SSブログ

武満の中のジョイス・2 [音楽]

jamesjoyce140716.jpg
James Joyce

武満の中のジョイス (→2014年06月06日ブログ) のつづきです。

船山は《遠い呼び声の彼方へ!》を解説していくなかで、武満自身が挙げている基本音列について言及している。
それは英語音名でいえば、e♭ − e − a − c♯ − f − a♭という6音によるもので、e♭はドイツ音名でいうとesだからつまりエス (s)、よって最初の3音は s − e − a と読めるので、sea (海) という意味になるのだそうである (p.61)。バッハが音列の中に b − a − c − h を潜り込ませたのと同じような思考だ。

ここでもうひとつ、武満の言葉として提示されるのがパン・トーナル pan tonal (汎調性) という名称で、それはルドルフ・レティ (Rudolf Reti 1885〜1957) によって確立された概念だということだ。tonality に対する atonality、さらに pantonality であり、それは彼の著書のタイトルにもなっている (《Tonality, Atonality, Pantonality — A Study of some trends in twentieth century》1958)。

武満は tonality に関して、「ずっと対決をつづけてきた調性というものを、あるがままに包括的に受け入れるという気持ちになった」 と語ったというが (p.67)、それは調性を超越し、汎調性に至る過程に葛藤が存在していたともいえる。
武満は、それまでずっとステロタイプな調性感に陥らないようにというポリシーを持って作曲してきたが、この時、調性感があっても良いのではないか、と思い至ったということであり、それが《遠い呼び声の彼方へ!》の初演時に最も注目を集めた作曲技法の変化であったということだ。なぜなら調性感があるということは音楽的な退化と見られる可能性があり、武満はそう非難されるのを嫌っていたが、ふと、そんなこだわりはどうでもいいのではないか、と考えるようになったということである。
ただ、レティ自身は 「パントナリティは、一つの傾向であり、一つの近似値にとどまる」 と甚だしく弱気な表現をしていたのだという (p.66)。

そのレティに影響を受けたのがジョージ・ラッセル (George Russell 1923〜2009) であり、それによって産み出されたのが、かの有名なリディアン・クロマティック・コンセプトであるという。武満も1961年にはラッセルのこの理論を読んでいたとのことで、レティ→ラッセル→武満という系譜があるのかもしれない。

船山も書いているように、ラッセルの理論の根幹にあるのは音に対する重力という概念であって、これを調性引力 tonal gravity というのだが、私は直接ラッセルを読んだわけでもないし、もし読んだとしてもたぶんわからないのではないかと思う。
概念としては倍音列があることによってそのルートである音が認識されるという考え方であり、たとえばCの完全5度上のGからCに向かって降りてくる力が tonal gravity であり、その重力によってC音がCとして認識できているのだということである (と、よくわからないままに書いている)。

リディアン・クロマティック・コンセプトの概念はわかりにくいが、ジャズ・ミュージシャン/コンポーザーでもあったラッセルの理論を各論としてとらえるだけなのなら、比較的容易である。というかお手軽なテクニックの方法論としてしか私はそれを捉えていなくて、それは武満が理解していたのとは雲泥の差であることに違いないが、ごく簡単に書いてみよう (単なるシロートの理解なので間違っている可能性が大いにあるのでご注意を)。
すごく簡単にいえば、リディアン・クロマティック・コンセプトとはリディアン・スケールですべてをやってしまおうとする理論であって、つまりアベイラブル・ノートスケールで考えるのでなく、どんなコードもすべてリディアンで済ますというモノグサ (?) な理論なのである。
たとえばトニックだったら、maj、maj7、maj9の場合、ルートと同じ音のリディアンスケール、つまりCだったらCリディアンが使える。これがminor、m7、m9だとしたら、ルートの短3度上から始まるリディアン、つまりCm7だとしたら、E♭リディアン。7thや9thだったら短7度からのリディアン、つまりC7だったらB♭リディアンスケールということである。どうしてそうなのかということも説明されているのだが、この説明のほうはよくわからない。

話が本筋からずれてしまったので元に戻すと、船山は調性に関してのストラヴィンスキーの言葉を引用しているので、それをそのまま引用させてもらうことにする。

  伝統的な調性の体系は、この誘引力の一般的な法則の彼の満足しか与
 えていない。なぜならば絶対の価値をもっていないからである。(中略)
  したがって私たちの主要な関心は、いわゆる調性にあるのではなく、
 音や音程、さらに音響複合体の極性にある。
             (ストラヴィンスキー『音楽の詩学』1939)

武満が調性についての今までの強いこだわりから離れて (正確にいえば、調性が従来の展開になってしまうことを阻止するために実行してきたこだわりを捨てて) 調性音楽への転身という評価を受け入れたのは、このストラヴィンスキーと同じように主要な関心が移ったからなのだともいえるが、そのきっかけが何なのかは不明である。
だが後年、歌詞として採用することになるヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の一文と呼応することがあるかもしれないと思う。

 いかに世界があるかは、より高貴なことにとっては全くどうでもよいことで
 ある。神は世の中に自らを啓示しはしない。(6・432)

