SSブログ

『牧神』のル=グィン特集 [本]

LeGuin01.jpg
Ursula K. Le Guin (theguardian.comより)

この前、本を整理していたら『牧神』という古い雑誌を何冊か新たに発見したのだが、まだ何冊か欠けている。でも雑誌というのは買ったり買わなかったり、あるいは古本で探してきて揃えたりというのが常なので、全部揃ってないのは仕方がないと諦めることにしている。
『牧神』は1号 (創刊号) から12号まで出て休刊となってしまった雑誌で、1号の前にマイナス3号からマイナス1号があるが、マイナス1号は図書目録とのことだ。

出版元は牧神社という会社だが、もちろん今は存在していない。でもなかなか面白い内容なので、つい整理するのを忘れて読んでしまったりする。創刊号はゴシック・ロマンス特集でそういう傾向の内容なのだが、齋藤磯雄のブキニスト巡りで見つけたボードレールの記事に掲載されている書影が端正で、書籍の美しさというものをしみじみと再確認する。
しかしこの『牧神』という雑誌は号を重ねるにつれ次第に内容が変化していって、第10号はアーシュラ・K・ル=グィン (Ursula Kroeber Le Guin, 1929−) の特集になっていた。

どんな雑誌でも昔の雑誌というのは面白い。それは内容がまるでタイムマシンで時代を遡ったように、その発売日を今として読むことが可能だからだ。ということで古雑誌という名のタイムマシンを利用してみることにする。
(尚、『牧神』という誌名は、創刊号では 「牧神」 と正字が使用されているが、出版社名は牧神社という新旧混在した表記になっているし (「神」 という文字を使うのなら 「社」 も 「社」 のほうが統一感が出るのに)、しかも広告ページは新漢字で牧神社とバラバラなので、わかりやすく 「牧神」 と表記することにする。またル=グィンという名前も、ル=グウィンとかル・グィンなど出版社によって異なるが、私はル=グィンという表記を使用することとする。)

牧神10号の発売日は1977年9月15日となっていて、この時点でル=グィンの長編作品は『闇の左手』とゲド戦記3冊きり翻訳されていない。『天のろくろ』(The Lathe of Heaven, 1971) も『所有せざる人々』(The Dispossessed, 1974) もまだ日本語には訳されていない頃で、つまり新進作家としてのル=グィンなのである。
また、この1977年時点でのSFというジャンル (SF小説とか、その他のSF作品) に対する読者の認識度は、現在のSFに対する視点とは当然違う。まだSFは現在ほど世間には確立されていなかったはずだ。とは言っても1977年は映画《スター・ウォーズ》の第1作が公開された年でもある。《スター・ウォーズ》にはゲド戦記の影響が相当あると私は確信しているのだが、たぶん1977年に、ゲド戦記とスター・ウォーズを関連づけて捉えられた人はほとんどいなかったのではないかと思う。

ざっと目を通した中で興味深く読んだのは鏡明 (かがみ・あきら) の 「保守性と進歩性の二重構造」 という記事であった。鏡は、当時ウーマン・リブの作家&評論家として有名であったジョアンナ・ラス (Joanna Russ, 1937−2011) とル=グィンを対比している。
ラスは、SF小説においては女性が一種の添え物でしかなく、SFが男性主導の構造しか持っていないことを糾弾する。そしてル=グィンの作品『闇の左手』に対しても攻撃性を見せ、その視点や方法論が女性の立場を考慮せず非フェミニズム的であると批判するのだ。
対象となる『闇の左手』は今ではかなり有名な作品だと思うが、wikipediaにある概要とあらすじを引用しておくことにする。

 『ロカノンの世界』で構築された未来史を引き継ぐ作品である。
 宇宙連合エクーメンは、かつて植民地であった辺境の星との外交関係の
 復活を目指し、惑星「冬」に使節を送り込む。惑星「冬」の住人は両性
 具有であり、特異な社会を形成していた。使節が現地の陰謀に巻き込ま
 れ、惑星「冬」との外交の扉が開かれるまでを描く。
 両性具有は過去の遺伝子操作の実験によるもので、先遣の調査隊員は、
 その実験目的を戦争の排除ではないかと考察している。事実、「冬」の
 住人は男女両方の性格を合わせ持ち、攻撃的ではなく、戦争と呼べるよ
 うな大量な殺しあいは起きていない。

