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武満の中のジョイス [音楽]

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このところ翻訳のことに深入りしてしまっているが、かつて澁澤龍彦も言っていたように、翻訳とはその言語に堪能なことよりも日本語に堪能なことが必要だというのは至言であって、と同時に澁澤的韜晦の表現でもあると思う。
翻訳というのは、まるで水のように翻訳者自身は透明で姿を見せず、作品のテイストをそのまま変換できているのがきっと理想なのだろうが、どうしても翻訳者の味が出てしまう部分があって、それもまた面白いのかもしれないが、どこまで個性というものが許されるのか、バランスがむずかしいような気もする。

前のブログにも書いたジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳は、そもそもこんな内容のものを翻訳するのが無理なのは分かっているのだが、柳瀬尚紀訳というのがあって、これも井上究一郎のプルースト訳と同様に大変な労作なのだけれど、読んでみると私には違和感がある。
それはジョイスの、portmanteau (カバン語) という、いわゆるダブル・ミーニング的な言葉を日本語の駄洒落とか語呂合わせ、地口といったものに置換していて、それがハマッたときは笑ってしまう部分もあって秀逸なのだが、全体のトーンがどうしても和風になってしまって、それはジョイス作品の本来持っている色合いとは違うのではないかという疑問であった。
つまり私がそうした手法から連想してしまうのは落語であって、それらの言葉の端々から醸し出されるニュアンスが、そこはかとなく和風なのである。昔から存在する日本語書籍の組み方のなかに、本文の漢字にその文字本来の読みでないルビを振ることがあるが (例えば 「回廊」 という漢字に 「コリドー」 とルビを振るようなこと)、そのようにして装飾された字面は、見た目だけですでに和風である。それは昔の総ルビの小説の雰囲気を連想させられるからで、つまり大衆向読本的で樋口一葉テイストであり、極端にいえばルビが付いている文章はその内容にかかわらず全て和風に思えてしまう。これはあくまで私の感覚に過ぎないのかもしれないが。

むしろエンターテインメントな内容のほうが、翻訳者は完全に黒子となって、ダイレクトに作者の言葉が伝わってくるような、そんな気がする。この前の朝日新聞日曜日の読書ページのコラム 「思い出す本忘れない本」 に、声優の池澤春菜が書いていたが、選んだ本はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『たったひとつの冴えたやりかた』だった。
彼女はタイに留学したとき、誰も日本語がわからない絶望的な孤独の中でこの本を読んだとのことであり、それはとても力を与えてくれたのだと言う。浅倉久志や伊藤典夫といった信頼できるSF翻訳者の訳文はエンターテインメントなのだけれど、ごく透明な水に近くて、translate でなく transparent で、言葉というものの不思議さと深さを感じてしまう。

翻訳するには最も困難な、そんなジョイスのことを思い描いているうち、音楽との関連でジョイスのことを書いていた本があったことを思い出した。それは船山隆の『武満徹 響きの海へ』(音楽之友社・1998) である。

船山の武満論は、まずオーケストラ曲《夢の引用》(1991) から始まるが、それはタイトルそのものと、それを暗喩としたダブル・ミーニングでもあり、海とか川といった水のイメージを内包した夢について語られた物語でもあるような気がする。
まず武満の、ドビュッシーからの影響ということでドビュッシーの手紙を引用し、その 「無数の海の思い出」 について次のように書いている。

 おそらくその無数の思い出のなかで、最も強烈で重要な海の記憶は、少
 年時代に伯母クレマンティーヌを訪ねた時に見たカンヌの海であったと
 考えても誤りではないだろう。道の両端に咲きみだれるバラの花、家の
 前の道、そして遠くに見える海——こうしたカンヌの海の思い出は、多
 くのドビュッシー評伝家たちが一致して認めるように、暗く貧しかった
 ドビュッシーの幼年時代ただ一つの明るい幸福な記憶なのである。(p.24)

一方で、武満の旧 「ノヴェンバー・ステップス第2番」 である《グリーン》は、ドビュッシーの《遊戯》的であるけれど、そのデリケートさにおいて、またそれも引用の一形態であるとする。つまり、安易なパクリではなくて一種のコラージュ的なスタンスでの使用という意味なのだろうか。
さらに引用の例として、ルチアーヌ・ベリオの《シンフォニア》が挙げられる。この曲はドビュッシーの《海》からの引用が多いが、その他にも幾つもの曲からの引用 (というより一瞬の残像のような) が例示される。
ベリオ自身、自作解説で次のように述べているという個所を孫引きすると、

 その結果はいわば、マーラーの第二交響曲の第三楽章に乗っての 「シテ
 ール島への航海」 である。マーラーの楽章は、容器として扱われ、その
 枠組みの中で無数の照応が増殖し、相互に関連し、流れるような構造に
 統合されて一個のオリジナルな作品となっている。(中略)マーラーの
 第三楽章の最も直接的な表現上の特質は、意識の流れに似た流れである
 が、言葉と音楽の関係はこの流れの一種の解釈、もしくは夢判断である
 といえよう。(p.32)

シテール島への航海というと連想してしまうのはテオ・アンゲロプロスの映画《シテール島への船出》であるが、これはもっと一般名詞的な意味でのシテール島への旅を指しているのだと思う (そういえばアンゲロプロスの字幕を作成していたのは池澤夏樹であったが、彼は池澤春菜の父である)。
ここで重要なのは、ドビュッシーやベリオの海は明るいということである。だが武満の海は暗い。船山はこう書く。

