SSブログ

時代による音 — デイヴィッド・ロバートソン〈Boulez/Rituel〉 [音楽]

DavidRobertson_r.jpg

漠然と読んでいると内容がまるで頭の中に入ってこない本があって、たとえばこの前読み始めたけれど読みかけのままのピエール・ブーレーズの『現代音楽を考える』というのが手強くて、こういうのがわからないとやっぱり私はバカなのかと思ってしまう。

 創造に関わる手順や結果や方法のいくつかは、作者がそれらを発見した
 時には第一義的だと思っても、古びてしまったり純粋に個人的なものに
 とどまったりするだろう。また、彼が無視できるもの、あるいは二義的
 な細部と見なしてしまった着眼が、後になって決定的な重要性を明らか
 にするということもあるだろう。作品の価値、あるいはその直接的な新
 しさと、その不確定な豊穣化能力とを混同することは、由々しい損害を
 引き起こす。(『現代音楽を考える』p.23)

すごく大雑把に読めば、「作曲者が、これが最高! とするものが必ずしも最高とは限らなくて、後で化ける可能性だってあるよ」 ということなのだと思う。
そもそもこの本のタイトルは Penser la musique aujourd’hui で、「今日の音楽について考える」 のであって 「現代音楽について考えている」 のではない。ブーレーズが考えるのだからその対象物は当然現代音楽なのだろう、ということでこのタイトルにしたのだろうと想像できるし、翻訳者のエクスキューズもあるのだが、現代音楽という概念そのものが曖昧なので二重の意味で曖昧な印象を受けてしまう。

それはともかくブーレーズのレトリックは、時にややきわどくて辛辣で、これは果たして笑っていいものなのかどうか躊躇してしまったりする個所もある。
この本の成立はダルムシュタット国際現代音楽夏季講習会で1960年に講義された内容をもとに1963年に出版されたもので、もう50年も前の内容なのにその論理の根幹というか 「言い切りかた」 はそんなに変わっていないというところがブーレーズらしい。

ダルムシュタットの功績は、あくまで後年の評価ではあるがそれなりに刺激的で成果もあったのだろうが、同時に各作曲家間での葛藤や対立もあったらしい。
ブーレーズとジョン・ケージとの関わりについてはタワーレコードのサイトに柿沼敏江の詳しい解説があることはすでに書いた (→当ブログ 2012年03月14日参照)。ケージがダルムシュタットに参加したのは1958年だが、『現代音楽を考える』の訳者 (=笠羽映子) あとがきにもあるように、ブーレーズとケージの再会によって何らかの 「事件」 が起こるのではないかと期待する人々を嫌って、ブーレーズはダルムシュタットから遠ざかっている。
その時、ダルムシュタットでブーレーズの代わりを務めたのがブルーノ・マデルナ Bruno Maderna であった。マデルナはその初期にはシュニトケの提唱したポリスタイリズム (多様式主義) を採ったり、ジュリアードでも教えたりと多彩な才能を持っていたが、悪い言い方をすれば小器用過ぎて疲労を重ね1973年に急逝してしまう。
そのマデルナを偲びブーレーズの書いた曲が〈マデルナを悼むリチュエル/8群のオーケストラのための〉Rituel in memoriam Maderna/pour orchestre en huit groupes である。

Maderna&Nono.jpg
右から Bruno Maderna, Luigi Nono, Nuria Schönberg
(Nuria Schönberg はアーノルト・シェーンベルクの娘でノーノの妻)

それで、私には何となく気になってとりあえず買っておくCDというのがよくあって、その中にこの〈リチュエル〉があったのを思い出した。naïve というフランス盤で デイヴィッド・ロバートソン指揮の演奏である (David Robertson/Orchestre national de lyon)。
ブーレーズというとその作品はどうしても自作自演というのが多くて、2年程前に流通していたSONYインポート盤の Pierre Boulez Edition という1964〜1980年の録音を集めた11セット (だったと思う) の中にも〈リチュエル〉はブーレーズ本人の指揮で演奏されている (ブーレーズ指揮の録音の集成であるのであたりまえだが)。
ロバートソン盤もカヴァー写真がブーレーズであるため、私はブーレーズ本人の録音のつもりで買って、そうではないというのに後で気がついた。
ロバートソン盤の収録曲は〈リチュエル〉の他に、オリジナルのピアノ曲の中から選択しオーケストレーションされている5つの〈Notation〉、それに〈Figures-Doubles-Prismes〉である。