 エクーメン連合の使節ゲンリ―・アイは惑星「冬」を訪れ、カルハイド
 王国の王との謁見を求めていたが、頼りにしていた宰相エストラーベン
 が王の寵愛を失い追放されたのを知る。極寒の「冬」では追放は死を意
 味する。
 アイは、カルハイド王国と紛争中の隣国オルゴレインを訪れ、歓待され
 るが、再会したエストラーベンから忠告を受ける。その後、派閥争いに
 巻きこまれて逮捕され、囚人として更生施設へ送られる。
 エストラーベンは更生施設よりアイを救い出し、極寒の氷原を抜け、カ
 ルハイドへの帰還を目指す。

この小説におけるル=グィンの設定の特異さは、いうまでもなくその惑星人が両性具有であることだ。しかもどちらの性になるのかは、そのときになってみないとわからないという不確定性を持っている。
フェミニズム的論点からすれば、これは男女性差別の撤廃・均等化を意味するが、その視点は旧態依然の男性視点からのSF的虚構性に過ぎないというのがラスの批判の主旨である。
鏡はこう書いている。

 ル・グィンのこの作品 [『闇の左手』のこと] は、保守的に過ぎるという
 わけだ。なるほど、ラスのように過激なウーマン・リブの提唱者から見
 れば『闇の左手』は、あまりにもマイルドである。(p.93)

 ゲンリー・アイがエストラーベンに抱く愛情ですら、男性と男性の愛の
 ように描かれてしまう。また惑星 「冬」 の描写はいかにもリアルである
 が、社会組織ということになると、奇妙に抽象的なレベルまで落ちてし
 まい、しかも男性的な社会として描かれる。(同前)

 結局のところ、『闇の左手』は、その名声のわりには、男性的な世界観
 による産物とさほど変っていない。それでも『闇の左手』のかちえた名
 声について考えるとき、この作品のこうした点こそが、実はその原動力
 ではなかったかという結論に突き当たる。(同前)

ウーマン・リブの闘士からすればル=グィンの両性具有の捉え方は保守的であり、つまり体制順応型でしかないということを鏡はまず冷静に提示している。どちらかに肩入れするということではなくて、まず状況認識である。
だがタイムマシンで戻ってきた現代の目から見れば2人の差はまさに歴然としていて、それはラスとル=グィンのその頃から現在までの知名度の差となっても現れているはずだ。それにウーマン・リブという言葉そのものがすでに過去の遺物でしかなく、今の時代に命脈を保ってはいないだろう。

プロパガンダがナマの状態で露出している作品のいのちは長くない。それはかつての共産主義国家ソビエトにおけるジダーノフ批判などで知られる体制への迎合作品についても、あるいは日本でプロレタリア文学と称呼されたジャンルにおいても同様である。

それに『闇の左手』の両性具有という設定は、単にフェミニズムだけでなくて、ジェンダー認識とか同性愛にどう対応するかという問題を通して、人間の社会性とか政治形態に対する視点までも内包している。ル=グィンは意識的にせよ、あるいは無意識的にせよ、そこまでを含んで書いていたはずだ。
対するラスの批判は表面的なものに過ぎず、彼女の書いたフェミニズム小説は単なるプロパガンダ小説として時の彼方に淘汰されてしまっている。つまりアイはその異世界においては、本来の男性的特質を利用できずにいるのであり、それがアイロニーとなっていることをラスは理解できずにいたのだ。

 その異質な手触りの中に投げ込まれた唯一人の性を持つ存在が男性であ
 ったことも、彼が物語の中で重要な役割を果たすどころか、異質な文明
 の中でまったく無力であることを露呈することによって、結果的に男性
 であることの優位性の逆の状態を感じさせてくれる。(p.94)

ル=グィンのソフィスティケーティッドな表現に対しラスの論理はがさつであり、かつその本質を理解していないとのことであるが、にもかかわらず鏡の指摘は手厳しい。なぜならル=グィンのそうした進歩的な理解力も、それとは正反対の保守的/反動的な世界観とのバランス感覚によって成立しているのだとするのである。
そしてそうした構造と手法はむしろアメリカのSFシーンにおいて1950年代から主流を成していたとするのだ。
このように鏡の語る論理は、この1977年という時代には、SFのニューウェーヴとかスペキュラティヴ・フィクションとかいうような視点でJ・G・バラードをはじめとするイギリス系の先鋭的な作品を評価するという風潮 (ないしは流行) があったことと無縁ではない。これもまたウーマン・リブと同様、現代の視点からすれば死語の言葉に近いと思われる。

