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ストルヴァンの嵐 — ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』 [本]

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Julien Gracq (1951年・パリ Le Figaroサイトより)

ワーグナーという固有名詞は一種の踏み絵で、ワーグナーが好きか嫌いかを含めてそれでクラス分けされてしまうような意味合いを持っているように見えるので、私はなるべくそれを避けてきた。ババリアの王ルートヴィヒのようにその魔力に絡め取られてしまったら大変だし、それにそもそも1曲が長過ぎる。
だが完全に避けて通ることはできなくて、たとえばプルーストの『楽しみと日々』をまさに密かなプレジールとして読んでいても 「雪の夜でなければラマルチーヌは読めず、ワーグナーを聴くには肉桂の木を燃やさずにはいられない」 (「イタリア喜劇断章 8 オラント」・岩波文庫 p.87) というような記述に唐突に巡りあう。

フランスの作家ジュリアン・グラック (Julien Gracq, 1910−2007) が 「遅れてきたシュルレアリスト」 として、あるいは 「最後のシュルレアリスト」 として特異で特徴的な位置を占めていることは、以前のブログに少し書いたが (→2014年12月22日ブログ)、そのグラックにもワーグナーに関する記述があるのを見つけて、少し意外のような気がしたのだが——というのはグラックの作品は静謐が支配していて、音を感じるシーンに乏しいからだが——やはりワーグナーというのは 「ある時代」 において、決定的に影響力のある音楽なのだろうとあらためて確認するのである。

グラックの最初の作品『アルゴールの城にて』(Au château d’Argol, 1938) にはその序文のレトリックがまるでブルトンの 「シュルレアリスム宣言」 のようでもあるのを含めて、グラックのその後の作品よりもやや生々しく、彼の繕われていない表情が見えるような印象があって——その違和感のようなものは処女作ゆえの新鮮さなのかもしれないが——、グラックを読み解くのに有用な手がかりが幾つも転がっているかのような感触がある。
それはこれがシュルレアリスムの作品といわれて連想する作品像からは最も遠いような作風ともいえるグラックの、まだ未成熟な面が垣間見えてしまっているからなのかもしれない。

翻訳者の安藤元雄の解説によれば、倉橋由美子がこの『アルゴールの城にて』を偏愛し、そこに能の作劇法と同じ構造を持っていると語っていたのだそうである。
倉橋によればアルゴールの城というのはこの世のものでない別の世界であって、その別の世界に到着する旅の僧というのが能のオープニングのパターンだとすれば、まさにそれをなぞっているようである。
オトラント城やアッシャー家と同じような舞台設定としてアルゴール城があるのならば、そうしたステロタイプを利用して物語を展開させようとするのか、あるいはそうしたステロタイプさこそが寓意であり、その様式を模しているように見せかけながらのヴァリアシオンと理解するほうがよいのか、見極めるのがちょっとむずかしい。

倉橋の後期作品には『反悲劇』とか『夢の浮橋』などの、空虚な様式美を追うような作風が見られるが、それはたとえば 「桂子さん」 みたいなネーミングをする妙に俗っぽい設定もそうしたスタンスから派生した方法論のように思えて、とするならば村上春樹のネーミングセンスも同じような思考方法の結果からなのかもしれないと、ふと思いついてみたりもする。

『アルゴールの城にて』における重要なシーンのひとつ、不在のエルミニアンのベッドで、アルベールが発見するのは1枚の銅版画という、ごく静的なアイテムである。画のへりがかすかに波打っているから、ずっと彼が触れていたからに違いないという、ごく不確かな解析法で。それは他人の行動を推理するにはあまりにとってつけたようなアイテムであり、小説の自然な流れではなく、偏執的こだわりがまさにシュルレアリスム的なのかもしれない。

 その絵は苦痛に悩むアムフォルタス王をあらわしている。巨大な規模を
 持つ神殿、まるでピラネージの作品にでもありそうな、重い、烈しい、
 痙攣的な建造物の、その穹窿や壁の厚みが到るところ、天才の信じがた
 いほどの努力によって、なめらかな表面の輝き具合一つにも立証されて
 いるように見え、この奈落の深みへと垂直に下って来る太陽のどぎつい
 ぎらぎらした光線を永久に奇跡的なものにしている、そのまさに中央部
 で、パルジファルが恩寵を失った王の脇腹に神秘の槍を当て、長い衣に
 身を包んだ騎士たちの顔は、超自然の興奮という奇跡のまさに入口のと
 ころで輝いている。
        (『アルゴールの城にて』安藤元雄訳、岩波文庫 p.166)

