SSブログ

クリシェのモザイク — チャーリー・パーカーの謎 [音楽]

SaoriYano_answer.jpg
矢野沙織

斎藤憐の戯曲 「上海バンスキング」 の終盤で、主人公たちがビ・バップの擡頭に嘆くシーンがある。自分たちのやってきた音楽が古くなってしまったという気持ちとともに、夢の街であった上海自体が滅びていく意味もこめられていて哀しい。

さて、このところハマッてしまっている河出書房の文藝別冊シリーズからの話題で、今回は 「チャーリー・パーカー」 である。

矢野沙織のインタヴューがあるので読んでみる。彼女は小学生時代、ブラバンでサックスを吹いていたが、5年生のときにジャコ・パストリアスのアルバムでチャーリー・パーカーの曲 Donna Lee を知ってこれをコピーしようと思ったのがパーカーとの出会いだという。
こわいものしらずだからコピーをしようと思いたったわけで、でもそれでコピーができてしまうのがすごいところなのだが、菊地成孔も後述する対談で言っているように誰でもがビ・パップをできるわけではなくて、ほとんどは挫折してしまってそこまで行けない。
矢野がパーカーに対して感じるのは難しい理論的なことはさておき、その歌心だという。

 あんなに速いパッセージなのに頭に鳴ってる音を譜面にすると滑らかな
 流線型をしていて、でもすごく変な箇所に変な音をちょっとズラして入
 れるテクニカルな発想も一方には持っている。私はそんな音にも彼の歌
 が見えるっていうか、速いんだけど前傾姿勢ではないのね。普通の会話
 でも 「いや、でもね」 とか 「たしか、あのさあ」 って脈絡のない言葉って
 多いじゃないですか。それに近いものをパーカーのフレーズの中に感じ
 るんですよ。(p.67)

矢野沙織と椎名林檎は私にとってのアイドルで、そのとんがった部分とかヴィヴィアン・ウエストウッドが好きとかいう部分にも共通したなにかを感じる。
《SAKURA STAMP》は、その Donna Lee を冒頭曲にした矢野沙織3枚目のアルバムで、18歳の矢野の流線型なパーカーコピーが聴けるが、でもこのアルバムで私が一番好きなのは最後の、歌の入った〈砂とスカート〉で、このレイドバックした感じがステキだ。

文藝別冊巻頭の菊地成孔×相倉久人の対談は、その話題を主導しているのはほとんど菊地なのだが読んでいてとても面白い。菊地には『M/D』という大谷能生とのマイルス・デイヴィス本があったが、それと同じようなユニークな印象を受ける。
ここで話題にしていることのなかに、モザイク盤のディーン・ベネディッティ・コレクションと濱瀬元彦の『チャーリー・パーカーの技法』があり、あぁやっぱり、と思ってしまった。
菊地の発言には、「濱瀬先生の本によれば」 という惹句が多く存在する。濱瀬の本が出たあと、それに関する意見をいままでほとんど見たことがなかったので、というか、これに関してはそんなに簡単に意見できないよなぁとは思ったのだけれど、それなりの事件であったということがあらためて了解できた。
(ディーン・ベネディッティ・コレクションというのは、パーカーの追っかけであったベネディッティが録ったパーカーのソロだけを集めた記録である。)

菊地の濱瀬の著書に対する言葉はたとえばこんなである。

 [濱瀬の] この本では、[パーカーの演奏は] 全部コード進行なんだと。1
 音1音が全部和声進行だって分析しているところが画期的なところであ
 って、スケールっていう概念はパーカーにはまったくないんだと言って
 るんですよね。(p.8)

菊地も指摘しているように濱瀬の主張は、ビ・バップはチャーリー・パーカーなどによって作られたのではなくて、チャーリー・パーカーひとりによって確立された音楽だとするのである。
濱瀬が提示した幾つかの概念とその分析が今後どのように評価されていくのかは、まだ時間がかかるかもしれないが、かつてのエルネ・レンドヴァイのバルトーク論のような 「とんでも本」 であるかといえば、たぶんそうはならないだろう。

菊地はビ・バップが対位法なのだともいう。

 [メロディラインが上にあって] ベースのランニングが下にあって、2声
 の対位法の間にピアノのコードが入ってるっていうのがビ・バップです
 から。(p.11)

そしてまた、パーカーの音楽は、芸術性とそうではないところの境界線上の音楽であるともいう。パーカー自身が自分を完全な芸術家だと思っていなかったのではないか、という推論であり、真剣に芸術を追求しているトーンではないともいうのだ。(p.13)

当時、ミュージシャンの誰もが続々とパーカーのフォロアーとなるなかで、それをしなかったひとりとして、菊地はリー・コニッツをあげている。
そしてコニッツは、いわゆるトリスターノ派のひとりとして、インプロヴィゼーションの違いについて語り、パーカーは完全なインプロヴィゼーションではないという。パーカーは多くのストックを持っていて、それをつなぎあわせてインプロヴァイズしていただけであって、それは真の即興ではないというのだ。

 コニッツはストック・フレージングする人と、生成してる人とに分けて
 て、「本当のインプロヴァイザーっていうのは生成してるんだ」 と。それ
 でストックする人はいくらでもクリシェを持っていて、フレイズをその
 場で組み合わせるだけだから、それは純即興じゃないって切って捨てる
 んです。(中略) チャーリー・パーカーもストック・フレイズだって言っ
 てのけるんですね。(p.16)