リチュエルとは儀式の意味だが、つまりこれはブーレーズがマデルナに宛てた一種のレクイエムなのだろうか。この曲のキーとなるのはパーカッションで、曲の中で何度も刻まれる一定のパーカッションのリズムとそれに絡む旋律が繰り返される。その音から、思わず木魚のイメージを喚起されることさえある。
楽器の重なりが混沌になりそうで、そこまで達することは無い。初期値に呼び戻し覚醒させるためにパーカッションのリズムがあるような印象も受ける。
比較的有名曲であるので録音も複数に存在する。

ブーレーズの作品はチャンス・オペレーションではないので、ブーレーズ自身の録音とロバートソンの録音とを較べてもそんなに違いはないだろうと思ったらそうではない。強く感じたのは楽器個々の音色の違いであって、私にはブーレーズはややギラッとした色彩感のある音作りであるのに対し、ロバートソンのは透徹していて禁欲的で緻密で、濁りの無い音であるように感じる。
これは単純に上手下手ということより、時代を経たことにより演奏者の全体的なレヴェルが向上したこと、録音技術にも革新があったというような技術的な面がかなり影響を与えているのではないかと思う。そうした結果として、ブーレーズのは作曲家自身のためもあり、リアルで直接的なのだがやや時代の変遷を感じさせる音であるのに対し、ロバートソンのはソフィスティケートされている音であって、私にはロバートソン盤のほうがリチュエルという名称の曲としては相応しいように思えてしまった。ブーレーズ自身が演奏したものが必ず最上のもの、というような今までの思い込みが崩れてしまったことに驚く。
ブーレーズの録音は1976年11月25日と表記されているが、ロバートソンの場合は2002年9月であり、この四半世紀の隔たりは意外に大きいのではないだろうか。

ただアヴァンギャルドな音楽の場合、古典的クラシック作品 (形容が重複しているが) における演奏者、特にソリストの、曲全体に及ぼす顕在感に較べると、こうした現代曲の多人数による演奏は匿名性が強い。それでいてその匿名性の音の品質そのものはいつのまにか日々向上してきたのである。
ロバートソンはブーレーズの弟子ということだが、彼が弟子であるか否かにかかわらず、現代の音楽はそのようにしてレヴェルを上げてきたのであり、リスナーの耳もまた同様に進化しているのだと思わせる。


david robertson, orchestre national de lyon/
boulez: notations, figures-doubles-prismes, rituel (naïve)
ブーレーズ:ノタシオン、フィギュール・ドゥブル・プリスム、リチュエル (Boulez: Notations, Figures-Doubles-Prismes, Rituel)




Pierre Bolez Edition: Boulez Conducts Boulez (SONY MUSIC)
Boulez: Pierre Boulez Edition

nice!(15)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 15

コメント 2

Loby

おはようございます。
ご訪問&コメント、有難うございます。
たいへん音楽に詳しいですね…

私は音楽は好きですが、lequiche さんのように、
”どんなシンガーに対してもほぼ不真面目なリスナー”
なので、特定の歌手とかレパートリーに夢中になることは
ありません。
強いて言うなら、ボサノヴァが好きなのですけど、
ブラジルでは最近はまったく下火となっています^^;

by Loby (2012-11-23 08:00) 

lequiche

>> Loby様

こちらこそありがとうございます。
いえいえ、まだまだ勉強中で全然詳しくはないです。
でも書くことによって頭の中が整理されてくるように思うので、
とりあえず文章にしてみているだけです。(^^;)

あはは。不真面目リスナーなことでは一緒ですね。
ボサノヴァは比較的新しい音楽でありながら、
その求心力を失ってしまいましたが、
このまま無くなってしまうのには惜しいジャンルです。
すごいスーパースターが出てくれば復活できるんですけどね。(^^)
by lequiche (2012-11-23 12:25) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0