ワーグナーだけでなく、グラックの世界観を象徴するようなピラネージとか、痙攣とか奇跡といったシュルレアリスム・テイストな単語が満載である。

いきなりアルゴールの核心から入ってしまったが、少し戻ってこの小説のアウトラインを見てみよう。小説『アルゴールの城にて』に出てくる主要な登場人物は3人、アルベールとエルミニアン、そしてハイデである。

ストーリーの舞台となるアルゴールの城は、辺境に建つ古い城で、それをアルベールが購入したのである。その奇妙な、世間と隔絶した土地に建つ城に友人のエルミニアンと、そして彼に連れられたハイデがやってくるというのが導入部分である。

 彼 [アルベール] はある高貴で裕福な家柄の血を引く最後の一人だった
 が、この一族は世間的な交際が少なく、彼も実に遅くまで、片田舎にあ
 る屋敷の人里離れた塀の中に厳重に閉じこめられていた。(p.15)

 [アルベールは] 二十歳にして成功やら出世の道やらをすべて考慮の外に
 置き、感覚と思考によって世界の謎を解くことを自分の使命と思い定め
 た。(p.18)

アルベールというキャラクターの設定はお金持ちで美形という少女マンガのような理想像であり、それでいて世捨て人のようでもあり、貴種流離譚のようでもある。彼は孤独な存在であり、ヘーゲルを偏愛する。同様の設定が『シルトの岸辺』でも繰り返される。

 わたしは、オルセンナでもことに古い家柄の出身である。子供のころは
 サン・ドメニコ街の古い屋敷と、ゼンタ河のほとりの荘園とを行き来し
 ながら、何事もない、静かな、満ち足りた日々を送った思い出がある。
     (『シルトの岸辺』安藤元雄訳、現代の世界文学・集英社 p.5)

グラックの特徴に風景に対する細密な執拗ともいえる描写がある。それはいつも荒涼とした、人の手の加えられていない自然の姿である。

 右手には一望の荒野がひろがり、ハリエニシダの黄色が目について離れ
 ない。ところどころ、草に埋もれた沼に水が淀んでいて、その岸辺のあ
 たりでは地面も頼りにならず、でこぼこの敷石を踏んで渡って行くほか
 はない。地平線では地形が一つの大きな褶曲で持ち上がっているらしく、
 一種の低い山脈のようになっていて、そこへ浸蝕作用のせいで三つか四
 つのピラミッド形が小高く浮き出している。(p.19)

こうした野生の連綿とした風景描写だけでほとんどが成り立っているような小説が 「街道」 であり、グラックの究極のマニエリスムに他ならない。

 白亜質の土の野では、舗石の継ぎ目に沿ってゆれうごく乾いた繖形花の
 かろやかな波状罫の下で、その明るい石畳は、空間を截ってまっすぐに
 のび、きちんと裁たれた帯のような鮮明さを保っていた。土地の起伏の
 頂に立つと、前方はるか遠くまで、くっきりとしたその爪跡のようなす
 じが高低の波を打ちながら行くのが見てとれた。
   (「街道」 [『半島』に収録]、中島昭和・中島公子訳、白水社、p.15)

アルベールとその友人であるエルミニアンとの間に、エルミニアンの連れてきた美しい女性ハイデが加わり、3人の関係性は微妙に絡まってゆく。アルベールとエルミニアンは友情で結ばれ共犯関係のようでありながら同時に敵でもある。ハイデはボリス・ヴィアンの『日々の泡』のクロエのようであり、人里離れた古城、魅力的な美女といった典型的なロマン主義風あるいはゴシック様式の舞台設定のなかで、アラン・レネ的な様式美が構築されていくが、それら全てが一種のグラック的パロディであるのかもしれない。

 ことによるとアルベールが、要するに極度に不透明な関係にすぎないも
 のを友情という名で飾ったのは勘違いだったのかも知れず、これに対し
 てはむしろ、好みがほぼ正確に一致しているとか、遠回しな言葉づかい
 をするときのやり方が似ているとか、二人が第三者と交わす会話の中に
 ずっと、まるで神の透かし模様のように目に見えぬまま確かに流れてい
 る彼ら独特の価値体系とか、そういったものから考えると、あらゆる意
 味でもっと気がかりな、共犯という呼び名の方がふさわしかったかも知
 れない。(p.44)