舌鋒鋭いと菊地がいうコニッツの分析が正しいのかどうかはわからないが、見方としては面白い。でもレニー・トリスターノの紡ぎだすメロディ・ラインはぐにゃぐにゃとしていてまるでaikoの歌のようで、ストレートな感興を抱かせてくれないように私には思える。

ただ最近、パーカーのライヴにおけるソロでは非常に引用が多かったことが次第にわかってきたのだとも述べられている。以前、パーカーはたとえばガレスピーなどと較べたら引用をしないといわれていたのに、なぁんだそうじゃなかったのか、というのも新しい発見だった。でも、そういってもなにかしらパーカーにはまだ謎がある。パーカーはこうなのだと、そうして言い切ってしまえないところがいつまでも残るだけなのだ。


KAWADE夢ムック 文藝別冊/チャーリー・パーカー (河出書房新社)
チャーリー・パーカー (KAWADE夢ムック 文藝別冊)




濱瀬元彦/チャーリー・パーカーの技法 (岩波書店)
チャーリー・パーカーの技法――インプロヴィゼーションの構造分析




Charlie Parker/Bird The Savoy Recordings
https://www.youtube.com/watch?v=52IekQn9H5s

矢野沙織/Days of Wine and Roses
https://www.youtube.com/watch?v=OKCaToOr3Is

矢野沙織/SAKURA STAMP (ちょっとだけ聴ける)
https://itunes.apple.com/jp/album/sakura-stamp/id200912318
nice!(36)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 36

コメント 6

Ujiki.oO

 こんにちは。 チャーリー・パーカーと見て、わたしの鈍い脳が確かに目覚めました。 昔の思い出に浸っておりました。 記事にありがとうございます。
by Ujiki.oO (2014-07-22 10:59) 

lequiche

>> Ujiki.oO 様

昔の思い出、どんな思い出なのでしょうか?(^^)
きっと 「酒とバラの日々」 なのでは?
パーカーは古いようで新しいです。
そのメカニックなテクニックに眩惑され
テクニカルな面ばかりが強調されますが、
矢野沙織がいうように本質は歌心だと私も思います。
by lequiche (2014-07-25 04:02) 

Enrique

ポピュラー音楽の歴史は,クラシックの歴史を時短でたどっている様なものだと言われますが,ジャズの歴史は正にそれなのでしょう。機能和声に行ったり,旋法に行ったりですから,対位法に行くのもありなのでしょう。バッハの時代も即興演奏ありありですから,そこに行っちゃった。
感覚的にしか分かりませんが,ベースランニングと言うのはコード進行と共存する面としない面とがありますから,「対位法」というのは確かに真っ当な指摘のように思います。その意識はあったのかどうかは別として,やり尽くすと新しいものを求める循環はどの時代でも普遍的のようですね。
by Enrique (2014-07-25 22:26) 

lequiche

> Enrique 様

対位法というのは言葉のあやみたいな感じもありますが、
たしかにそういう見方もあると思います。

パーカーのライヴで引用が多かったというのは
最近わかってきた研究の成果らしくて、
つまり会場の雰囲気とか、来た客に関連させて
瞬発的に関連性のある曲をちらっと引用するというのは、
一種の本歌取りみたいなものであって、
それはたとえば藤原定家がものすごいストックを持っていた
というのと似ています。

キース・ジャレットが何もないところからインプロヴァイズする
と言っているのもトリスターノと同様のいわば「はったり」で、
実際にはある程度の構成を考えていなければ
長いソロを持たせることは不可能だし、ありえないでしょう。
それを持たせるのはいかに多くのストックを持っているか、です。

ただ、ではパーカーの全部がコードプログレッションかといえば
そのへんがまだ謎だと私は思います。
パーカーには旋律線の起伏が先天的な感覚で見えていて、
でも一般人にはそれがなぜ見えるのかがわからない。
3次元の人間には4次元がどうなっているのか見えないのと同じです。
by lequiche (2014-07-26 05:11) 

mwainfo

菊地さんのリー・コニッツの見解はその通りですね。コニッツは私の好きなプレーヤーですが、1950年代にあれほど輝いていたコニッツが、60年代に入ると、別人の如く凋落していったのが残念でなりません。
菊地、濱瀬さんの講義は、新宿ピットインで聞きました。満員盛況でした。

by mwainfo (2014-07-26 23:04) 

lequiche

>> mwainfo 様

そうですか。やはり出版記念会があったんですね。
お2人の講義を聞かれたとのこと、うらやましいです。
昨年、唐突 (と私には思えました) にこの本が出されたのですが、
しかも岩波書店という、ちょっと有り得ない出版社で、
でもあまりも難しくて私にはよく理解できていません。

リー・コニッツも私にはよくわからなくて、
それはきっと60年代になってからの演奏を聴いたからだ
と思います。
たとえば European Episode (1968) ですが、
パーカーの Lover Man なども演奏していて評価が高いですが、
なんとなく私の嗜好からはズレているように思えました。
by lequiche (2014-07-27 21:01) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0