船山の武満論の中で掲げられているタイトル、ワーク・イン・プログレス (進行中の作品) Work in Progress とは、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』がまだ完成形に至る前に雑誌に発表された際の仮題である。しかしそれは同時に武満の自作 (の改訂) に対するスタンスを形容する言葉でもある。

武満のフィネガンとの出会いとジョン・ケージとの挿話はその時代の up to date を切り取っているようで大変興味深い。
ある時、ニューヨークで、武満がジョイス関連の本を贈呈され、それをジョン・ケージに見せたらケージがそれをとても欲しがったので、その本をケージにあげて、武満は翌日書店でフィネガンズ・ウェイクを購入したのだという。
ケージの回想によれば、遡って1939年に彼はフィネガンズ・ウェイクを購入したとのことである。

でありながら、ケージの作品のタイトルなどに反映されたのはごく少数に過ぎない。船山はこう書いている。

 ケージにとってのジョイス[の作品]は、作品の題材に使用するような
 テキストではなく、言語や芸術の規範そのものであったと考えてよい。
 (p.74)

もうひとり、ジョイスに多大な影響を受けた作曲家として船山があげるのはピエール・ブーレーズである。ブーレーズにとって、ジョイスとマラルメという文学ジャンルからの影響は、単にタイトルを借用しているだけでなく、もっと根源的な共通項が存在しているように思える。
船山は 「ソナタよ、お前は私に何をのぞむのか ——〈第3ピアノソナタ〉について」 がブーレーズの最も重要な文章であると書いているが、それはフォントネルに由来する文章とある。ベルナール・フォントネル (Bernard le Bovier de fontenelle 1657〜1757) はニュートンと同時代の人で、しかしデカルトの渦動説という学説に加担したことで知られる。
「世界の複数性についての対話」 Entretiens sur la pluralité des monde (1686) もまだ宇宙の構造が定まらない過渡期の時代に書かれたものだが、私はたとえばティコ・ブラーエのような、今となっては怪しげな学説を唱えた人を偏愛していて、フォントネルもややそうした傾向があるように思える。

ブーレーズはジョイスの、それだけで自立している世界 (=宇宙) について、それが可能なのは 「言葉の多義性」 に拠るものであり、「ジョイスは、この種の〈様式的訓練〉を意識的に理性的に応用することによって、その宇宙の大部分を構築した」 (p.79 船山の引用をそのまま引用) のだという (尚、「言葉の多義性」 という言葉の 「多義性」 にはアンピギュイテというルビがふられているが、これは誤植で、アンビギュイテ ambiguité が正しい)。
ブーレーズは、形式の観念について全体的な再考が必要だとし、音楽においても 「一つの出発点から一つの到達点に至る単純な旅」 として考えることはもうやめよう、と言う。

ではブーレーズがいうような、出発から到達へと向かう単純なベクトルでない作品とは何なのだろうか。あるいは武満がいうような未完成な状態が完成となる時はあるのだろうか。
武満は次のように述べる。(p.83)

 私の行為の果に、目的というものはない。だから、完成という、怠惰と欺
 瞞は、私の仕事においてはありえない。私は 「誰のため」 にも書かない。
 私にとって作曲するとは生きることなのです。(p.83)

これに対し船山も書いているように、では 「いったい芸術作品の完成とは何なのだろうか」 という疑問が生じることも否めない。まるで細かいヴァージョンアップを繰り返し、やっと安定したと思ったら次の新製品が出てしまうPCのアプリケーションにそれは似ている。


船山隆/武満徹 響きの海へ (音楽之友社)
武満徹 響きの海へ

nice!(25)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 25

コメント 2

Enrique

ブリテンなどでも,Desが死を意味する(death, deep sleep) とか,やっています。武満のseaも音に象徴的な意味を込めるのでしょうが,一種のエピグラフなんでしょう。特定の色で画家の特徴を言うのにも似ているかも知れません。語呂合わせの様な感も否めませんが音以外のところからも意味を入れるのが20世紀の音楽では重要だったのでしょうか。
調性の否定というのも,如何に従来の音楽の語法にはまらないかの歯止めなのでしょうが,音に重力がある以上(伝統和声のドミナントモーションなどと同じものだと思うのですが),音の質量は否定出来ず落ちつくところに落ちつく様な気もするのですが,落ちつかせてはいけないのですね。
by Enrique (2014-07-19 05:24) 

lequiche

>> Enrique 様

あ、やっぱりそういうのあるんですか。
武満の場合、海とか雨とか、水のイメージへのこだわりがあって、
それはフィネガンズ・ウェイクの川の流れとの関連性がある、
といわれています。
でもesだからsでseaっていうのは、ちょっと無理っぽいような。(^^;)

本来落ち着くべきところに落ち着かせないっていうのが、
つまりアヴァンギャルドな手法なのかもしれませんが、
前のブログに書いた伊福部昭の場合も、
導音が半音下からではない、なぜなら西欧の伝統的音ではないから、
ということなのですが、それに似た感じがしています。
つまり伝統和声というのはあくまでヨーロッパ主導の概念であって、
私たちの耳はすでにそれに慣らされているのだけれど
実はそれも西欧ローカルに過ぎない、という主張だと思います。
by lequiche (2014-07-20 13:06) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0