 《夢の引用》のなかの 「海」 のイメージからは、燦然と輝く、生命力に
 みちた真昼の至福の光が欠如しているように思われる。(p.35)

 武満とドビュッシーとベリオは、同じような 「水」 と 「川」 と 「海」 の夢
 を見ていたのであるが、各々の作曲家の夢の内容が異なっていたのにほ
 かならない。(p.39)

ここで頻出する夢とか水という単語は『フィネガンズ・ウェイク』を示唆するキーワードでもある。船山がここで目論んでいたのは、次からの章のジョイス関連の曲への序奏だったのかもしれない。

Ⅱの 「遠い呼び声の彼方へ!」 ではサブタイトルに『フィネガンズ・ウェイク』三部作とあるように、ジョイスからとられたタイトルによる3曲が提示される。
 ヴァイオリンとオーケストラのための《遠い呼び声の彼方へ!》(1980)
 弦楽四重奏のための《ア・ウェイ・ア・ローン》(1981)
 ピアノとオーケストラのための《リヴァラン》(1984)
である。

Finnegans Wakeの末尾は次のようになっているが、遠い呼び声の彼方へ!とはここの部分にある Far calls. Coming, far! というフレーズの武満なりの翻訳である。

 I sink I'd die down over his feet, humbly dumbly, only to washup.
 Yes, tid. There's where. First. We pass through grass behush the
 bush to. Whish! A gull, Gulls. Far calls. Coming, far! End here. Us
 then. Finn, again! Take. Bussoftlhee, mememormee! Till thous-
 endsthee. Lps. The keys to. Given! A way a lone a last a loved a
 long the

《ア・ウェイ・ア・ローン》は長大なフィネガンの一番最後の部分 A way a lone a last a loved a long the からとられていて、フィネガンは、aの連鎖とL音によって言葉が転がり始めそうになりながら、突然 the で立ち消えて終わる。
そして《リヴァラン》はもちろん、フィネガン冒頭の最初の単語 riverrun からとられている。また《遠い呼び声の彼方へ!》は武満の著作の1冊のタイトルともなっている。

船山は《遠い呼び声の彼方へ!》の初演時の反応について次のように述べている。

 《遠い呼び声の彼方へ!》の日本初演は、武満の調性音楽への転身とい
 う様式転回に注目があつまり、ジョイスとの深い関連について言及した
 ものは皆無に近かった。(p.52)

このトーナリティに対する武満の変化は、音楽そのものであるだけにタイトル云々のことよりも興味深い。それは方法論の変化というより、拘りへの視点を変えたことにあるのではないかと思える。

(→2014年07月16日ブログへつづく)


船山隆/武満徹 響きの海へ (音楽之友社)
武満徹 響きの海へ




武満徹/ア・ウェイ・ア・ローン II
https://www.youtube.com/watch?v=t21DkLUYF0w
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アヨアン・イゴカー

>『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳は、そもそもこんな内容のものを翻訳するのが無理なのは分かっているのだが、柳瀬尚紀訳というのがあって、これも井上究一郎のプルースト訳と同様に大変な労作なのだけれど、読んでみると私には違和感がある。

 『フィネガンズ・ウェイク』柳瀬尚紀訳、読んだことがありますが、全く記憶に残っていません。原文と比べながら読むのがよいのでしょうが、残念ながらそれだけの語学力もなく。
 高校のときの英語のリーダーにラフカディオ・ハーンの簡単な短い大学での講義内容が載っていました。好い作品は、他の言語でも翻訳できると言うものでした。詩人の感じた物、それは他の言語で置き換えられる、と。
 確かにそのような作品の方が多いかもしれませんが、自国語の言葉の能力を最大限に発揮させようと、掛詞やら言外の意味やら音の響きやらを詩や小説に押し込んでいる作品の場合には、それは不可能だと思っています。『日本語は天才である』柳瀬尚紀著を読んで、日本語の可能性の大きさを改めて痛感しました。しかし、やはり不可能なものは不可能であるという気がします。(書いている側も、他国語への翻訳を拒否している(翻訳できないような言語の活用をしている)場合もあるのではないでしょうか。)
by アヨアン・イゴカー (2014-06-08 13:30) 

lequiche

>> アヨアン・イゴカー様

コメントありがとうございます。
確かに翻訳しやすい作品と、しにくい作品はあるかもしれません。
でも言語というのは、基本的には人間に理解されることが前提ですので、
ワケわからないことが書いてある場合、
翻訳者はなるべく論理だって訳そうとするので、
翻訳のほうが原文より分かりやすくなることはあるのだそうです。

ジョイスの場合は拒否しているというより、
翻訳されたらどうなるかなどとは考えていないと思います。
それは例えば短歌や俳句の翻訳でも同様で、
松尾芭蕉を英訳したらそれは芭蕉なのか? というと
かなり微妙な感じはします。

でも、そんな困難があっても訳すというのが翻訳の精神なので、
翻訳者のすごさはそこにあると思います。
念のためですが、井上究一郎も柳瀬尚紀も私は大変尊敬しております。
by lequiche (2014-06-11 00:08) 

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