ここで鏡は、一種のセンセーショナリズムで迎えられたと思われる作品である『異星の客』を引き合いに出す。『異星の客』とはR・A・ハインラインの1961年作品で、SF的な設定のなかで新興宗教を媒介としたコミュニティを描き、フリーセックスとかオカルティズムをその触媒としチャールズ・マンソンにも影響を与えたと語られる小説である (今の目で見ればフリーセックスという言葉も、すでに死語なのだが)。

ハインラインが描いた極限的状況によるSF的舞台としての未来が、先進的と見えるのにもかかわらず、元来が保守的なアメリカの一部の層を代表しているとする見方は鋭い。もともとハインラインのこうした設定が多分のパロディを備えていたものでありながら、それがパロディとしてとらえられずシリアスなものとして変化してしまったという分析も否めない。言葉をかえれば、より表層的、風俗的にしか受け取られなかったということである。
だが、そうしたいわゆるSFメインストリームから派生した、アメリカの実質的な思想をベースとするハインライン作品とル=グィンがちょうど表裏の状態にありながら結果としてどちらもアメリカの体質を具現化しているという論理はどうなのだろうか。

ル=グィンが提示したのは男女の性差がある通常の世界と、性差そのものが存在しない世界という2つの世界を描いたことであり、その性差を意識しないことというのは文字通りの異世界の描きかたであると同時に一種の暗喩でもある。『所有せざる人々』における2つの惑星に別れた社会構造の違う国家というのも、資本主義と共産主義というような対立構造の比喩を超えたなにかを指し示している。闇と光という言葉に代表されるル=グィンの二項対立に対して、ハインラインとル=グィンが表裏一体でどちらもアメリカの具現化であるとするような論理は強引過ぎるし、そもそもが両者は少し違った地平にあるように思える。そうした異なった思考の並列も許容されるのこそアメリカ、というのならばそれなりに納得できるのかもしれないが、それは混沌の状況説明でしかなくて論理とはいえない。

とするのならば、ずっと時代を下って、たとえば現在のネット社会におけるネトウヨの現象とか、百田尚樹の持ち上げられかたとかに対して、ハインラインの当時の保守層からの支持ということにアナロジィを感じるというのでさえも同一視できるのだろうか。
百田の描く世界のパターンは文字通り、書いた文字そのままなのであって、そこにアイロニーもメタファーも存在しない点ではハインラインとは異なる。その違いは、実はハインラインも含めたアメリカのSFにはそのベースとしてプロテスタント的思想と文化があり、その宗教的なベースは意外に、というか作品理解の基本にあるのではないかと思う。

かつてのウーマン・リブがフェミニズムに発展していったとする信奉は結局 「女性」 性を強調したものに過ぎなかったこと、実は自立する思考に見せかけながら 「女性」 に寄りかかったものであることと、ル=グィンやティプトリーのような 「男まさり」 的な性差の超越性、その中にこそフェミニズムがあるのではないだろうか。

と話題が限りなく逸れていって、後半が性急で端折り過ぎているのはル=グィン的かもしれないし、かつ全然推敲していない文章なのでこのへんにしておいて、以下続く (かもしれない)。


アーシュラ・K・ル・グィン/闇の左手 (早川書房)
闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))




アーシュラ・K・ル・グィン/所有せざる人々 (早川書房)
所有せざる人々 (ハヤカワ文庫SF)

nice!(54)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 54

コメント 2

シルフ

『闇の左手』をまた読み返したくなりました。Sci-Fi大好きなんですよ。
by シルフ (2014-12-10 10:19) 

lequiche

>> シルフ様

そうなんですか!
でも、もう随分前の作品になってしまったんですね。
初めて読んだときは、正直言ってよくわかりませんでした。
それだけル=グィンのヴィジョンが進んでいたんだと思います。
by lequiche (2014-12-11 00:38) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0