3人はアルゴールの城の周囲の海や森の中で遊び続ける。エルミニアンは森の中にある礼拝堂のオルガンを即興演奏したりするが、そのシーンには奇妙なまでに音が実感されてこない。全ては夢の中のように思える。
放埒とも思える遊戯の果てに事件が起こる。森の中で四肢を縛られたハイデをアルベールが発見する。3人の関係性は徐々に崩れ壊れてゆくが、まとわりつく死の影のなかで、すべては仄めかしのようでもあり、うっすらとしたベールの中の出来事のようでもある。

 そして実際に彼は納得したのだ。彼をとりまくこの世界が、その幻想的
 に定着した存在様態のうちに支えられているのは、実はそれを奇跡的に
 虚無の上に維持している何か思いもよらない力がその限界に近いところ
 まで張りつめているからにほかならないということ、そしてこの危うい
 外見は、それが安定していること自体が魂にとっては恐怖の実体のすべ
 てをなしているのだが、ほんのわずかでも力のゆるみがあればたちまち
 目の前でばらばらになって飛び散ってしまうに過ぎないということを。
 (p.120)

小説は様式的な風景描写の積層の末に突如として裁ち切られたように終わるが、その暗い不気味さがシュルレアリスムというムーヴメントの残滓なのかもしれないと感じる。
安藤元雄は巻末の解説のなかで、

 宿命のドラマを書法それ自体によって表現することこそ、グラックがこ
 の作品を書いたときの本当の狙いだったのではあるまいか。(p.195)

と指摘している。
文章を構築する際のグラックの単語選択の尖鋭化と複雑性は、シュルレアリスムにおけるオートマティスムという概念のウソを顕在化させる。自動記述とは自動的に記述しているように見せかける方便に過ぎず、オートマティスムに頼らなくても、むしろ使われる頻度の低い順位の言葉を多数使用することで同様の眩暈のような効果を発生し得ると確信しているかのようだ。
グラックの文体は文章自体が美文なのではなく、事象を積み重ね形容することによって生じる美学なのである。

この処女作はグラックの作品のなかで最もシュルレアリスムの影響を受けていて、言語的にもナマな表現が感じられることでは、彼の作品群のなかで、やや異質とも言える小説である。その後のグラックは次第に言葉を緻密な織物のように扱うことで、もっとゆるやかな、決して人肌を見せないような幻想を編み出すことに集中していったように思える。
実生活におけるグラックはずっと高校教師を続け、作品を書くのは休みのときだけ、といういわばパートタイマーな作家であった。世の中の動きとは隔絶していて『シルトの岸辺』へのゴンクール賞を拒絶したことは有名である。『アルゴールの城にて』と同じ1938年にフランスではサルトルの『嘔吐』が出版されているが、そうした社会的な動向とも、たぶん無縁である。

グラックはメーヌ=エ=ロワールのサン=フロラン=ル=ヴィエイユに生まれ、アンジェに没した。彼の母はシャントセの出身であるが、シャントセとはジル・ド・レの、つまり青髭公の城として知られている地である。
wikipédiaでは、グラックの作風の形容として surréalisme とともに romantisme noir と書かれているが、その作品に彼の先祖伝来ともいえるブルターニュの暗い光を感じるのは偶然ではない。


ジュリアン・グラック/アルゴールの城にて (岩波書店)
アルゴールの城にて (岩波文庫)

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コメント 2

sig

こんばんは。いつもご来訪、ありがとうございます。
「城」と聞いただけで、カフカとポーしか知らないのに、なにか心が躍るような、胸が弾むような気がするのはなぜでしょうね。もっとも映画では中世の物語は大好きなんです。
『アルゴールの城にて』はとても私には難しそうですが、眼を通しておく必要がありそうですね。
by sig (2015-03-09 01:41) 

lequiche

>> sig 様

いえいえ、こちらこそいつもコメントありがとうございます。
sig さんのブログは、ただただ勉強させていただいているだけの状態です。

城というのは最も閉鎖された環境なので、
台風とか大雪で家に閉じこめられたらわくわくするみたいな
あの状態の一種といっていいのかもしれません (子どもみたいですが)。
魔の山とかオリエント急行の閉じ込まれ状態も似ていますが、
城は物理的に閉塞感が最上級ですから、
むしろわざとそうした設定にするという安易なステロタイプなので、
グラックは最初からそれを狙っていたのかもしれません。

グラックは晦渋な作家といわれていますが、
言葉にリズムがあってそれに乗れればそんなにむずかしくないのです。
シュルレアリスムは音楽をあまり重要視していなくて、
それはブルトンが音痴だったとかいわれていますが (ギャグです ^^;)、
言語に内在するリズムをつかめるかどうかということと
音楽の理解とは共通性があるように思います。
by lequiche (2015-03-09 13:02) 

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