訳文に関しての形容に 「translate でなく transparent で」 と書いたのは単なる語呂合わせの冗談に過ぎないが、transparent という単語から触発されて思い出したことがある。
それは遠い記憶が呼び起こした過去の影で、思い出したのは那珂太郎という詩人のフレーズの断片であった。

私の生まれた町に小さな古書店があった。たぶん今はもう無くなってしまっただろう。そこの書棚に『現代詩全集』という本が何冊か並んでいた。随分古い本で、どれもが非常に汚れていて、しかも表紙はカビかなにかによって変色していて、触るのに躊躇するような外見だった。
でもその中に那珂太郎という名前を発見して、その頃、私は現代詩に興味を持ち始めていたので、那珂太郎の入っている第4巻だけを購入した。その巻が中では比較的きれいなほうで、触れそうだったからという理由だったのかもしれない。

那珂太郎の有名な詩集は『空我山房日乗其他』とか『幽名過客抄』というようなタイトルで、すごくむずかしそうで、怖そうな先生のような印象を受けてしまう。だが私にとって、初期の頃の、つまり若き那珂太郎は、少し気恥ずかしくて青春の香りのするような、だけれど、しんとした音のない陥穽に落ちるような、何よりも暗い言葉を携えていた詩人であった。

前述の『現代詩全集』は 「黒い水母」 という作品から始まる。

 どろどろどろどろどろどろどろどろ
 葬列の太鼓の響きよりものうく
 老い朽ちた陸橋を渡ってゆく
 跫音のかげ
 黄昏のレントゲン線に透けてみえる
 黒い水母のむれ
 びれびれと触手そよがす海藻の間をぬって
 どこまでそれは流れて行くか

黒い水母かぁ。暗くて、キモチ悪くて、想像しただけで陰鬱になる描写。まだ詩集『音楽』より前の作品で、洗練されてなくてドロ臭いような、たぶんその時代を反映している表現のように思えた。
露悪的ともいえる描写は続き、真理も自由も神も腐って悪臭を放っていると詩人は書く。
その最後は、

 ああ 陰湿なこの国の梅雨季のなかを
 萎えた手足は右にゆれ 左にゆれ
 眼もない
 口もない
 喪神のパラシュウトのむれはただただ沈降して行く

となっていて、どこにも救いはなくて、暗くてナマの感情が表出しているようにみえて、でもなぜか冷静な部分も同居していて、そしてこの頃の時代と今とは何か共通しているものがあるかもしれない、とふと思う。
暗い詩行のなかに繰り返しあらわれる 「透明」 という言葉。

 心象のなかに
 透明にゆらめくエエテルの
 未知のポエジイ         (Décalcomanie I )

 また
 透明に匂ふ
 あけがたの浜辺に打ちあげられた
 海月の
 つぶやき            (Poem I )

透明さはやがて上梓された『音楽』のなかでも継続している。詩集『音楽』は言葉の音だけを抽出した軽さの詩のようにみえるが、それは軽さの裏側に暗さを押し隠しているのに過ぎない。『音楽』の中で最も抒情的で、青春の光と影のような印象を持つ作品 「死 あるひは詩」 は懐かしさのようなものとともに在り続けるように思える。那珂太郎は、今更この詩を引用されたりすることを嫌うかもしれない。

 おれがおまへに逢ひに行くとき
 おまへはいつも 不在
 カアテンのレエスのかげにも
 壁のくらいしみのなかにも
 卓におかれた 吸ひさしのタバコの煙
 のたゆたひのなかにも
 ゐない
 灰皿の沙漠ばかり ひっそりと
 ちらばる時間の白骨
 を かすめとぶ鳥
 の喉の朱 [あけ] の円のおくに
 透明なとげが刺さって

 理由もなくおれは歩いてゐるので
 とつぜん背後から
 理由もなく おまへはおれを目かくしする
 ふりむくと
 めくらむあをいあをい空ばかり
 もうおまへは手のとどかぬところに
 陽炎のやうにゆれひかり
 記憶喪失者の内部の記憶
 となる

 おまへは 見知らぬひと
 しかしおまへはあるとき
 二度と還ることのない 親しかった友の顔
 またあるとき
 まだ見たことのない おれのほんたうの母親の顔
 水面をめくりあげ
 ふりしきるピアノ線の雨の
 蒼ざめた音楽にずぶぬれて
 逢ひにくるのは
 いつもおまへの方からだ
                      (「死 あるいは詩」)

「理由もなく」 という言葉が2回繰り返されることに、その2回目の 「理由もなく」 の後の1字アキに、ぼんやりとした悲しみのような気持ちを感じる。
先日、那珂太郎氏は92歳で亡くなられた。詩人はもう手のとどかぬところに、透明さのなかに、消えて行った。


那珂太郎詩集 (思潮社)
那珂太郎詩集 (現代詩文庫 第 1期16)

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コメント 4

Enrique

なるほど詩人と言うものは言葉に敏感なものだと。
随所にそれは感じられますが,
どろどろ・・・・
回数が8回無いとリズムが合わないのですね。
by Enrique (2014-06-14 06:58) 

lequiche

>> Enrique 様

言葉に鋭敏だからこそ書ける詩というのはあると思います。
もちろんそれを読み取ってくれる読者が必要ですが。
たとえば上記の詩のなかの
「記憶喪失者の内部の記憶」 というのは
言葉遊びのように見えて、すごく痛切です。
痛切なことをさりげなく言葉遊び風な流れの中にからめている
というふうに私はとります。

那珂太郎が最初にブレイク (^^;) したのは
『音楽』という詩集ということになっていて、
これは 「の」 の連鎖で単語が次々につながっていく
というテクニックで有名です。
これも言葉遊びに見えて
実はそれだけでないように私は感じます。
by lequiche (2014-06-16 01:03) 

Loby

那珂太郎という詩人は存じませんでしたが、
すばらしい詩を書いていますね。
詩は誰でも書けますけど、
詩人には誰でもなれませんね。

by Loby (2014-06-17 02:54) 

lequiche

>> Loby 様

気に入っていただけてよかったです。

「詩人には誰でもなれませんね」
確かにおっしゃる通りです。
詩というのは簡単に書けるように思えますが、
それは詩のようなものでしかなくて、
詩人の書く詩はなにか別物のような気がします。
言葉に対する厳しさが必要でしょうね。
私にはとても無理です。(^^;)
by lequiche (2014-06-19 08:30) 

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