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ゴジラの影 — 伊福部昭 [音楽]

伊福部昭1961.jpg
伊福部昭 1961 (伊福部昭公式ホームページより)

河出書房から出ている文藝別冊のムックのシリーズは、なんとなくその時々のトレンドをとらえていて、つい買ってしまう。今回のは伊福部昭——サブタイトルは 「ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠」 となっている。守護神かぁ、すごいなあ。

ゴジラの、あの有名なテーマ曲に歌詞を付けたのがあって、「ゴジラゴジラゴジラとメカゴジラ♪」 というのだが、一度それが刷り込まれてしまうと、次に曲を聞いたとき、その歌詞が自動的に思い出されてしまって、もうそれ以外考えられなくなるというおそろしい歌詞なのである。
このゴジラの歌詞は、もともとはNHK-FMで放送されていた坂本龍一の番組《サウンド・ストリート》で公募されたリスナーからの作品 (デモテープ特集と呼ばれていた) の中の1曲である (YouTubeに音源があったので文末にリンクしてある→福岡市 ゴジラ)。

ゴジラだけでなく3文字の名詞なら何でもいいので 「モスラモスラモスラとメカモスラ」 や 「ラドンラドンラドンとメカラドン」 とか、さらには怪獣以外の 「サザエサザエサザエとメカサザエ」 や 「ハイジハイジハイジとメカハイジ」 まであって、何にでも応用できてしまうので、おかしくて仕方がない。

ムックの話に戻ると、片山杜秀責任編集と書かれていて、内容は過去の雑誌などに掲載された文章や対談などの再録が多いのだが、内容が濃くて面白い。芥川也寸志も黛敏郎も、伊福部を 「先生」 と書いていることからも、伊福部のカリスマ性 (?) がわかる。

「新発掘インタビュー 自伝抄」 の中で伊福部は、ストラヴィンスキーは好きだけれどバルトークは初期の作品を除いてあまり好きではない、その自意識過剰な部分も含めて、と語っているが、なるほどやはりストラヴィンスキーなのか、と納得できる部分がある。
ゴジラの音楽に関しては、あれはお金を得るためのお仕事、というのが伊福部のもともとのスタンスだったし、実際にそういう動機で製作にかかわったのだろうけれど、結果として伊福部はゴジラの作曲者として有名になってしまった。世評とはそうしたものである。

片山杜秀のトークを文章化したものと、それに続く伊福部作品ガイドは大変参考になるし便利だ。片山もやはり 「伊福部先生」 と敬称で呼んでいる。
ゴジラのメロディについて彼は次のように語る。

 その『ゴジラ』のクレジットに流れるあの有名なメロディなんですが。
 あれはもう単純極まる印象的なもので、子供でも大人でも一発で刷り込
 まれる。音階を順次進行、つまり鍵盤上の隣り合わせの音で動く、素朴
 な旋律でしょう。(p.150)

跳躍感の無い、隣同士の音を行ったり来たりするヌメヌメ感が、恐怖を増幅させる。片山は、もう少し具体的に例をあげて説明している。

 「ドシラドシラ」 で始まって、「ドシラソラシドシラ」 で片付いて、次に
 上に上がって、「レドシレドシ」 と始めて同じかたちをなぞる。ヴァー
 ジョンによっては、さらに上がって 「ミレドミレド」 をやる。そのあと
 どうなるかというと、「ファミミレレドドシ、ファミミレレドドシ」 と
 ね、音階を下がる動きを繰り返して、「シ・シ・シ・シ」 と執拗にシに
 こだわって、そこに止まるメロディなんですね。このシでとまるという
 ことが、伊福部音楽の特に本質と結び付いている。(p.150)

 音階が下がっていくとき、止まる音のひとつ上の音が半音の高さで、ひ
 とつ下の音が全音の高さになる七音音階というのを使って、そこから自
 分は音楽を書いているのだと。(中略) この七音音階は西洋でスタンダー
 ドになった長調と短調とははっきり違った印象を与えると伊福部先生は
 言うわけです。(p.150〜151)

 「全音の導音と、半音の上主音を持つ音組織は、西洋の受け入れぬ処と
 なり」 と述べているのはこのこと。(p.151)

片山がそう指摘する個所の伊福部自身の記述も、このムックに収録されているが、それは次のようである。

 十八世紀に至って、ラモウ、バッハによって確立された長短調のシステ
 ムは、在来あった、教会古旋法の殆どを、自己の配下に吸収統合するこ
 とに成功し、考え得る最も有用な機能を確立したのであった。けれども、
 唯一つ、下向長調とでも云うべきフリギアの旋法を置き忘れて来たので
 あった。置き忘れたというよりは、このシステムを以ってしては、どの
 様にしても満足にゆく和音的処理が出来得なくて、敢て取り残して来た
 のであった。従って、この全音の導音と、半音の上主音を持つ音組織は、
 西欧の受け入れぬ処となり、今や全く忘れ去られたのである。処が、不
 幸なことに、我々の伝統音楽は五音組織であったとは云え、底流する旋
 法感はこの取り残されたフリギアと全く同一なのであって、輸入された
 長短調のシステムが我々の旋法を満足せしめ得ぬのは当然なのである。
 (p.97:初出/伊福部昭 「流哇砕零」、『楽想』第2集、’48・12)

