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ゲルハルト・リヒター展に行く [アート]

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Gerhard Richter/Ella (2007)

ゲルハルト・リヒター展の今回の展示の核となるのはアウシュヴィッツへの屈折した視点の末に完成された《ビルケナウ》であることは間違いないのだが、それとともに喧伝されていたのがエリック・クラプトンの所有していたリヒターの絵画が2016年のオークションで高額で落札されたという卑俗な話題である。

そうした話題がプロモーションの一環として作用したのかどうかはわからないが、東京国立近代美術館は考えていたよりも多数の来客者で満たされていて、しかも上野の美術館の客層とは異なって、圧倒的に若い人が多かった。

クラプトンとリヒターは全く関係がない。クラプトンが音楽シーンにクリームとして登場した頃、それまでのポップ&ロック・ミュージックとは一線を画する曲構成はアヴァンギャルドだったのかもしれないが、そのソロがアブストラクトかと問われればやや違うと思う。私が最初に聴いたのは《Fresh Cream》というやや地味目なアルバムだったが、基本はペンタトニックであり、サイケデリックの残滓を引き摺っている歴史的演奏というふうにしかとらえられなかった。
『ユリイカ』2022年6月号のゲルハルト・リヒター特集号では、荒川徹がディストーションのギターを強引にリヒターと結びつけていて、無理があるけれどとても面白い視点であると感じた。(p.240)

だが同号のマルコ・ブラウのリヒターへのインタビューの中で、リヒターは 「まったくいちども興味を惹かれなかったのはポップミュージックです」 と語っている (p.70)。ピンク・フロイドのコンサートに 「紛れこんだ」 こともあるが、観客の多さには驚いたものの音楽には驚かなかった、とも言う。

続けてリヒターは、

 ときに明確なタイトルを持っているのにもかかわらず、なにも物語らな
 い器楽が存在しているということは、私にしてみれば抽象的に描いても
 よいと認められているようなものです。(p.71)

と言っているが、これはクラシカルなインストゥルメンタルを想定しているのに違いない。

《ビルケナウ》について語るとき、基本的認識としていわゆるホロコーストとその後のドイツの歴史をどうしてもトレースしてみなければならない。『ユリイカ』の長谷川晴生に拠れば、特に西側に組み込まれた西ドイツは、邪悪な第三帝国の過去を克服したと当初は思われていたという。

 しかし、敗戦後に一定期間が経過すると、戦後に自己形成した世代の者
 たちは、そのような 「お約束」 に疑念を持つようになる。ドイツの過去
 は果たして本当に克服されたのであろうか。(p.139)

そしてアンゼルム・キーファーの写真集《占領 (Besetzungen)》(1969) や、ジグマール・ポルケの《パガニーニ (Paganini)》(1982) がセンセーショナルで挑発的で露悪的であることによって、克服されたという認識が欺瞞であることを示すことになった。そうした手法のパターンのひとつとして、リヒターもアウシュヴィッツの写真とポルノグラフィとを合体する構想を持っていたが断念したとのことである。
過去は清算されたとする薔薇色の未来のような欺瞞へのアンチテーゼとしてキーファーが提示したような、ある意味、わかりやすい方法論をリヒターは結果として採らなかった。

リヒターの技法としてアブストラクト・ペインティングとともにあるのがフォト・ペインティングである。長谷川晴生はその技法について的確な解釈をしている。

 リヒターの 「絵画」 は、それが敢えて写真を肉筆で絵画化するというフ
 ォト・ペインティングであるのも手伝って、城郭や飛行機や人物が時と
 してボカシをともなって単にそこにあるだけであり、いかなる文脈も与
 えてくれず、そもそも作家がそれらの対象にいかなる態度を示している
 のかを推察させてすらくれないのである。(p.141)

これがリヒター作品のわかりにくさだと長谷川は書くが、リヒターがインタビューで語っている 「なにも物語らない器楽が存在している」 という音楽に対する視点と、この 「そこにあるだけ」 とする態度は重なるものがある。

