2つの視点 —『yaso夜想』/特集『少女』Filles [本]
今井キラ
かつて『夜想』という雑誌があったが廃刊になってしまって、そしたら昨秋に『yaso夜想』として復刊されたようだ。ようだ、というのはこれ1冊が出ただけで、後続が出ていないので、雑誌ではなく単発の雑誌風書籍なのかもしれない。
「特集『少女』Files」 と表記されているのだが中身はちょっと面白い。
まず宇野亜喜良へのインタヴューの中で知ったのは『KERA』という雑誌のタイトルがジャック・ケルアックからとられたものであること、とインタヴューアーであり編集長である今野裕一が語っている。ケルアックの最も有名な作品名が『路上』(On the Road) だから『KERA』はストリート・ファッション誌だというオチで、wikiにもそのような説明があるのだが、そんなこと言われなければわからない。
そしてそのストリートファッションからゴスロリ (ゴシック&ロリータ) が派生してきたという流れなのだそうである。「もともとは大衆の側にあった」 と今野が言うのは、つまりメディアや業界によって作られた流行ではないことを示している (p.033)。
そもそも『夜想』という雑誌を始めたのは、ボナ・ド・マンディアルグ [旧姓・ピシス] (Bona Tibertelli de Pisis) の日本での展覧会に合わせてピエール・ド・マンディアルグの特集を組んだのがきっかけで (ボナはマンディアルグの妻で画家)、その後の幻想文学の興隆にも繋がったと言っている。しかし今は、その頃に較べると幻想文学への興味とか人気は退潮しているのだそうだ。
この宇野亜喜良へのインタヴューは今野裕一がほとんど対等に喋っていて、インタヴューというより対談に近い。ロリータ服というものに対する視点では、
ロリータ服でも、もともとは服に合うからだをつくって、窮屈さや痛さ
を我慢して着るっていう美学があったと思うんですけど、今はゆるゆる
の服で、見た目第一優先というところもある。誰でもすぐロリータにな
れる、そういうちょっと安っぽい文化になっちゃった。
と言う今野に対して宇野は、
たとえば仮面舞踏会のように、本物にならなくても、お面をかぶって、
それらしい衣装を着ると、それだけで一時的にそれになれる。本物の衣
装を買っちゃうと逆に半年もつか、1年もつか2年もつかわからないファ
ッションなので、それは買えないわけですよね。
と少し擁護している (p.037)。今野の 「服に合うからだ」 という表現は、アズディン・アライアの 「服は鎧」 という西洋的ファッションの視点へと敷衍できるのに対し、宇野の、本物でなくてもフェイクでいい、という思考方法はコスプレの方法論に通じるようにも思える。コスプレはもともとは自分でその衣装を製作するところから始める手作りのものだったが、現在は商業化され、お手軽にコスプレ服が入手できるということにおいてもフェイク度はより高い。
ただ、コスプレ服に限らず、原宿などに存在するかたちだけを追った素材の悪い服を見ると、私はいつも萩尾望都の描いた、そうした状況に慨嘆するドミニク・シトロンの父親を思い出す。
また 「ゲイ文化が少女たちによりそう」 という項の中で宇野は
抒情画家の系譜にはトランス・ジェンダーの人が多い。
と言い、『ユリイカ』の特集で誰かが書いていたけれど、藤田嗣治はそういうタイプであり要素がゲイ的なのではないかと指摘する (p.039)。確かに画家に限定せず、そうした系譜というのは存在するし、最近の腐女子に限らずそうした特質への需要もまたあるはずだ。
辻村深月と今井キラへのインタヴューの中で、辻村はゴスロリについて、
ファッションでは私がちょうど大学生くらいの時に 「ゴスロリ」 という
言葉が一人歩きするくらい流行っていました。服の少女性が一番高い時
に、自分がそこから降りてしまったという気持ちがすごくあって、敗北
感があって、それまで好きだったファッションを、1回やめた時期があっ
たんです。
と言い、さらに
[ゴスっぽい服を] 着てた。でもゴスロリだったわけではなくて、キラさ
んみたいなJANE MARPLEとかMILKが好き。でも、生半可にできるも
のではないと思ったのに、圧倒的にこの先似合わなくなっていくだろう
と思いました。(中略) 「ゴスロリ」 と 「ゴス」 は違うんだということがわ
かって。そもそも 「ゴス」 と 「ロリ」 は一括りにできないし。
と冷静に振り返っている (p.043)。ここでJANE MARPLEとかMILKとこだわるのは今井キラも同じで、これらはロリ的なテイストの原点としてのブランドではあるけれど、完全になりきるためへのためらいを内包しているような気がする。それはゆらぎでもあって、たとえばBABY, THE STARS SHINE BRIGHTだとゆらぎやためらいは無くて、そのかわりにあるのは確信的なゴスロリへの没入でしかない。それは同時にステロタイプへの依存であり、変化するファッションとしての動きは消滅する。一種のトラッドであるとしたら言い過ぎだろうか。フェティシズムとしてのボンデージ・ファッションがベティ・ペイジから以後、全く進化していないのとそれは似ている。
それに対して今野は、
澁澤龍彦たちの時代は、「少女とは」 というように典型として語ることが
可能だったと思います。アリスとか、ある種のシンボルのようなものに
集約して、「少女」 を語っていく部分がありました。今はそれが全然違う。
かなり個的なことになっています。
と分析する (p.045)。澁澤に対する見方は後のページでの若島正へのインタヴューでも出てくるのだが、澁澤を含めてのそうした男性的視線と女性の見る視線とは異なっていて、つまりロリータ的なものは今まで男性的視点からしか捉えられてこなかったための弊害があるのではないかという指摘である。
そうしたファッション的動機は、昨今のフェイク的な指向により、なしくずしに溶解してはいるけれど、少なくとも男性視点からの一面的視点までは堕していない。
ロリータ服にはマイノリティっていう部分が付きまとうような気がする。
基本後ろ指さされるっていう……お父さんお母さんが 「なんていう服着て
るんだ」 とか、彼氏に恥ずかしいと言われるとかっていうことを含めて、
これが私のアイデンティティーだっていう頑張りがある。
と今野は言う (p.049)。
この後、この『ロリータ』の翻訳者である若島正へのインタヴューへとつなげてゆくつもりで、これを導入部として書いていたのだが、長くなり過ぎたので以下次のブログで。
yaso夜想 — 特集『少女』Filles (ステュディオパラボリカ)
『夜想』は図書館とかにバックナンバーが沢山あって、よく読んでいます。結構、挿絵やイラストがエロティックで好きなんですよ。
勿論、文章も読んでますよ(笑)
by シルフ (2014-04-08 14:13)
>> シルフ様
図書館にあるんですか。
それはちょっと思いつきませんでした。
私は図書館をほとんど利用したことがないので。
以前の『夜想』がどんな内容なのか興味がありますね。^^)
by lequiche (2014-04-10 23:57)
知らない名前ばかりでしたが,絵は竹久夢二などにも共通する面がある様に感じました。
by Enrique (2014-04-12 06:44)
>> Enrique 様
あ、なるほど。
竹久夢二は、いわばサブカルの草分けみたいな人ですね。
絵画ではなくイラストとか商業用挿画というような
サブカルチャー的な捉え方をされていたはずです。
そういう意味においても似てるかもしれません。
by lequiche (2014-04-13 00:10)