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ルチア — 須賀敦子とヴェネツィア [本]

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須賀敦子のこと・その2である。私はまだ彼女の著作を全部読んだわけではないので、このブログでは少しずつ読後の覚え書きを書いていくつもりである。

須賀敦子は自分の現在と過去の回想とを按配してミックスする独特の語り口を持っているが、過去のことを語るときに出てくる身近の人々の描きかたが上手である。『ユルスナールの靴』に書かれているようちゃんという須賀の学生の頃の友人は、ジッドの『狭き門』をキーワードとした青春の思い出のひとつであるが、その表情とかまでが想像できるくらいにいきいきと描かれていて、しかも彼女は修道院に入ったものの若いうちに亡くなってしまったということを後から知るのだが、命のはかなさのようなものが心にしんと残る話である。

『地図のない道』ではイタリアで出会ったルチアという女性が出てくるが、ルチアもようちゃんとはやや違うが何か似た翳りを持っていて、彼女がヴェネツィアの運河にかかる橋を上がったり下りたりして歩いているという描写の中に、ルチアと須賀との関係性までもが暗喩としてこめられていて、結局最後にルチアはどういう出の人だったのかということは想像のなかでだけで終わってしまうのだが、その不明なことを含めた謎のようなものが、ルチアの思い出として須賀の心の中に残っているのだと思う。

須賀敦子に私が近しいものを覚えるのはその不安感についてである。それは芥川龍之介のように漠然とした不安感というような高尚なものではなくて、もっと卑近な日常生活への不安というのか、つまり日々の衣食住をどうしていこうかというようなことにあって、彼女はそうしたものをずっと引き摺っていたような気がする。だからといって生活のためにどこまでも俗な世界に降りていってしまっていいものなのか。それが彼女の悩みでもあったのではないか。人間は残念ながら知性だけで生きていくわけにはいかなくて、もっといえば知性というものは金銭には簡単に置き換わらなくて、実生活では世俗的で貪欲な、知性とは無縁な生活力のほうを要求されてしまうものだからである。『地図のない道』はそうした不安感が充満しているように見える作品である。

これは話題からずれることだが、人の名前とか愛称はそれぞれが全く関係ないのに心を喚起させられることがある。例えば本に書かれている名前でも、身近にたまたま同じ苗字とか名前の人がいたりするとそれだけで何となく親しみのような不思議な印象を覚えてしまったりするものだ。たとえばようちゃんにしてもそうで、自分の知っているようちゃんと作中のようちゃんとは別の人なのだけれど無意識に関連づけてしまうような操作が働く。
それは何も身近の人に限らなくて、『地図のない道』に出てくるルチアという名前もそうだった。というのは今私はたまたま『ルチア・ジョイスを求めて』という本を読んでいて、同じルチアというちょっときれいな名前に、あ、同じだ、と反応してしまったのである。

ルチア・ジョイスというのはジェイムズ・ジョイスの娘で、いろいろな芸術的志向を持って、こともあろうに父親に対抗しようとしたのだろうがそれはかなわず、結果として精神を病んでしまった人である。『ルチア・ジョイスを求めて』は宮田恭子のジョイスをめぐる論考であるが、須賀敦子がユルスナールを巡ることと自分の回想を対比させたように、宮田は統合失調症であったルチアの周辺を探ることからジョイスに迫ろうとする手法をとっていて、なんとなくアナロジカルな印象を持ってしまった。

二人のルチアは全く関係ないのだが、同じ名前が引き起こす眩暈のようなものをなぜか私は感じてしまう。これは一種の暗合なのだろうか。作者にとって都合のいい暗合は避けなければならない、と書いたのはサザーランド・スコットであるが、それは推理小説の禁忌であって、こうした 「たまたま」 は意外によくあるものである。そうした暗合に私はなんとなく運命的なものを感じる。つまり読むべくして読む本とはあるものなのである。

ヴェネツィアはヴィスコンティの《ベニスに死す》でも描かれた不安定な浮島であり、その存在から来る不安感が『地図のない道』にも影を落としている。ヴィスコンティは脚本でアッシェンバッハを作曲家とし、グスタフ・マーラーの面影を持つ人物として設定したが、マーラーとシェーンベルクの関係性と、ジョイスとベケットの関係性も何となく似ているように思えてしまう。

いや、無理してこれらの相似形を語る意味はない。ルチア・ジョイスに関してはまた改めて書くつもりであるが、ただ人間の感覚とは奇妙なものだと思うばかりである。


画像:Luchino Visconti/Death in Venice (1971) より


須賀敦子全集〈第3巻〉(河出文庫)
須賀敦子全集〈第3巻〉 (河出文庫)




宮田恭子/ルチア・ジョイスを求めて (みすず書房)
ルチア・ジョイスを求めて――ジョイス文学の背景




Luchino Visconti/Death in Venice
http://www.youtube.com/watch?v=J2RsBp_V-8w
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