大作である《ビルケナウ》の生成過程についてはすでに有名なので省くが、田の字に並べられた4点の油絵と、それをデジタルコピーした4枚とが向かい合わせの左右の壁に配置され、正面の壁は巨大な暗い鏡になっている (つまり壁のかたちをコの字型とすれば 「コ」 の上下の横線の壁にあるのが絵画とそのコピー、「コ」 の縦線の部分にあるのが鏡)。
絵画本体とそのコピーが向かい合わせにされていることは、合わせ鏡の比喩であるが、鏡はそれを直接表現するアイテムであるはずだ。それなら4点の絵画と対面するのは4枚の鏡でもよいはずだがそうはならない。
それに左右の《ビルケナウ》とそのコピーを見較べる観客自身の姿が暗く映る鏡というのは、何か別の、一種の酩酊を呼び覚ます。

『ユリイカ』の清水穣の解説は、こうしたリヒターの創作理念をすべてレイヤーという概念で説明している。つまりデジタルコピーの役割は、本物の鏡でなく鏡面上の像であり、すなわちレイヤーであるというのだ。
そして、

 レイヤーの出現、すなわち、画像が不可視の透明な面の上に載っている
 という質が露わになることをリヒターは 「シャイン」 と呼び、それは自
 分の 「一生のテーマ」 だと言う。(p.79)

《ビルケナウ》に於いて、下層を塗りつぶす上層という技法を使っていることは、リヒターには 「層」 という概念が顕著であることに他ならない、と思う。塗り込められた下層は不可視だから存在しないのと同じなのだとすることはできない。それが《ビルケナウ》の基本構造である。

またフォト・ペインティングに対してもシャインの言及がある。

 フォト・ペインティングは、描き出した写真画像にボカシやブレを加え、
 本来ピントが合うはずだった面としてレイヤーを出現させる。従ってレ
 イヤーに見立てた《四枚のガラス》(CR160、一九六七年) がその純粋
 な骨格であり形式的な極相であった。リヒターは写真の具象に頼らない
 シャインの出現に向かい、まずはボケ・ブレを極大にして、レイヤーと
 画面が一つに重なる (これがリヒターの 「灰色」 の含意である) 灰色の画
 面、つまりグレイ・ペインティングを制作する。灰色ー鏡ーガラスはす
 べてレイヤーの変奏なのである。(p.80)

そしてアブストラクト・ペインティングと称する覆い隠し、塗りつぶし、削り落とし、傷や痕跡によって下層 (先行する層) に対する部分的破壊を行い、新しいレイヤーを出現させるのがリヒターの技法だと指摘するのだ。

 そのレイヤーは静かに積層するのではない。繰り返される破壊行為の合
 間から、切れ切れに出現するのだ。(p.80)

と清水は述べている。

アブストラクトというのは決して無署名性なのではなくて、スキージやローラーによってキャンバス表面にレイヤーを重ねてゆくその技法は、リヒターという確実な署名性を確保して成立している。

だがそれよりも私が注目したのはフォト・ペインティングという、多くがわざと画面をボカして曖昧なニュアンスを作り出すリヒターの技法である。その究極としての作品がポスターにも使用されている《エラ 903-1》であるように思う。ボカシは曲線を伴い微妙に揺れていて、古いブラウン管の映像のようにノイズを伴っているようにも見えて、そのなかに存在するうつむいた女性像から醸し出されるのは繊細な官能性である。


ゲルハルト・リヒター展
https://richter.exhibit.jp

ユリイカ 2022年6月号
特集:ゲルハルト・リヒター (青土社)
ユリイカ 2022年6月号 特集=ゲルハルト・リヒター ―生誕90年記念特集―




ディートマー・エルガー/評伝 ゲルハルト・リヒター
(美術出版社)
評伝 ゲルハルト・リヒター Gerhard Richter, Maler

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