フリギアとは、白鍵でいえば 「ミ」 から始まる 「ミファソラシドレミ」 (第1音と2音、第5音と6音の間隔が半音。他は全音) というスケールであり、ファはミの半音上にある上主音であり、そしてレはミの全音下である。

「吾々の伝統音楽」 とは何を指すのか? 普通に考えれば、スケールに関してみれば、近代的 (西欧的) スケール感でない、つまりバッハ以降の平均律と機能的な音構造に集約されない、ペンタトニック的構成音によるプリミティヴなスケールと想定してもよいだろう。
7音といっているので、7音に達しない、あるいはオクターヴに達しないような、ごく原初的音楽よりは、やや近世の音楽に対しての見方と考えることができる。片山が、後述しているように 「都節」 とか、そうした時代のレヴェルのスケール感である。

小泉文夫の中にも、同じような記述が見られることを思いだした。

 近世邦楽一般では、次第に下降導音が顕著となり、核音の上の音が半音
 程になるのである。
 (小泉文夫『日本傳統音楽の研究 1』1958・音楽之友社、p.132)

小泉の論旨は、日本の伝統音楽はスケールの中に核とする音があるというものであり、また 「日本の伝統音楽」 と表現するものを厳密に定義した場合、どれを (どのあたりを) 指すのか、という違いはあるが、「下降導音」、「上の音が半音程」 ということに関しては共通性がある。
この核音という概念は、つまり音には 「ゆるぎない音高」 と 「あやふやな音高」 があって、スケールの中でその音に収束されるゆるぎない安定した音を小泉は核音と規定しているが、山下洋輔の 「ブルーノート研究」 にも、ジャズの源泉であるブルースの解析について同様の視点が見られる。

前述した 「自伝抄」 の中で、伊福部はあくまで妄想として、ストラヴィンスキーの律動感はロシアとかヨーロッパの音でなく、モンゴルの血があるのではないか、と言っている。
バルトークも同様に、ハンガリーの民族音楽ということにこだわった人であるが、プリミティヴな素材はあくまで素材であり、曲自体の構造は西欧近代音楽である。

伊福部が自分の音の基盤をどのあたりに置いたか、もちろんそれがたとえば民族主義に短絡するものではないが、骨格としては西欧からの輸入品に過ぎない音楽構造/理論の中に、どのように自らのカラーを反映させていったのか、大変興味がある。
そして伊福部の自覚していたその差異は音楽だけでなく、たとえば日本版ゴジラとアメリカ版ゴジラの違いにもあらわれているように思える。


文藝別冊・KAWADE夢ムック/伊福部昭 (河出書房新社)
伊福部昭: ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)




小泉文夫/合本 日本伝統音楽の研究 (音楽之友社)
合本 日本伝統音楽の研究/小泉文夫




伊福部昭/ゴジラ・メドレー
https://www.youtube.com/watch?v=PDeU42u2s2Y
福岡市 ゴジラ
https://www.youtube.com/watch?v=r8tQas2ZBLo
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コメント 4

Enrique

伊福部に関してはギターの曲もあり,割と親近感あります。生誕100年でラジオで色々作品が流されていました。プリミティブな迫力を持つ一方長く聞くと疲れるのは,その原因が音の使い方にある事が分かります。
by Enrique (2014-06-30 08:20) 

lequiche

>> Enrique 様

やはり多作ですね。それだけでも単純にすごいと思います。

>> 長く聞くと疲れるのは,その原因が音の使い方にある事が分かります。

ああ、なるほど。それはそうなのかもしれません。
伊福部はもっとコンテンポラリーな方向に行った可能性もありましたが、
おそらく戦争を期にして目指すべきものが変わったように思います。
日本特有の音にこだわるというのは、卑俗な部分も含めてなので、
映画音楽に限らず、わざと洗練されていない傾向にこだわった、
ということもあり得るような気がします。
by lequiche (2014-07-01 00:49) 

アヨアン・イゴカー

ゴジラの音型はブラームスの交響曲第一番第一楽章を思い出します。タタタター タタタター タタタターこの音型は力強く、前進してゆく印象があります。
芥川也寸志の音楽は好きですが、伊福部昭の影響を感じます。また、当時流行っていたロシア音楽の影響ももろに受けている印象です。
日本人である作曲家は、日本人としてどの方向を目指すべきか、その苦悩が感じられます。
by アヨアン・イゴカー (2014-07-06 22:01) 

lequiche

>> アヨアン・イゴカー様

ブラームスですか。それは思いつきませんでした。
前進してゆく音というのは感じますね。

クラシックにも定常的にあるパターンと、
その時々の流行に合わせたパターンがあると思います。
その時にみずみずしく素晴らしかったはずなのに、
何年か経ってから同じものを聴くと、全く問題外だったり、
ということもあるようです。

音楽はそのままだと空間に消えてしまうものなので、
でも逆に、それが音楽の面白さでもあるのですが。
by lequiche (2014-07-11 00:33) 

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