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魔の時 — モーツァルト:弦楽五重奏曲第4番 g-moll K.516 [音楽]

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弦楽四重奏曲が好きだ。
基本的に4つの楽器による4声であり、音楽の一番裸の姿が見えるような気がする。演奏の形態はオーケストラから独奏曲まで色々なパターンがあるわけだが、特に弦楽四重奏曲は、なぜか飾りが無くてほの暗いホールに立ち昇る至高の音楽、というイメージなのだ。至高というのは私の勝手な思い込みで、つまりこっそりと自分だけで味わいたいという思いにいつもかられる。

というのは以前、ある弦楽四重奏団の定期公演というのに通っていた時期があって、そこで私は数々の知らない曲を学んだ。生演奏というのは良い演奏もあるかわりに悪い演奏もある。ちょっと練習が足りないんじゃないの?という演奏も無いわけではない。だが、たまにとてつもなくすごい演奏に出会うことがある。それは 「魔」 の時だ。それが客観的に見て本当にすごい演奏なのかどうかは、どうでもいいことだ。私のバイオリズムがたまたまその曲に合って、演奏者の体調がたまたま良くて、それらが相乗効果となり、結果としてすごい演奏だったと私が感じることができたのならそれでいいと思う。

CDの演奏では、たいがいそれは何度も録音され、もっとも良い演奏が選ばれて、時には編集されてできあがったものだから、演奏レヴェル的には優れているはずであるが、この 「魔」 の時が来ることは無い。それはしかたがないことだ。

その弦楽四重奏団でも 「魔」 の時があった。それは弦楽四重奏曲でなく五重奏曲だったのだが、モーツァルトの弦楽五重奏曲第4番 g-moll K.516 —— 例の 「疾走する悲しみ」 という惹句で有名な曲である。

私はそんなに心の用意をしていなかった。「疾走する悲しみ」 とか 「モーツァルトの短調には特別な意味がある」 とか、手垢にまみれたそういう形容が頭の片隅にあったのかもしれない。でも、真の音楽の前にはそうした言葉は無意味だ。言葉で語れないから音楽なのだ、と思う。

それは 「疾走する悲しみ」 などという生やさしいものではなくて 「奈落の底に突き落とされる恐怖」 である。これがモーツァルトの 「魔」 である。いまでも思い出すと胸がつまる。

こうした 「魔」 の時は、音楽に限らず舞台芸術にはすべて見られるものである。それがわかっていながら私は今、ナマの現場に行くことがほとんど無くなってしまった。幾ら大量のCDを聴いたところで、それだけでは音楽は半分しか聴いていないのだ、というのがずっと続く反省点である。


Budapest String Quartet/Mozart: The Six Quintets for String Quartet and Viola
モーツァルト:弦楽五重奏曲全集

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