SSブログ

小さなマエストロ — 京響の広上淳一を聴く [音楽]

Hirokami01_r.jpg

NHKの〈クラシック音楽館〉は、いつもじっくりと見ている時間が無いのだが、久しぶりにまじめに視聴していたのでその話題を。
3月30日の〈クラシック音楽館〉は、京都市交響楽団定期演奏会の録画だった。2014年03月14日・京都コンサートホールに於けるライヴでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とマーラーの交響曲第1番。ピアノはニコライ・ルガンスキー、指揮は広上淳一である。番組始めのインタヴューで広上が鉄道マニアであることがわかった。

京都コンサートホールには行ったことがないが、正面に左右非対称なかたちのパイプオルガンが作り付けられていて、その手前、つまりオーケストラ背面にも客席が設けられている。設計はサントリーホールのような重厚さとは違い現代的ですっきりとしている。端正で美しい。きっと良いホールトーンなのではないかと感じられる。

ルガンスキーは1972年生まれのロシアのピアニストで長身、立派な体格をしていて、コンパクトな広上淳一と並ぶとちょっと微笑ましい。
ラフマニノフ2番は1900〜1901年に作曲されたよく知られているピアノ・コンチェルトであり難曲であるが、同時に俗っぽい面も持ち合わせていて、暗くて重い悲哀ともとれるメロディが映画やTVドラマ、さらにはフィギュアスケートなどでもよく用いられる曲のようだ。ラフマニノフを否定的に捉えた場合の形容としてよく言われるのが、過剰なロマン派 (浪漫という文字のほうが適切?) 的でユルい構成、凭れかかる旋律、べたべたして嫋嫋とした情感、といったイメージである。つまり官能的とか情緒的という言葉で括られ、さらには憂鬱さや退廃を感じさせる部分も確かにあるのかもしれない。そうしたことも含めてそれがラフマニノフの特徴でもあるのだが。

だがルガンスキーの演奏は、あまりそうしたラフマニノフ的陰翳や情緒性を感じさせない。弱音は繊細に、強打は大胆に、安っぽい官能に溺れることはなくて、もっと硬質な暗い輝きを感じさせる。それは緩徐楽章である第2楽章 Adagio sostenuto で特に顕著であった。
オーケストラも同様に、官能とは違った、地味にも思える的確さでソロピアノを支えていた。いかにもラフマニノフといった常套的なウェット感がしない分、それがかえってラフマニノフの本質を表現しているような気がする。脆弱で過剰な陶酔はつまらないし、白けるだけである。

ロシアにはピアニストの森があって、こうした実力のあるピアニストが無数に生息しているのではないかと想像してしまう。ルガンスキーが学んだピアノ教師の中にタチアナ・ニコラーエワがいて、ニコラーエワはバッハとショスタコーヴィチのオーソリティであった。
ショスタコーヴィチの〈24のプレリュードとフーガ〉はバッハの平均律への頌歌であるが、ニコラーエワによってその全曲が初演されている。

広上淳一の指揮がラフマニノフの常套的ウェット感に堕しない要因を形成していたのも確かである。彼の指揮は非常に細かい指示を出す動きの多いアクションの集積であって、「のだめカンタービレ」 のプラティニ国際指揮者コンクールの話に登場してくる片平元は、たぶん広上淳一をモデルにしているのではないかということを思い出した。片平は身長が低く、表情豊かな明るい指揮で、時にジャンプしたりするのだが、広上はさすがにジャンプはしないけれど片平と似た個性を持っているように感じる。
マーラーの1番の演奏では、その広上の指揮はますます微細に、ほの暗い部分をすべて光でえぐり出すように展開してゆく。聴いていると、京響は弦の統一感が顕著で、タイミングが非常に一致しているため、音が横に拡がらず1本の糸のようになって強く聞こえてくる瞬間がある。これは爽快で練習の賜物といえるのではないだろうか。

この曲の初稿が書かれたのは1888年でマーラーは28歳、若きマーラーを彷彿とさせる作品であるというような解説がされていた。マーラーは自作を指揮するとき、かなりオーヴァーアクションな動きをしたとあり、それは広上の指揮に通じるところがあるかもしれない。

第3楽章 Feierlich und gemessen, ohne zu schleppen では、いわゆる Are you sleeping? のメロディに基づく一種の変奏曲のような様相を帯びていて、その通俗的歌謡性は、通俗性を強く押し出すことによってかえって通俗を無くすというアイロニーなのだろうと私は思う。
広上の指揮は、空間的構成力が豊かで、あちこちで音が鳴るような立体感に満ちていて、それはあらかじめマーラーが仕掛けた構築性ではあるにせよ、そのリズムの細かな統一感、細部までのクリアなイメージで 「青春の書」 的なこの曲の特徴をよく表現していた。
ただ逆に見れば、マーラーの楽曲に共通して見られるデーモニッシュな憂鬱感みたいなものは払拭されてしまっていて、もっとも1番にはそんな翳りは必要ないという意見があるかもしれないが、整合性が曖昧な部分にまで整合性がきちんとつけられている嫌いがないわけではない。だがそうしたクリア感は、幾つものきっかけにより変転してゆくマーラーの真髄を特徴的にわかりやすく表現しているようにも感じる。
「青春の書」 というと私が連想するのは、たとえば通俗的だけれどヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だったりするが、こうしたマーラーだったらハンス・ギーベンラートは死なないだろう、というのがその明るさの根源にあるように思える。


京都市交響楽団定期演奏会 名曲ライブシリーズ2 (京都市交響楽団)
京都市交響楽団定期演奏会 名曲ライブシリーズ2




Cristina Ortiz, Junichi Hirokami/Prokoviev: Piano Concerto No.3
https://www.youtube.com/watch?v=kgkGmbPgYBA
nice!(30)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 30

コメント 2

Enrique

NHKの同番組は私も同じ様な状態です。
ポピュラーな曲ですと演奏者の個性が良くわかります。
指揮者はもともと余り知らないですが,ピアニストも世代交代が進んでいるのか聞き慣れない名前の人を耳にします。総じて前世代の人よりも演奏がスッキリとした印象を持っています。
by Enrique (2014-04-04 06:55) 

lequiche

>> Enrique 様

既知の曲だと余裕を持って聴けますから、
演奏者の細かい部分にまで目が届くのでしょうね。

ピアニストもヴァイオリニストも
最近の技術的な向上はすごいと思います。
もちろん音楽はテクニックだけではありませんが、
同時にテクニックは最低必要条件ともいえます。
もはや 「魂のピアニスト」 みたいな惹句の付いている人は
テクニックが無いことを暗に示しているととられても
仕方がないような感じがします。(^^;)
by lequiche (2014-04-04 23:29) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0